投稿者「nabe」のアーカイブ

T.Nさん・奥さん 雪駄の思い出

「皇国の荒廃この一戦にあり。」日本の国のことやな。日本の国が発展するのも、廃墟になるのも、この一戦にありということを、山本さんは言ったんやね。で、どちらにしても一層努力せないかんよっちゅうことを。おじさんたも結構、石投げをしたり竹槍持って。お母さんは1年か2年か。(小学校、やない、国民学校の1年やね。)上がったくらいやな。国民学校やで。上がったくらいや。(上がったばっかしで、終戦。)おじさん知らんもんで。

(みんな、大きい人に連れてってもらって逃げたはいいけどね。折角新しい草履を買ってもらったんやわ。どこで買ったんか分からんけどね。それを、逃げるときにこんな溝の中に落としてまって。ほんでもう拾いに行く、帰るってこともせんのや。怖くて。ほんでそのまんま来て、「ああ、もったいないことしたな、もったいないことしたな」って。あのころは配給でしかもらえんかったね。履物なんかね。でそれをどこでどういうふうに手に入れてもらったか知らんけど、藁草履やない普通の雪駄みたいな。ああいうのを。結局そこで新しいのを落としてまって。)

T.Nさん・奥さん 戦後とアメリカ兵

それからまあ、段々段々と時が過ぎて。今の富加駅の前は加茂野駅になっとったの。そこの前に、こういう集積所っちゅうとこになっとってね、そこなにがこれ入れたったっていうと、日本の剣道の防具とか、銃剣術のとか、そういうのが入れてあったんやね。で、結構アメリカ人が、そういう戦争の道具がいれてあったもんで、アメリカ人が来るの早かった。ここへ来るの。で、ずっと大きな車で来てね、調べて歩いとったね。(わしらはね、チョコレートもらったり、ガムもらったり)早かったよ来たのは。終戦直後のほんと早い時。もうそういうとこよーく知っとるんやね。軍隊で使う銃剣術やると防具がいるやら。そういう防具とか、まあなんちゅうかな、毛布とか、そういうものが入れてあったんやないの。たくさん。そやもんで、調査に来たんやね。早かったよ来たのは。(学校の校庭にね、アメリカの飛行機がいっぺん降りたことがあるよ。)学校にもちょっと入れたったね。(私らはさほど深刻やないやら。小さいもんで。やもんで、チョコレートくれるしね、いい人やなと。でもあのころは英語が喋れんかったもんで、野球でも、それこそピッチャーやキャッチャーなんて言葉使えんし)

T.Nさん 予科練へのあこがれ

僕らはただ低学年の誘導したりなんかして。うちの親戚の若井っていうのがね、ちょうど予科練に入ったんや。7つボタンで。ちょっと暇なときあったのかしらんけども学校へ来たんやね。で学校で来てみんなで、生徒全部のとこで集めて挨拶してくれた時に、7つボタンでかっこよかったもんで、おじさんも、憧れてまって、「よし、俺も7つボタンに行くぞ」言って、要するに予科練ちゅうんやね。でそれに俺はなら絶対行くよっていって。でもう2年、戦争が続いておれば、おじさんたも、当然行っとる。もう18,9で飛行機乗って死んどる人はたくさんおるんやでね。で、今いくつ?14やな。18歳って言ったら4年やら。そんなころにはもう兵隊に行った人があるんやね。おじさんもそれで憧れて、おじさんたの時は今みたいに6・3・3制やないもんで、6年で高校行きよったんやでね。そんな時分やったもんで、6年生卒業したらもう早やそういう予科練の訓練を受けることもできるんや。そんな時分やもんで。やけども終戦になってまったもんで行かなんだけども。すごく憧れて、「よし、俺も予科練行くぞ」っていって、もう2年も戦争が続いとんならおじさんの命はあったのか無かったのか分からんわ。それくらい切羽詰まった状態やったんやね。日本はね。

