投稿者「nabe」のアーカイブ

K.Oさん

忠君愛国の世の中

取材時年齢

92歳

取材時在住

美濃加茂市山之上町

取材年月日

平成27年8月7日

兵隊検査

歳はあの人(S.Hさん)より一つ上。あの人は、大正14年の4月1日に生まれただろ。この私は13年の8月18日に生まれとる。学校は1級上やで。兵隊検査は一緒。わしんたの年は適齢やって言ったやら。ほれで繰り上げって言って、1年したらもう一緒にやったの。兵隊が大勢要ったで。あの人とは繰り上げで一緒で。4月に兵隊検査を受けて、早いものは8月の31日に兵隊に入ったの。あの人?分からんわしには。いかに行かしたということがね。その年の内に行ってまっとるでよっぽどのものが。19年に。

忠君愛国

【戦時中に体験されたこと、気持ちなどは?】戦争の時分の気持ちは、なんにも他ごとないで「忠君愛国」って言って。君に忠義、国を愛する。それに尽きる。昔の日本人はな。ほんで唄でも、「海行かば、水漬く屍山行かば、草生す屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ」という唄を歌って行きよった。それを誰が作らしたということはおじいは知らんけども。そういうことを若いもんに教え込んでしまって、戦争をやったの。で覚えるね唄でも。「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯といでたつ我は」ちゅう。それは大昔、朝鮮から攻めてくる、九州へ。あそこ行って防ぐ兵隊に、、防人や。そういうふうに、唄あった。それは天皇陛下のためということを伝えることばっかで。日本中がそういう気持ちになってまっとったんや。ちょっとも苦にせやならんだ。わしんとこ兵隊で行っても、死ぬものだとしとった。わしは行かなんだけどもな。行けなんだで今残っちょる。今でもこんなえらがっとるちゅうことは、若いときからそういうふうで。えらかった。そんやもんで行けなんだ。

連れ

生きておれるだけの空気を吸っとる。今でもね。こんなもんで吸っとる。まあこういうことで、男は日本中でも少ないの、今現在90越せるのは。男は80代で亡うなってまって、90ゆうとよう越さん、なかなか。おじいんたの同級生でも、おととし12月までに、その前年91ていう年に7人亡うなった。8人おったんやけど。でおじい1人残っただけやった、92の年に。だいたい90は容易に越せんなあと思って。山之上ばっかやないよ。古井も川辺も太田も連れいっくらでもおるでおじいには。福田さんもや。そうやってみるとそれが、おらんようになってまった。おれんかおらんか分からんけどね。戦争と両方で。

別にね、戦争に行かんとっても情報はどえらいことある。当時新聞を見とる。テレビはないでラジオだけ。そのラジオも無い家が多かった。ここへ天皇陛下の玉音放送でテープを持ってきてやっちゃる。今度、皆で聞くようにって。おじいちゃんは、今でも本が好き読むことが。皇室図書出版協会ちゅうとこで、昭和天皇、天皇陛下の本をいろいろ買ったら、録音テープを2つ送ってくれてあったで。ほんでそれがひとつは、終戦の?っていって、まあ負けようさといったときの、天皇陛下のお言葉のね、録音は持ってきたるここへ。みんな忘れちまっとるでいっぺん聞かせようちゅうて。ほんでおじいちゃんの兄弟は戦争で亡うなっちょるで、そこに毎年、昭和60年からおととしまで行きました。おととし末に患ったもんやで行けんようになってまった。ほれでもまあ去年と今年はおじいの子どもが行った。靖国神社は毎年行くで。今度の15日も、子どもは東京へ行きます。美濃加茂で5人かそこら行くやつ。お姉ちゃんはどこや。古井の本郷町。あそこらにはだあれも、おらんなあ。おじいんたの連れでもまあおらんもん古井でも。下古井にひとりおる。

おじいもよっぽど記憶しとるつもりやけども、書いて残いとかんであかんのや。書こうかなーと思っておるだけで、生涯の思い出として。

国を守る

この負けたときには、前の天皇陛下がね、「朕はどうあろうとも、無辜の国民をこれ以上死なすことできん」と言わしたで。それは広島に新型爆弾落といたやら長崎の事やら、いっぺんに何十万と死んでまっとるや。何にもせん人が。兵隊なら別やよ。で無辜の国民ちゃあ、何にもせん人やら。そういうことを考えてみると、やけどもそれやったら天皇陛下のために死んでまうことやったけども、天皇陛下はそんなことやない。考えたら。まあ?あん時の日本の大将、東条英機かだれか戦争は?っていっとって、はじまらなんだ。天皇陛下が?したで受けたの。そういうことをテレビでやっとらした。昨日NHKのドキュメンタリーとかで。毎晩やっとるわ。8時からか、おじいちゃん10時くらいまで見とるで。そういう事を考えるとありがたい天皇陛下で。日本の国民全部が一致団結して、日本を守っていくちゅうこと。手前勝手なこと言わんように。おじいちゃんはその気持ちは、絶対今でも変わらせん。戦争中やろうと。平和やちゅうことは、戦争があって初めて平和や。うん。そういうことを聞きに来てくれるでありがたい、おじいちゃん話いてやれるで。今の子どもにそれを伝えると思う子どももおらん。ほんでもなんで嫌いやちゅうことや。嫌いやない、大事なことやぞって。おじいちゃんはそう思う。そうやったこうやったって。

桜の散り処

70年前に、隣のお兄が同い年のお兄が兵隊に行くとき。そのときに唄を作る。村長さんが好きやったと。おじいも好きやったよその時分から。唄で覚えがあるで。「征くは南か、東か北か西か桜の散り処」征くとこは西かって、地獄か極楽か進んで行くとこやで。攻めてくは、南方か東方か北方か。全部言っとる。兵隊を桜と言った。大きな桜と唄っとるわ。桜ということは兵隊、人間。若い。咲いていたと。ほんでそれが散りごろかといわした。おじいちゃん、70年前のことちゃんと覚えがあるんやで。そう?自分に?やないけども。
おじいちゃんも役場行ったよ。おじいちゃんは昭和15年の4月から18年の7月まで役場やった。ほれで大分?教えてもらいました。今のおじいちゃんのお父さん。そのおじさんは、?人やった。ほうしていろいろ教えてもらった、坊やで。小学校は?で。ほれから、あと農業へ移った。そうして戦争に負けるまで農業に。当時は産業組合っちゅったけどね、農業へ移って。終戦でまあ百姓やりますか。食べ物作らな生きてけんもんやで。親が年寄になるでな。でおじいちゃんは親のおとっ様は43、おっかさんは41に生まれた末子。一番末子っていうか末。末っ子。

