それでさっきも言ったように、戦争が進んできたちゅうのかね、出征してったのが18年で終戦が20年でしたもんで、その間はやっぱりさっきも言ったようにご飯っていったってまともなご飯食べれなかったんです。芋とか代用食とかすいとんとかそういうものばっか食べて生きてきたちゅうことやね。これも、作ったものを食べるだけでしたもんで、自分でとってたべるとか作って食べるとかそういう事じゃないんですもんでね。比較的苦しみは少なかった。ただだんだん怖くなってきたというのはさっきも言ったように、各務原とか岐阜というのは空襲に遭いよったわね。ほいでね、西の空が真っ赤になってね、岐阜も爆撃に遭ってね。それから各務原の飛行場ね。蘇原の駅のあそこらへんはもう酷くやられたと。ほんでここの近くでいうとカヤバ工業もね、焼夷弾が落ちたんです。知っとるかね。(知っとる。ダーッてね。)ねえ。あれはもう、何年やったっけまあその時もね、空が真っ赤でね。(藪へ行ったの。)そうでしょ。藪へ逃げたんや。そうです。逃げるとこがないもんで。ほんで防空壕へ、防空壕っていってもそこらへんの田んぼや畑、田んぼはないですけど。畑やなんかはほとんど防空壕って言ってね、あんなとこそんなん爆弾なんて落とされたら一発でやられることは分かっとっても、そういうものは作りよったんです。ほいで上はなるだけ分からんように、芋を作ったのね。最初そういうカモフラージュはしとったというような覚えはあります。まあそういうときはほんとに苦しかったわね。