明治20年から始まった木曽川下流改修工事を指導したことで知られるヨハネス・デレーケ(Johannis De Rijke.1842〜1913)は,明治政府が河川改修や港湾計画のためにオランダから招いた「お雇い外国人」の一人として明治6年に来日しました。
同時に来日したオランダ人が次々と帰国する中,デレーケは明治36年(1903)に帰国するまでの30年間,主に西南日本の港湾改修や治水と改修に取り組み偉大な足跡を全国各地に残しました。
デレーケは,日本各地の港の調査や利根運河の計画改訂,淀川水系の砂防計画などを手がけた後,明治11年(1878)以降は主として木曽川の改修工事を担当するようになり,合計15回に及ぶ実地調査を行い木曽川下流改修計画を完成させました。デレーケは水害の原因として,木曽川の流送土砂が河道を埋め,河床が上昇し堤内の排水ができなくなることを強調し,これを改善するために木曽川,長良川,揖斐川の間に背割堤を築き,完全に分流することを提言しました。
デレーケの治水思想の特徴は,まず砂防を強調したことにあります。山のないオランダから来たデレーケでしたが,「川を治めるには,まず山を治めること」という彼独自の理論に基づき,各地で砂防堰堤を構築するなど,治山に力を入れました。もうひとつの特徴は,木曽川や淀川で提案した改修計画にも見られるように,下流部に新たに放水路を造ったり河床の水の流れをよくする方法を重視していることです。これは,デレーケがライン川河口部の出身であることから納得できます。
明治改修の大成功が,全国の河川改修を促進する引き金となり,「治水三法」と呼ばれる「河川法」,「森林法」,「砂防法」が明治29・30年に作られ,デレーケの指導はわが国の治水・砂防事業として脈々と今日まで受け継がれています。
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