よう聞きに来てくれた

そんなことやけども、よう聞きに来てくれた。ありがたいわ。聞きに来てくれやあ。おじいちゃんは家に孫がおらんで。嫁さんがないで。おじいが死んだらそれきり。うん。子どもが古井の川合の3丁目に行っとるもんやで、世話になって今生きとるだけ。まあ死んだかもしれんで。うん。ありがとう。

S.Fさん

役場の業務と入隊

取材時年齢

91歳

取材時在住

美濃加茂市山之上町

取材年月日

平成27年8月7日

入隊

私は大正5年1月生まれで、山之上町です。小学校は昭和7年に入って6年おって、中学ちゅうか昔やで高等1年、高等2年。ほんで加茂農林。僕らは戦争中やったもんで12月に卒業して、家は百姓やもんでね。農業を1年。ほんで19年の1月から、山之上の役場へ来てくれっちゅう話で、行って。徴兵検査が19年の秋にあって、僕らは繰り上げ徴集って言ってね、普通21なって、徴兵検査受けるんや。それが僕らの級のもう一つ上の組から1年繰り上げになったの。やもんで、早く徴兵検査やってね。ほんで昭和20年ね、終戦の年の。兵隊に行くのは、4月の23日入隊。僕らは山之上の西洞っちゅうとこにおって、23日に行くときは、皆さんに挨拶して古井の駅まで送ってもらってね、ほんで汽車に乗って岐阜へ行って。その時には、岐阜市あたりは空襲もなんにも受けておらんで普通の町であったけども。それから三重県の久居ちゅうとこが、自衛隊があるね。そこに入隊をしたんです、23日に。そこに3か月おって、それから部隊を移動をしたもんで。

赤紙

僕らの上の兵隊さんはね、召集兵って知っとるか。何月いつかに入隊すべしっていう、赤紙が来るわけ。その赤紙が来ることも、僕は役場で宿直やなんかやるでしょ。そういう電話がくるの。召集令状が来たで取りに来いっちゅうて。判持ってね、取りに。どこへ行った覚えないが、古井の駐在所やなかったか知らんと思うけども、行ってもらってくる。判を押してもらってきてね、その兵隊さんのとこへ持っていくの。持ってって。「こういうふうで赤紙がきたで、ご苦労様ですけども、何日には入隊してください」とお願いをして、出てくんやね。それは兵隊に今まで行ってきた星のある人ね。そういう人んた、日にちある限り、ちゃんと間に合うように行かれるわけですけども。それから行くときには、まあ出陣ちゃうか、村の人がね、太田の駅まで古井の駅まで見送りをして下れる、一緒に行って下れる。古井駅行って、そしてまあこういうふうで行くんだという挨拶をしてね、古井から汽車に乗って、それぞれの司令される部隊に、行くわけやおね。

古井から掛川へ

ほんで私の部隊は古井まで行って、その時分は青年やったもんでね、青年の人んたと一緒にお勤めしとったもんでね、古井から青年の人が2、3人一緒に汽車に乗って、岐阜まで送っていただいて。ほんで岐阜からはまあ?もんで、三重県の久居まで行って、23日に入隊したということで。全然知らん人んたと兵隊さん一緒になったね。そこで部隊編成をして、私は歩兵の連隊砲っていう、小銃やなしに大砲やね。口径が7.5cm。弾飛んでいくとこやね。そこが7センチ5ミリのこういうね。それを引っ張ったりね、いろいろする。馬も…何匹やったか。覚えないけどもおるわ。僕たちは、ごこく?ってやつ知っとる?三重県の久居で部隊編成をして、少年兵教育っちゅうものを三月やって、それから移動やっちゅってね、その兵器やとかいろいろ持って汽車に乗って、どこへ行くのか知らんと思って、夜移動やったもんでね。全然どこやなんや知らんもんでわからへんやら。で、ほしたら夜中に着いた。どこや知らんと思って行ったら豊橋から、二俣線ちゅう汽車に乗って、着いたとこやね、あそこは掛川ちゅう駅があるけどそこまでの中間、静岡県で降りて。部隊本部は無かったもんで、中学校の教室を開けてもらってそこ入ったね。僕らはそれぞれ小隊ごとに分かれて、小隊っちゅうとだいたい20人か30人くらいやないかな覚えないけども。公民館あるでしょ、部落の。そういうとこへ収容されたんや。

訓練、そして終戦

次の日からは、部隊法やらいろいろそういうことを、終戦までやったわけやけども。まあどこの誰やら分からん人んたと一緒に訓練やって。その当時はまんだ戦争もね、南方の方でやっておったもんで、僕らの時分には、まあどっこも外国へは行けなんだ。いうことで内地におった。ほんで僕らがおるとこのすぐ西側に、三方原っちゅう飛行場があるの。それが、8月か9月やったかな。頃に、アメリカの艦載機が来て、その飛行場を爆撃やるわけよね。機銃掃射で、べべべべべべーっと。弾を撃って、ほんで、そこには飛行機やとかいろいろが陰に隠れてあるもんで、そこをやるわけやね。ほんでさーっと編隊を組んでは、行く。そういうやつを繰り返す。で僕は、ちょうどそん時部隊本部から、?をもらって、ちょうど、その飛行場のすぐこちら側まで出張しとったんや。ほんでそういうとこを見たと。ほんでその当時はね、ちょうど太田も機銃掃射あってね。太田の駅の機関庫ってあってね、駅員の人が亡くなったよ、打たれてね。ほんで亡くなった。何人亡くなったちゅうことは分からんけども、僕らの友達の弟んたも駅に就職しとって、ほんで亡くなったっちゅうことを後から聞いたんですけども。

それから終戦は、部隊で聞いたんやね。ラジオ持ってきて、重要な発表があるで全部?より、ちゅうことで聞いとったら、天皇陛下の玉音がやらしたんやね。ほんで聞いとって、ああ日本は負けたんかということで。まあこれからは、戦争も何もやることないなと思ってね。終わって、部隊やなにかもそこで解散をするようにっちゅうことで、解散はどのくらい後やったか知らんけども、話があった。

えらかったのは食事やね。当時なかなか食事が無いもんで、ご飯も大豆の入ったご飯ね。それを食べるちゅうとね、大豆がしっかり煮えておらんもんで、がりがりがりがり。ほうすると胃にひびいて下痢をした。下痢をしても休むわけにいかんもんで、一生懸命無理してやっとったわけよね。

腹が減って腹が減ってしようないし。馬が何頭おったかな。12、3頭おったかな。それにはえさもやらなんし、手入れもせなかんしちゅうことでね、当番は別に決めて順番を。大豆がすやとかいろいろわらに混ぜてやるわけでしょ。自分たは腹が減るもんでね。その馬にやる大豆をを持ってきて食べるの。食べるちゅうとまあ下痢しちゃうし、腹が壊れちまう。そうやけども、腹が減ってしゃあないもんでそういうことやったの。それから、すぐ公民館のようなところに小隊ごとに集まってそれぞれ分散したもんで、誰がどこにおるちゅうことは、僕らは一番初年兵やったもんでね、誰がどこにおったやら全然分からへん。まあ30人か、初年兵はそんくらいおったかなあ。ほんで腹減るもんで、すぐ民家は百姓やってみえる人らやもんでね、そこへ腹が減ってそこの家へ行って、「腹が減る」とかそういうこと言うもんでね、じゃがいもとか、いろいろ煮てね、「食べよ食べよ」と言ってくれたことがある。そのくらい腹が減りよった。

