A.Nさん 沖縄戦について

あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。

だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。