T.Nさん レイテ島の戦いと兄

で、段々段々段々と、戦争もたけなわになってきて、初めのうちと大本営発表も全然変わってきたの。サイパンがやられ、ニューギニアも占領されて。その時分に兄貴んたは、釜山から、満州におったもんで、満州寒いもんでほんでこういう格好しとったんやね。で、もう戦争の終る頃に釜山から、今度フィリピンに、レイテ島の方へ向かって行ったんやね。で早そのころは、サイパンもおちてまって、もうほとんど死ににいったようなもんやね。レイテ島なんか。もう行くなんて。ここがレイテ島ね。これフィリピンでレイテ島。でサイパンはこの辺なんやね。ここへ行って、そのレイテ島へ。うちの兄貴んたはそんな激しい戦争の中やったんやけども、一応上陸したよっていって手紙がきたんや。レイテ島に上陸しましたよっていって手紙が来たんやけども、結局着いただけのことであって、もう、ここのあれもものすごい激戦地やったもんで、結局上陸しただけやけども結局やられてまったんやね。全部。もうこの時分は、みんなサイパンもやられ、もうほとんど、ほとんどこの辺に少しくらい日本人がおっただけやねえの。そんな状態でもう、先はほとんど見えてまって、これはね、もう19年の終りやな。20年に近いころやね。もう戦争が終わるすぐ。で、戦争済んでから遺骨が入ったのを、送ってきたんやね。うちの親父が、それを遺骨を、開いたんやね。ほしたら何が入っとったかいうとね、石が入っとっただけ。石が。その石やったって、どこの石かわからへん。でもまさかレイテ島の石やあらへん。その時分骨も拾えんやろ。ほんで親父は怒ってそりゃその遺骨をバーンと畳の上ぶつけてね、その憤りは僕らでも怖かった。横におっても。それくらいあの、悲しんどったわ。それからもう、間もなくして戦争が終結してまったんやけども。

T.Nさん 隣組

その時分は町内ではね、今「絆」っていうけど昔はね、一軒一軒にどこの家もこの防火用水を作らないかんかった。ドラム缶とか、水桶とか。で、もし焼夷弾が落ちたら、これを皆さんが、バケツも用意してあるもんで手渡しで、その町内の落ちたとこへ、消さないかんちゅうことで、各家庭でこういう防火用水ちゅうやつを必ず作らないかなんだ。そのときに、「向こう三軒両隣」ちゅうのを、昔はよく言ってたの。それと同時に、「とんとんとんからりと隣組廻してちょうだい回覧板教えられたり教えたり」って言って、いろんな、戦争の避難とかやるのを、町内ごとにこうやって連絡しあって、待機しとったんやね。で、いざ、このへんでも空襲警報で敵機が来るようやったら、皆さんと一緒に逃げて、団結して、戦おうっちゅうような気持ちでやっとった。こうやって、お互いに助け合おうちゅう気持ちで頑張っとったんやね。

T.Nさん 岐阜空襲

それから岐阜の時はおじさん全然知らんかった。もう岐阜の空襲はほとんど近くやもんで、(防空壕で、ぼおっとして見とったら、ものすごいきれいなの。小さいころやで、小学校あがったばっかやもんで。ほんでもう花火見とるよりきれいやってね。戦争っていう何やあらへん。)あのね、焼夷弾をばかばかばかばか落とすもんで、すごいあれやった。

T.Nさん 美濃太田駅

ほんで、段々段々と時が経って、美濃加茂の太田駅。あそこもね、機関庫っていうのがあるわけね。列車の修理する車庫みたいなとこがあるの。でそこをめがけて艦載機っていってね、船から飛び立ってきたの。その艦載機がね、僕らそこで駅で見とったら、その目の前をうわーっといってね、ほんで太田をバババババーって2回も繰り返して。日本の戦闘機と一緒やもんで、ガソリンたんと積んどらんもんで、2回くらい撃って、そのまんまびゃーっと帰ってったけどね、そんときは、1機だけ来ただけ。バリバリバリっちゅう音まで聞こえたよ。駅で僕らが5年生の時に聞いとった。それくらい来て、まあそれでも、なんちゅうの。自分たでは、日本は負けるなんてそんな気持ちはなかったな。うん。ただ、すごいなっていう感じやったわ。