戦後

終戦になって、軍隊は解散しとったもんでな。それぞれまあ行けちゅうことで。てんでわれわれちりぢりばらばらで、来たわけやけれども、僕の場合は初年兵やったけれども、ちょうど進駐軍がね、兵器を日本国から引き受けなかん。引き渡すわけやね。僕らの部隊でも何人とおったもんで、そっから兵器を浜松の師範学校へ輸送してね。そこで引き渡すということで、僕らの隊はね。兵器をどこどこへ、何月いつかに集結しときなさいって部隊から命令が出てね。僕らは兵器を浜松の師範学校までね、トラックでやって並べて、アメリカさんに受け渡すという仕事でね。初年兵でおって、終戦をした後僕らは残留で残って。他は返されちょったけど、僕らはどのくらい残ったか知らんけど20人か30人残ったのかどうや。夜は泊まって不寝番でね。兵器がどっかへ盗まれたりなんやしたらあれやもんで、不寝やったりいろいろして。片道やっておったわけやね。で、その兵器渡すときはまあ僕ら関係ないもんで、すぐ家へ来ちゃったけれども。終戦になって戻ってきてまた山之上の役場へ就職したんです。

就職

…それから市役所にずっと引き続いて、定年が60歳までやもんで、59年の3月31日で退職をして、それからは家でいろいろやっとったけれども。その間いろいろと協力というような、市でいろいろ役職はやらせてもらってきたで、復員して役場へ入って、役場で?して、29年からは町村合併して、市民課やとか、水道課長やとか、農務課長、環境衛生課長、市民課長、退職の時は市民課長で退職したんです。退職してから保護士とか。保護士でだいぶ東中も行ったよ。不良な少年がおってね。校長先生やとか、いろいろ話し合いしたりして。

山の上の日記

一番記憶があるのは、あの当時百姓やもんでお蚕を飼っとったね。養蚕をね。やで桑を摘んだりいろいろして、朝早う行ったり夜遅う行ったりそういうことやって、お蚕に桑をやってみえた。そこへ召集が来ましたよっていって、持っていかないかん。本当に……そら名誉っていや名誉やけども、気の毒なような気がしてね、僕が数えの19かそこらやもんでなんちって言ったらいいや知らんと思ってね、それと山之上やもんで山のようなところも通って越えていかんならんやら。ほんやもんで、恐ろしいやらいろいろで苦労して行った覚えはある。判をもらって帰ってきて村長さんに、「朝、こういうふうで召集を持って行った」って言う。そういうようなこと。

それからね、空襲があるんだよね。その当時サイレンは無かったもんでね、火の見やぐらがあって、高いところやでね。ほんで.空襲警報がやれちゅうて、これも山之上では、古井の駐在所やったかどこやったかから、連絡が来る。ほんで山之上と古井と下米田は一緒に呼び出いといて、何時何分に空襲警報が発生なったで処置しよというようなあれが来るわけよね。はっきり覚えはないけれども、それから火の見やぐらの鐘を打たんならん。空襲警報のはどうやとか、鐘が鳴らすやつが違っとるね。そういうことも宿直のあれでやらんならん。日記もね、何時にやったとか誰がとか、召集令状が来たやなんかも、山之上の日記があるんやね。そういうことを書いて、次の朝村長さんに、こういうことやこういうことをやったって言って報告をしよった。

配給係

それから戦争がだんだん激しくなってね、僕ら役場におって、いろいろ主食やとか副食も含めてやけども、配給制度が。これは本見とるっちゅうと、国家総動員法っちゅう法律が国で13年の4月に出とる。そういう法律に基づいて、いろいろまず第一は米の配給制度。それから2番目には副食関係。副食ちゅうと味噌やとか醤油やとか、酒やとかあらゆる食料品やね。そういうものを、今は自治会長ゆうけど昔は組長っていうね。その組長に連絡をしてね、店があるもんで店へ出したりいろいろして。まず1番始めは主食っちゅうと米やわね。ほんで米の配給制度、これは昭和16年の4月より改正したということですが、僕は遅く入ったもんで、前の配給係の人があったもんですからその人がやっとって、その人が現役で兵隊に行かれた。ほんで後を僕が、村長さんが「お前配給係やれ」って。ほんで配給係をやった。僕は19年の9月から配給係になってね。こういうのはどこも全国的やわね。配給主任で入った。

特に山之上あたりは農村部で米を作っておる人が大部分やったもんでね、もちろん供出制度もあったけども、名古屋とかああゆう町から、もう名古屋には空襲やなんかいろいろあっておれんで、親戚が山之上にあるで行くで、頼むって。そうやってみえる。そういうやと、配給係や何かでも、転出転入ちゅうね、役場へ行ってどこどこに行くで転出証明をくれとゆうことでもらって、その行く先へ持っていくわけ。役場へね。今度役場では、それを見てこの家は大人が何人で子どもは何人でちゅうやつがあって。その基準でね。もう昔のことやで忘れちまってあれやけども、この配給は法律で決まったのはね、大人一人はね1日2合3勺の配給があった。ほんでそういう転出証明持ってみえるもんでもらって台帳作って、その家は、こういう人がみえて米がどんなけいるっちゅう、配給の日にちやとかいろいろ決めたり。それと同時に味噌やとか醤油やとか砂糖や酒やとかいろいろそういうものを配給に来やあたらいろいろやった。

煙草やとかそういうもんまで配給をしとったの。僕らの先生やなんかが、煙草買ってきてくれとか頼まっせるときがあるわね。そうすると煙草屋へ買いに行っとたわ。まあそれは配給制度になる前行きよったけれども。これは僕の家に買ってあって、いろいろ見よったらこういう本があったもんで。その当時のことがこう東海百年っちってこれ毎日新聞が当時に出しとったやつね。これ買っとったもんで家にあったわけよ。まあ当時の事やもんで。統制経済が始まってきたということやとかね。配給を国で決めてね。供出やなんかで割り当てがあるでしょ。あんたんとこは何段何r作っとるで米は家で食う分はどんなけで、あとは供出をしなさいということで供出をしよった。そういうことが書いたる、これ。

