長良川中流域の美濃市曽代を取り入れ口とした曽代用水(そだいようすい)は小倉山(おぐらやま)の麓を巻いて美濃市・関市を流れ,下有知(しもうち)・小瀬(おぜ)を通って再び長良川に合流する農業用水です。
この用水は江戸時代初期に喜田吉右衛門(きだきちえもん),林幽閑(はやしゆうかん),柴山伊兵衛(しばやまいひょうえ)の3人によって新田開発計画として立案されました。開発当時は開発する地域が尾張藩領や旗本領にまたがっていたいたため開発許可がなかなかおりませんでした。
用水の工事も,美濃市小倉山の付近では堅い岩盤をくり抜いて用水を通すなどの難工事が続きました。当時は火薬を使わず,のみなどを使って人力で掘りましたので大変な時間とお金がかかりました。
また,流域全体に用水を行き渡らせたり用水の修理などのために開発者は家財をなげうち,やがて没落してしまいました。開発者の没落後,曽代用水は農民が管理する用水にかわりました。
明治時代に入り,開発者の顕彰碑や開発者を祭る神社が建てられ,現在では,曽代用水管理組合が管理して美濃市・関市の農業用水としてなくてはならないものとなっています。
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