瑞穂市穂積町を流れる五六川が犀川に合流するすこし上流に五六閘門または牛牧閘門と呼ばれる水門(樋門)があります。この水門は,長良川からの犀川を通って逆流した水による水害から穂積町を守るため,明治40年(1907)に造られたものです。
この地に水門が作られた歴史は江戸時代にさかのぼります。宝暦7年(1757),穂積の本田代官となった川崎平右衛門は建設に反対する上流や下流の輪中民を説得し,この地に初めて木材で水門が造られました。
その後4〜5回建て替えられたのち,明治40年に「人造石」工法で永久的な水門を造ったという経緯があります。
2つのアーチ形をした樋門に観音開きの鉄扉を備えた,この閘門はマサと呼ばれる風化花崗岩を砕いたものに石灰を混ぜた「たたき」土を使い,たたき固め,その表面に自然石を「浮き石」積みにした人造石構造物です。
人造石工法は,わが国の左官の伝統技術である「たたき」の発展したもので,コンクリート工法が普及する前の段階に属する土木技術で,明治・大正期にかなり広く行われた工法でした。
愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会の調査によれば,発祥地の愛知県では,人造石構造物の遺存例も幾つか発見されていますが,岐阜県でどの程度実績があったものか不明です。
これまでに分かっている人造石構造物は,この五六閘門と「天王川伏越樋」のみで,五六閘門は,外来技術と伝統技術(石積み技術・たたき技術)が混在していたわが国近代土木技術の初期段階を示しており全国的に見ても貴重な産業遺産といえます。
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