ほんで白飯やったけれども、7分づきにして食べなさいと。量も少なくなるもんでね、白い米にすると。いろいろそういう細かいことが書いたるわ。僕らは家で百姓やったもんで自分家でつくようにやっとったもんで、そういうことはあんまり記憶にないけれども。そういうことが書いたるけどもね、で他に国家総動員法いう法律ができた。ほんでこういうことが書いてある。配給の主任者係やってね、加茂郡なら加茂郡の県事務所があったもんでね、今でもあるけども。そういうとこの係を召集していろいろ指示をして。その通り役場に配給をもらってきた。ほんで配給の日にね、朝ちょっと遅れて行くっちゅうとね、どえらいほど玄関に待っとってね配給を。チェックしんならんでしょ。この家はそういう米の通帳を持ってみえる。やもんでそいつにあんたんとこは何人で、何じょう何合やちゅうやつを書いてやらならんだよ。そいつを書いてやることはその他いろいろやけれども、そんなようなことをやっとったし。それからだんだん時が経つにしたがって衣類、シャツからいろいろそういうもんまで配給になった。

……で、ここ(デイサービス)にご厄介になっとるんです。で渡邉さんにもいろいろ話ができるかできんかわからんと思って心配しとったけれども。まあちいとでも、参考になればと思ってね。そういうことで。

T.Mさん

父の出征

取材時年齢

77歳

取材時在住

美濃加茂市深田町

取材年月日

平成27年8月6日

※()内は、同じ遺族会のA.Nさん、K.Hさんの発言

近衛兵だった父

僕も丹羽さんと同じくらいやけど、7つのときやわ。終戦になったのは。ほんで父が出征するとき全然覚えないのやわ。皇居におったの。近衛兵に行っとって。(近衛兵ちゅうと、これは普通の人では行けんでしょ。)(家柄がええのと、それからここの頭がええのと、それから体格もええのと。その3つがそろわんと行けなんだの。)ほんで騎兵やったもんで、北支な。(あの、中国やな。)それで戦闘で行って、撃たれて死んだんや。

戦時中の生活

戦時中はどこのうちも白壁やったんや、壁が。敵から見えんように黒う塗ってまったんや。何で塗ったんや。(あれはね、鍋の炭。)炭か、そうか。(それわしも覚えとる。真っ黒に塗ってまって、汚い家になってまったわな。鍋の炭ではうまいこと塗れりゃええけど、今みたいに。もう、まだら。もうむちゃくちゃやった。電気やなんかでもね、今みたいに蛍光灯なんかもちろんありゃへんけども豆電球ね。あそこへね、全部カバーを被せるんです。外へ光が洩れんちゅうことでね。そういう生活やったね。まあ夜なんて言ったら真っ黒けやわね。風呂とかそういうとこでもよほどの家やなけりゃ電気なんて、蝋燭ではなかったかね。)戦時中は防空壕が作ってあった。防空壕が。上にまた土やって、そこの上に芋づるを植えちゃったんや。ふっふっふ。(あったあった。)まあいろいろあった、その当時あんま覚えないけどもね。(そうやね。小学校の中にも防空壕が作ったったね。太田の小学校やなんか。運動場に。)そうやな。そうやった。(ほいで、今芋づるの話されたけど、運動場も芋ばっかやった。植えたったわね。運動場いっぱい芋を。もちろん生徒が食ったんやろうけどね。そういうことも覚えてます。)うちは19年に行って、20年の3月やったでな。(そうかそうか。20年の。19年の何月かしらん?)それが全然覚えないのよ。たまに見やあただけで覚えないもん親の顔。でも3人子どもおったでな。

戦地からの手紙

戦地からよ、なんやちゅうくらい手紙が来よったわ。(中国から?)そう。でおふくろがまあ燃やいてまったけども。(ああそう。惜しかったわな。それはほんと残しといてもらっときたかったわな。それは昔ではほんとになんともならんもんやと思っとるもんで。そんな亡くなったような、ほんとにそういうのは今貴重になるわね。)

K.Hさん

会社員として北朝へ

取材時年齢

84歳

取材時在住

美濃加茂市伊深町

取材年月日

平成27年8月6日

※()内は、同じ遺族会のA.Nさん、T.Mさんの発言

ニュース映画

私がね、ちょうど中学3年を卒業した年の4月に、私は北朝鮮に行ったの。でなぜかというとそのころは、もう若い者は大東亜協栄、いわゆる中国も満州もそれから東南アジアも、アメリカとかイギリスとかフランスの植民地になって、みなそれで貧しい暮らしをしとるから、そういう人たちを自分で働いたら自分の利益になるような国にしようじゃないかとゆうことで若い者は満州行きなさいとか。そういう時代やったもんやで、その時のちょうど高等科2年の時に、あんたらは考えられんかもわからんけど、昔は映画を見るなんちゅうことはね、太田には映画館は無かったし岐阜まで行かな映画は見られなんだの。そういう時代やったから、夏休みにね、私は伊深村が1年に2回か3回学校の運動場にこう幕をして、映画会があったの。それはもう村中誰が来て見ても無料で。もう2時間か3時間の映画。そのときにニュース映画ちゅうのをね、20分か30分くらいやったかな。あのそういう今、こういうふうで侵略したわこれ落としたわちゅうふうに。ある鉄鋼会社が、大きな鉄の鉱石の山があると。その中に、一か所は製鉄工場で使うのがある。その当時の製鉄工事は35%以上鉄分が含まれてないと。高炉と言って、直径7,8メートルで高さは十何メートルのところへ鉄鉱石と、コークスって知っとる?コークスいったらね、石炭に熱を当てるとそのガスが出るんや。そのガスを昔はその都市ガスとして、一般の町の人が東京とか大阪の人がガスの栓をひねるとそのガスが出ると。そのガスは石炭を、700度800度の、熱するとガスだけ出る。煙だけ出した後に残ったのが炭やわね。ちょうど炭を作るのと同じ原理で残ったコークスと言う黒いパンみたいにあの、スポンジみたいに穴がいっぱい開いた塊があるんや。それを混ぜて、鉄鉱石というのは鉄の酸素と結合したの。だから酸素をコークスという炭素で、入れると燃えて炭酸ガスが出る。そうすると鉄が残るという。まあそういう原理でしとったんやけども、それが35%以下のものでは使いもんにならんと。だからそれをどうしたら使いもんにできるかということをいろいろ考えて、それを細かく粉にしてそれを水に溶かして。その水に発泡剤って言って今では洗剤入れるとすぐ泡が出るわね。そういう泡のできるものを入れて下から空気を送ると、ぶくぶくっと泡ができると。その泡の表面に鉄鉱石が集まるということを発見して。全体の中の3分の1、3分の2以上は石や。石の塊やわね。石の粉の中に20%から25%の鉄鉱石があるんやけども。泡さえ集めたら40%50%の鉄分が集まるということを発見して、それを製鉄工場でしますというのを、そのニュース映画で見たんや。