T.Nさん 名古屋空襲

で、段々段々と厳しくなってきて、もう愛知県にも空襲警報が入るようになって、朝からもう早や空襲警報なると、学校行かんでもいいんやね、自宅待機で。今でいうと。やけどもおじさんたは、友達つれて長良鉄道、今でいうと越美南線やけども、富加駅でホームのはしっくれに座って、名古屋空襲されとるのを見とったのね。ほうするとね、ものすごい何機か来て爆弾落ちるのわかるんや。日本の高射砲で撃ったやつが、途中でぽこーん、ぽこーん。とやっとるだけで、当たらへんの。B29なんてどえらい高いとこくるもんで、届かへん。【それがここから見えたんですか】見えたよ。天気のいい日は見えて、B29の形まで見えた。ほんでどんどんどんどん落とすんやけども、全然、撃っとっても当たらへん。

T.Nさん 学校生活

で、段々段々と戦争が激しくなってきて。おじさんはそん時5年生6年生やったもんで。戦争が激しくなってくるとラジオから、「大本営発表」ちゅうふうにまず出てくるんやな。陸軍の方から。「敵機、B29が、潮岬南方洋上に、数十機」とかいうふうに放送されるもんで。ほして、やがて2時間か3時間してくると、空襲警報言って、愛知県とか岐阜県とかに、サイレンが鳴る。ほうすると、僕らはちょうど学校の帰りやちゅうと、低学年を、ちょうど通学路に山があったもんで、その山に避難するとかさせとったんやね。ほしたらね、カラスヘビって言ってね、山にヘビがおって、真っ黒のヘビ。それがぺぺぺぺーっと木をつたっていったもんで怖かったもんで、今度下級生を道路の反対側の麦畑の方へ下級生移して、麦畑に皆伏せさして、空襲警報が解除になるとじゃあって言って、家に帰させよったんやね。で学校で空襲警報なると、5,6年の人みんな低学年の生徒を、竹藪。竹藪ちゅうのは、根がいっぱい張って結構丈夫いもんでそういうとこへ、皆さんを避難させる。そういう誘導役なんかを上級生はやってたんやね。普段空襲警報でないときは、上級生の僕らはほとんど勉強してなかったんやな。先生に連れられて川へ行って、対岸の方へ石を投げるの。みんなしてずーっと並んで。それはなぜかゆうと、敵が攻めて来たらその石を投げるということをやってたんやね。でも今思うとそんなん向こうが鉄砲撃ってくんのに石投げなんてやったってそんなもん追いつかへんのやけども、それでもやっぱりその時分は、もう一騎団結しとったもんで、それが、敵に向かってやればいいっていうもうそういう信念しかなかったもんで。でそれをとにかく一生懸命、石投げとかを練習したりして。学校へ帰ると、竹槍っていって、竹で槍にしたのを、藁人形に向かってやーっと進んでだーってやって。5,6年のうちはもう空襲警報鳴る以外はそうやって練習しとったの。

T.Nさん 兄の入隊

おじさんの兄さんは、18年やと思ったよ。18年に入隊して、ここのもうちょっと向こうの町内なんやけども、そこからお宮さんへ行って参って、町内の人が旗を持って、「勝ってくるぞと勇ましく、誓って家を出たからにゃ、手柄立てずに帰られよか進軍ラッパを聞くたびに、瞼に浮かぶ、母の顔」そう言いながら、兵隊さんにこうやって、旗を持って、送り出したんやね。これは日本全国どこでもそうやったと思うよ。こんな歌聞いたことないやろ。【お兄さんおいくつの時の出兵なんですか。】20歳で亡くなっとるで、レイテ島で20歳になっとったよ。…ちょっと待ってよ。24歳やったか。24歳か。2年やもんで、22に早もう行ったかな。でその時に奥さんが送った言葉に、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」こういう刺繍したやつを兄さんに送ったんやね。戦争行くときに。敷島のって日本は、昔から敷島のって言ってそういう名称もあったやな。とか山桜花って言うのは、やっぱり日本の桜やということで。そういうことで、頑張ってくれという意味のあれやろうなあ。この言葉は、本居宣長の言葉なんやな。「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」っていうのを。それを送って、送り出したんやね。