油島締切は揖斐川と木曽川を分断するものでしたが,完全に締切れば水位の高い木曽川が常に洪水に見舞われる危険にさらされ,しかし,中開けにすれば,木曽川から流れ込む水で揖斐川が氾濫してしまいます。両方の村からの直訴が始まり,工事は水位の高い木曽川の水圧を見ながら,締切るかどうかは最後まで決めないまま進みました。
この工事に関しては,工事を町請け(地元の大工に頼むこと)にすることが一部許可され,藩士達と協力して工事が進められました。分断の方法は,川の中に石を積んだ舟を沈めて基礎を作り,その石の上に堤防を築きます。石積みの舟を漕いでいった者は,沈めた後激流の中を泳いで戻らねばならず,犠牲者も少なくありませんでした。結局,水圧の関係で,揖斐川と木曽川は完全に分流させず,中開けの堤が築かれました。そして,その堤の上に犠牲者を弔うため九州から取り寄せた日向松が植えられました。この松林は,「千本松原」として現在も残っています。

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