朝鮮へ

その次の年の3月に、そこの会社の従業員を募集する人が来て、そのころはそういういろんな会社から私のうちはこういう事をしてますという募集に来た。その時にその人がそういったもんだから、私行きますって言ったんや。私はその当時ちょうど高等科2年、今の中学2年。昔は高等科2年生までしかなかったから。2年の時にうちの親父らが行けと言ったんで、兄貴も加茂農林行っとった。だから受験したけれどもね、ここが悪いもんだから落第した。落第したのはね東は加茂郡の白川町、西は岐阜市、北は美濃市、南は土岐からね、特修科って言うその科があって、そこね。今で言うなら高校で落第したやつばっかりが集まって。家で遊んどっても来年学校受けるのに勉強できやへんから、学校へ来て1年勉強して、もう一ぺん加茂農林を受けるという。そこへ行っとった時にそういう事があったもんだから、その年の3月また高校の受験をするという、加茂農林もう一ぺん行くというはずやったけどやめて、そういうことをやりよった。蜂屋の学校で同じ同級生の私の他に3人行く人がおって、4人行くということは決めて、岐阜県中で22人一緒に北朝鮮行ったの。朝10時何分か11時何分かの岐阜の駅で汽車に乗って、その日の晩下関へ着いた。ほんで下関から釜山へ行く、還付連絡船ちゅうのがあったでね、それに乗ると次の日の朝もう釜山へ着くと。釜山へ着いたらその日の夕方、現在のソウル。そこへ着いて、旅館で泊まるかなんかして次の日の朝汽車に乗って、現在の北朝鮮へ着いたと。私らがそこへ着いたのはもう夕方暗くなってから。ほんで朝起きたらね、もうびっくりしたのは、4月の10日に家を出たんだから,4月の10日いったらもう、今は温暖化で4月の初めに桜の花咲くんだけど、私ら子どもの頃には4月の7、8日から10日ごろにかけて桜の花が咲きよった。それが向こうへ着いて起きたらもう朝寒い寒いって、外出たら一面に霜が出とる。で桜の花が咲くのが5月の10日ごろ。ちょうど家と比べると1か月遅い。それくらい、もう北の方だという事やね。

【その製鉄会社で作っていたもの】普通の鉄とは違って、特殊鋼という鋼をつくる。その材料をつくるとこへ配属された。

終戦

その後、戦争が終わるということで、8月15日の玉音放送というのがあったわね。あったけれども、私らのところへは遠いで15日の12時には、「特別な放送があるから全員消灯をやめて放送を聞け」ということで、私らは聞いたけれども、なんせ東京で発送した電波が海渡って北朝鮮まで届いて、その当時は全部有線だったから線でそれぞれの工場ににして皆が聞いたんだから、がーがーがーざーざーざーという雑音で、もう聞いとった皆もなにがなんだかはっきり分からんと。けれども、一応どうもこの話の様子からすると、いよいよこれで戦争が終わったみたいやということやった。だから私らその放送は聞いたけれども、何にも実際はわからなかった。そういうことで、終戦をどうしようかということでいろいろ迷っているうちに、8月の17日あたりに満州で秘密につくってたあの北朝鮮の金何とかちゅうのが代表におるわね。その人のおじいさんの金日成というのが満州で自分たちの共産党の集団をつくってその人たちが、私らのとこへ来た。それから8月の18日に、ロシアの兵隊が長さ4メートルあるようなおっきな戦車で、私らのとこへきた。と同時に、馬車にジュースを作る罐を積んでね、馬車でことこととひきながら、一人が兵隊が後ろから薪を抱えとって罐へくべてって、ジュースを作りながら来る。そういうのともう一体はパン焼き釜があって、大きなちょうどこの机位の釜でね、ここで火を入れるここで煙が出るというふうでパンを焼きながら、それが馬車でひっぱってくるわけやね。そういうので来たりとかね。それからもう兵隊が私らの部屋へ来て、まあ部屋におるわね。もう銃をつきつけて、「動くな」と。言っておって、もう机を探す、体触る、押入れを探す。時計と万年筆とみな持ってった。その分はねそういうことがね。まあ2千人くらい日本の従業員がおって、その人たちのそれぞれのあの社宅ちゅうのがね、工場の前にざーっと並んどった。その家も1軒1軒行って時計と万年筆そういうものを持っていくということをしたと。

私らはね、昭和20年8月の22日ごろにね、北朝鮮の一般の人たちが集団で私らの会社のね、寮に食堂があるでしょ。食堂の隣に倉庫がある。その食堂と倉庫をね、集団で目が暗いうちに、わーわーわーわーという声がしたもんでびっくりしたら、食堂と倉庫にものすごい大勢の人が来て、ガラス戸をぶちやって倉庫の中入ってって米を抱えて行くやつがある、鍋を抱えていくやつ、それからどんぶりを抱えていくやつね。だから21日ごろから、私ら寮に300人くらいそのおったんやけども、それが今まで工場勤めとるから朝晩の食事を作っとったんやけども、それがもう出なくなったの。自分で加工して自分で食いなさいと。それでもうはたと困ったの。でもうしょうがないからそこに闇市場があって、そこへシャツいっぱい持ってくと、向こうではね、1升というと5合で1升というの。大豆を5合枡に山盛り盛って、このシャツはいいシャツやから大豆を2杯くれると。そういうものと換えて食べると。それから、冬になってもう11月12月になって池が凍ったら池の中に鮒がおったわ。鮒とドジョウ。ドジョウいっても日本におるドジョウはこんな長いけど向こうのドジョウはこんな太くて短いの。そういうドジョウを食べて、ナラやクヌギのもとにこう細長いふんを出しとるテッポウムシっておるわね。こんな虫なんよ。それを、私ら子どもの頃にはおやつ代わりに、父親が山仕事に行って割木を割るときにそういう虫が出てくるでしょ。その虫を弁当箱入れて持ってかえってきて、で私らそれを囲炉裏で焼いて食ったという。それの成虫が、こんな黒いカミキリムシという。それも子どもの頃にはおやつとして焼いてくっとった覚えがある。向こうへ行ったらね、池の中にこんなくらいの大きいゲンゴロウがいっぱいおったの。鮒やドジョウは食ったけどゲンゴロウは誰も食ったという経験がないし、ゲンゴロウはちょっと変なにおいがするんよ。ところが、皆腹減ってるし、私も腹減ってるし。「待てよ、俺は子どものときにカミキリムシを焼いて食った。だから変なにおいはするけれども、ゲンゴロウも、もしも焼いて食ったら食べれるかもしれん」と。ほんでちょっと捕まえて持ってきて焼いて食ってみたら、結構カミキリムシみたいに香ばしくておいしかったと。ほんで友達に「おい、お前ら笑うけれども食ってみたら結構、俺子どものころにカミキリムシを焼いて食ったのと同じようにおいしいぞ」と言ってやったら、食べた人が「うん、これはうまいな」ということで、次の日からもうゲンゴロウをこんなもん取ってきて、ゲンゴロウまで焼いて食ったと。それからもう毎日が?でね。今日1枚ズボン今日1枚シャツというふうで。12月からは、仕事があって仕事に行くと、給料の代わりに1日に500gトウモロコシとか大豆とか、皮の付いたまんまの粟とかね。そんなものを、給料代わりに持って帰っとったと。いうことなんや。

シラミと南京虫

その当時蚤はいっぱいおったけれども、私ら子どものころにはシラミなんておらなんだ。南京虫とかおった。私が初めて知ったのは、釜山まで行って汽車に乗って、今のソウルに行くまでの間ね。もう1時間くらい経ったらね、こういうところがかゆい、ここがかゆい。足首のとこがかゆい。ほんで南京虫に食われるとね、ちょうどこのくらいの爪くらいの大きさ。赤くなってもう痒うて痒うてしゃあないの。それが汽車の座席の隙間にそれがおるの。客が入れ替わり立ち代わりするでしょ。あれは食べ物は人間の血やから。で入れ替わり立ち代わり食べ物が乗るから。そこで血を吸ってまたそこで繁殖してくと。そのころはね、簡単にシラミとか南京虫を殺す薬がないから。私らはその北朝鮮へ行って寮生活をして、シラミ退治はもうとにかくシャツから服を茹でると。湯を沸かして湯の中入れたらシラミは、卵は死ぬと。だけどそのまま10日たってまたその風呂場行ったらね、みんな風呂場でシャツを棚へ入れて風呂入る。前の人がシラミの付いたシャツを入れとるからシラミが3匹か4匹落ちとる。そいつへ私がシャツを入れるもんだからそいつにくっついて着ると。だから3日もしたらまたシラミがおるというようなそういうことをね、もうシャツとシラミと南京虫には、ほんとに泣かされた。ところがね、慣れるとそんなに痒くなくなる。(免疫性ができるでな。)そう、免疫ができるで。(だけどそれも、今はそんなこと何しよう思ってもほんとに辛い経験やわね。辛かった経験やったわね。ほんとにね。)南京虫ていったらね、長さがだいたい5センチくらい。それを潰すと、あの緑色のカメムシを潰すと臭いやら。ああいうにおいがするんや。(まあそんなことかまっておれなんだでね。)それと、今みたいにそういう薬が無かったもんで(DDTとかいっとったよな。)薬が無かったの。(今でもあるでしょ、ああいう薬は。)だいたいDDTは人間の体に有害やったんやね。(それを平気でかけよったんやでね。うん。これでも、病気もせずによう生きたなあと。)私らが北朝鮮から南朝鮮に来てから、日本の引き上げ船に乗るときに、船にダダッと階段で乗ると2人消毒専門の人がおって、頭から白い粉をシュシュッとここにシュッシュ、ここにもシュッシュ、それからズボンにもシュッシュと。その人間に有害だというDDTという粉薬をね、ふっかけられたの。頭からふっかける、シャツのここへ入れる、ズボンのバンドの中へ入れるね。みんなシラミを持っとるで。そのシラミはいろんな病気を持ってくると。だからそれを日本へ入れさせないために船の時からもう全部乗った途端に薬をふっかけられて。(ほんでまたこのシラミちゅうのは縫い目縫い目に食いつくらしいんやね。例えばこういう縫い目とかそういうとこに。ひっついてね、頭捕まえたとこへなかなかとれんの。)わきの下のこういうところへおる。だからいろいろ想像してもここがかゆいから見るとここに3匹くらいおる。シラミもね、一応大きいときは長さが5ミリくらいあったかな。

兄が眠る場所

これが、今のそれに書いたる平成20年に行った時の、私の兄が死んだとこだけども、向こうでは3年経ったら、ここへ埋めてあってあることが分かっとってもそこを畑にしようが道路にしようが建物建てようが、よろしいということになっとる。宗教的にね。だから私の兄の亡くなったというところも、家の倉庫になっとる。(それはどこへ行ってもそうやね。フィリピンでもそうやったで。)

A.Mさん

父の出征と学校生活

取材時年齢

79歳

取材時在住

美濃加茂市蜂屋町

取材年月日

平成27年8月6日

※()内は、同じ遺族会のK,Hさん、T.Mさんの発言

父との最後の昼食

私は太田にいまして、今は蜂屋にいますけども。父親が戦争にいって。第一番にちょっと見ていただきたいのが(写真)これが私です。これがおふくろです。これが、戦死した親父なんです。で、これがおばあさんが当時いましたのでね。これが何年かちゅうとね、昭和18年の11月30日だったと思うんですが、ちょっと日にちは定かでは。でも12月は間違えない。まあそんなときにね。これは出征していく唯一の写真なんです。

私の親父はどうやったかな。3ちょっとくらいやなかったかと思うんです。ほんでおふくろが、27、8やなかったかな。これは、私。小学校の1年生です。そんときになんちゅうですか、まあ「赤紙一枚」というんですか。あの国からね、ようするにあんたは戦争に行って、国を守ってくれということで、戦争に行ったわけです。それがまあ、最後のお別れやったわけです。最初に行ったときは、今、ここ(写真)には見えないんですけど、近所の人やらいろんなたくさんの方がね、「頑張ってこいよ」という歓呼の声というんですか。そういうもんで送られて、最初に祐泉寺にね、?ちゅうのがあるんです。そこへ「これから行ってくる」という誓いを立ててね、太田の駅を出発して。私も岐阜駅まで父親を見送っていって。もちろん小さいときでしたので、叔父さん、親父の弟さんに連れられて。岐阜の駅まで一緒に見送りに行ったことは、覚えてはおるんです。それから、昼飯を岐阜の駅の、今はまあ平和通りですけど昔は凱旋通りって言っておりましたのでね。あそこで最後の昼食を食べたというのが、あのほんとの最後でした。

【お父さんを見送るときは、どんな気持ちでしたか?悲しかったですか?】その時はまだ小学校の1年生でしたもんでね。まあ逆にね、みんな「万歳万歳」って送ってくれるもんでね。まあ嬉しかったちゅうのはむしろ、なんていったらいいね、印象に。悲しいとかそういう気持ちは全くなかったわね。それと裏腹に、おふくろたちはなんていったらいいね、それ以上に悲しかったやらあと思うんです。私は今言ったように一年生ではね、そういう実感全くなかったね。

それでどこへ配属されたかというと、広島県の呉で集合して輸送船に、これ11月に出発しとりますので、12月の初めごろでしたかね。輸送船に乗せられて、目的は海南島というところへ、行く途中でした。船もね、?丸という、家いけばわかるんですけども、そういう船に乗って、どのくらい乗ってたんでしょうね。300人くらい乗ってたんでしょうね、輸送船でしたもんでね。それで途中台湾沖でね、バシー海峡という海の名前ですけど、そこで魚雷でやられて。船をまあ真っ二つに、真っ二つにされて。それで亡くなったということがたまたま、戦友の方が瑞穂市に、今穂積というとこですけどそこにみえて、その方は、助かったんです。船が沈む時は非常に渦巻きができるらしいですね。ほれで、そういう訓練は、まあその戦友の方に聞いたんですけれども、海に万が一そういうふうで沈むととにかく、外へ逃げよ、逃げよということでね、船が沈んだらできるだけ外へ逃げないと、こう渦で吸い込まれると。そういう事で。まあその方はたまたま泳ぎも、ああ、その方もできなんだね、まあとにかく必死で泳いで、船から遠ざかって、その方は助かって、その方が初めて帰ってこられて、うちの親父はそういうふうで亡くなったちゅうことを知りましたのは、戦死の、知ったということはそういう事でした。

戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。

空襲

それでさっきも言ったように、戦争が進んできたちゅうのかね、出征してったのが18年で終戦が20年でしたもんで、その間はやっぱりさっきも言ったようにご飯っていったってまともなご飯食べれなかったんです。芋とか代用食とかすいとんとかそういうものばっか食べて生きてきたちゅうことやね。これも、作ったものを食べるだけでしたもんで、自分でとってたべるとか作って食べるとかそういう事じゃないんですもんでね。比較的苦しみは少なかった。ただだんだん怖くなってきたというのはさっきも言ったように、各務原とか岐阜というのは空襲に遭いよったわね。ほいでね、西の空が真っ赤になってね、岐阜も爆撃に遭ってね。それから各務原の飛行場ね。蘇原の駅のあそこらへんはもう酷くやられたと。ほんでここの近くでいうとカヤバ工業もね、焼夷弾が落ちたんです。知っとるかね。(知っとる。ダーッてね。)ねえ。あれはもう、何年やったっけまあその時もね、空が真っ赤でね。(藪へ行ったの。)そうでしょ。藪へ逃げたんや。そうです。逃げるとこがないもんで。ほんで防空壕へ、防空壕っていってもそこらへんの田んぼや畑、田んぼはないですけど。畑やなんかはほとんど防空壕って言ってね、あんなとこそんなん爆弾なんて落とされたら一発でやられることは分かっとっても、そういうものは作りよったんです。ほいで上はなるだけ分からんように、芋を作ったのね。最初そういうカモフラージュはしとったというような覚えはあります。まあそういうときはほんとに苦しかったわね。

学校

ついでに見といてもらいたいのが、これが太田の小学校。今は鉄筋できちっとなってますけどね。これは私たちが1年生の時の写真です。要するに入学式やわね。ほんでこの頭の禿げた方はヒダっちゅう校長先生でね。この女の先生。この先生が怖かったんです。そんなこと言っちゃいかんけど、もうほんとにね、ものすごい怖かったんです。言うこと聞かなんだらビンタやられとったでね、いっくら小さい子でも。今やったら一発にそんなことやったら先生クビになってまうもんでやらんけどね。ビンタくらいはもうしょっちゅうでした。怖かったですね。まあ今これちょっと見てみるに、半分は亡くなったね。やっぱり。今はだいたい80歳近いでね。半分くらいは亡くなりました。この女の子も今ちょっと思い出せんけどね。おかっぱでね。昔は、まあ今そんなことはないけどシラミを湧かいたりね、ほいでGDTを頭の上からかぶせるんです。だーっと。シラミが湧いとるもんでね、そのくらい不潔、不衛生なの。シラミっていってもちょっとわからんでしょ。はっはっは。そういうこともあったし。真っ裸にされてね、粉をまくんです。シラミがおるちゅうと、熱には弱いらしいもんでね、着とるものを湯の中へ浸けてね、それで退治をしとったんです。そういう苦しいこともありましたね。(だにとか蚤。蚤は、ちょっと大きいか。)蚤はちょっと大きいね。シラミなんて言ったらほんとにね、このくらいの。

父の遺骨

(骨はもらいに行った?)ああ、骨って言ったって何にもあらへんよ、海軍やもんで。ただ、(名前書いただけの。)うんそうそう。東別院か?岐阜の。東別院へ貰いに行ったんです。親父の骨やね。(白い箱で)そうそう白い箱で。わしは東別院まで貰いにいった。おふくろと一緒に貰いに行った覚えがあるね、骨。なんにも入っとらへんでね、骨ん中ちゃあ。もちろん海で亡くなっとるもんでね。(もしあってもだれの骨や分からへんもんな。)うんそんな程度のね。ほいで、あれ合同慰霊祭やってくれやんかなあ。東別院でものすごい200くらいあったんかなあ。みんなこのくらいの箱がだーっと並んどるんやわ。そこの一人やもんで。終戦直後やもんでね、骨貰いに行った覚えがある。おふくろと二人で行った覚えがあるね。ほんで家で葬式やるったって、もちろん今のような葬式ができひんかったけども、覚えとるのは砂糖や餅もあらへんなんだもんでね、柿の熟したのが甘いもんでね、そういうものでお萩を作っとったような覚えがありますね。それで甘みをとって砂糖の代わりにしたりね、いろんなことをやってそりゃまあ、おふくろたちはえらかったわねそういうことをやりよったんでね。ほんでやっぱり、こんにちがあるわけやでね。だからよう支えてくれたと思うんです。

追悼

結局、1番最初に言ったように赤紙一枚。ようするにはがき一枚でね、あんたはここへ、戦争へ行ってきなさいと、国で指令をしてくれたわけやでね。それで行って、戦いで敗れて戦死したわけですけどね。今、国で追悼式とか、市でも今度10月2日に追悼式が。市もやってくれるんです。ほれから県は、あの岐阜で10月の23日やったかな。それもやってくださる。ほいで国では、8月15日。もうじききますけど、私も行ってくるんですけど東京の武道館でね、追悼式をやってくれるんです。言ってみれば、我々は当たり前の事やと思っとるわけですけれど、まあそれに対していろいろな反対派もあるわけですけれど。出発するときの誓いとしてはね、やはり「俺たちは、靖国神社で会おう」ということで。亡くなったら靖国神社でという気持ちで出征していったわけです。その靖国神社は、今は総理もいろいろな反対があって、内外の反対もあって行ってはいけないということでね、我々遺族では、とにかくそんなこと言わずにとにかく、総理が国の代表としてひとつ、行って参ってくれるのが本当じゃないかということでお願いしとるけど、なかなか内外の反対でよう行かれないということは、非常に我々は残念ですけどそれで、日本武道館で、別のとこで追悼式をやるというかたちを今は取っておるんです。

まあだいたい、大体って言ってもそりゃまあ話しよるといろんなことが浮かんでくるもんでね。さっき言った、空襲で逃げ回ったこと、防空壕でもとにかく空襲警報が鳴るとすぐ防空壕へ入るのがひとつの鉄則でしたもんでね。途中で食べ物ないと、桑いちごを食べたりね。桑いちごっていって、桑にいちごがね、小さないちごができるんです。(今は桑があらへんわ。)ああ、桑があらへんか。あれも食べた覚えがあります。あんなもん食べれたもんやないですよ。(食べるもん何にもないでな。)何にもなかったんやでね。芋っちゃあ蔓まで食っちゃうんやでね。ほれから、甲羅キビって。(あのころはキュウリが食べもんやったね。)ほんとやて。キュウリとかそういうもんはね。比較的すぐ成りよるもんでね。

沖縄戦について

あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。

だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。

日本が勝つと思っていた

【当時は、日本が戦争に勝つと思っていましたか?】そうそうそう。そうやなけりゃそりゃ、父親たち出征してけへなんだでね。そらそういうつもりで誰もいけやへんでね。やっぱり何とかして勝利して、やっぱり「祖国の為」ということと、家族のためやわね。そういう気持ちで、出征して行ったと思いますよ。それはもう、まぎれもないことやと思います。(先週、つっちゃん来たときさ、うちのおふくろ役場におったやな。でも悲しい顔も何にもしなんだと。「そうか」ちゅうの。)そうやね、もう覚悟決めてらしたんやな。うちは亡くなった祐泉寺のおっさま。あの人が通知をもって来らしたの。ほんで話はまるきり別になるけど、元町の提灯屋さん。あそこは3人亡くなっちゃったんやでね。ひとりは戦艦大和で亡くなって。であとふたりは、中国かどっかしらんで亡くなってね。ほいで祐泉寺のおっさまござるとまあほんっとひやっとしよったで。みんなその亡くなったちゅう知らせばっかを。一軒でね、兄弟が沢山あるとこは3人くらい亡くなってみえる人がおる。まあ戦艦大和で亡くなってみえるで頭のええ人やわな。普通じゃ乗れへんでね。案外戦艦大和、蜂屋にも一人おらっせるでね。亡くなってみえる人が。

祈りを込めて

(これは貴重な写真やね。)これはね、ここの市長に最初見せたら、どうもちょっとグッと来たらしいもんで、ほんだもんで?神社へこれを見て初めて行ったらしいです。ほんで、神社へ毎年、今年も来てくれるかということでそれはどうや知らんけどね。これも、1番大事なたからやわね。

で、ここに日章旗があるでしょ。これはね、みんな寄せ書きって言ってね、おたくらでも卒業するときにいろんな友達やいろんな名前書いて進学頑張れよとかいう事を書く。ほれがね、近所の方あるいは親戚、そうした方名前が全部刻まれてね。頑張って行けよとかそういう激励の旗なんです。それから千人針って言って刺繍でね、敵に撃ち勝って来いというそういうのがあるといいんやけどな。ほんとはようわかる。(それぞれの祈りを込めて。)そういうことも、昔は風呂屋さんにたくさんあったわねそういうの。今みたいに個人の風呂はほとんどあらへん。ええとこの人しかあらへんなんだもんで、田舎は別として。うちらの方はお風呂屋さんでね、昔風呂五銭か十銭かしらんで風呂へ入らしてもらって、ほんでそこにそういう寄せ書きするとこがあったもんで。(千人針というのはね、ちょうどこれくらいの丸が千個打ってあって、その丸のとこへ針に糸を通して出して。これに糸をくるくるっと巻いてまたすると、こういうまるん中に糸がこんなんなったのができるわけよ。ほんでそれを例えばあなたにお願いするというと、じゃあこの出征する丹羽さんのお父さんが元気で働いてくださるように、という願いを込めてすると。そういう祈りを込めて千人の人がこういうのをしたと。それを丹羽さんのお父さんが体に巻いて行った。みんなが祈りを込めて。)そうそう。まあそれは、実物を見ると一番ええんやけどね。(まあないわねえ。)実物は岐阜の神社にあったかなかったかそれはしらんけどね。(例えば丹羽さんのうちに置いておれば残っとればあれやけども、お父さんが巻いて戦地へ持ってってまったから)体に巻いてね。(で向こうで死んでしまえば)それでしまいやわね。そういった、祈りを込めたちゅう。今は死にに、会社でも海外出張やなんかはそんなことしいへんしね。意味が全然違うでね。そういう点はね、昔の人は偉いもんやったと思ってね。そういうことで助け合ったということやね。ただ、死んでくるじゃないぞと。いう願いを込めて。

R.Mさん

機銃掃射から逃げた

取材時年齢

82歳

取材時在住

美濃加茂市古井町

取材年月日

平成27年8月3日

※()内は、旦那さんであるT.Mさんの発言

焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

終戦と進学

ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。

今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。

本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

当時と今、どちらが豊かなのか

家んとこは百姓やないもんで、昔の人んたは子どもはみんな袴に着物やったでしょ。大人ももちろんやけど。ほんでそういうものがあって、そういうのでズボン作ったり、おばあさんのコートやなんかで学生服作ってもらって、修学旅行に行ったりなんかした。うん。まあ、ほとんどズボン作ってもらった。袴で。…でも今思うと、あの時代の方が何にもものがないもんで良かったかもしれん。今は何でもあるもんで、お金さえありゃなんでも買えるもんね。あの時分小遣いもらっても買えなんだもん。貰っても買いに行くとこなくて。

T.Mさん

戦時中の学校生活

取材時年齢

82歳

取材時在住

美濃加茂市古井町

取材年月日

平成27年8月3日

戦時中の生活

私はね、戦争中は小学校の3年4年5年…そのころやね。6年までかな。そのころまで、ずーっと戦争やっとったね。終戦の時に今の中学1年生やったね、8月に。ほんやもんで小学校の時の体験っていうとね、どういうことがあるやら、生活か学校か。例えば生活、家やと、私は百姓の生まれやもんでね。農家やもんでね、お父さんお母さんが農家やったもんでね。食べるもんは米作っとるでしょ。別に全然、供出はするけど百姓沢山やっとるもんで食べ物はそんな苦にならなかったのね。制限受けなんだの。食べ物は良かったけど、例えば学校行くとなると、服とかズボンとかそういうのは無いわけやら。それと履くもんがないもんでね、もう3年生4年生ごろから草履を作って履いたんよ。自分で草履を作ってね。おじいさんおばあさんに教えてもらってね。藁を綯って縄みたいに綯って。両方でつないで。前でこうやって足に掛けといてね。学校へずーっとはいてったんやよ。履くもんないもんでね。買うもんないし履くもんないもんで。そういうことをやっておったのね。ほんとそれ終戦ちょっと前1、2年くらいかな。そういうことずっとやっとったでしょ。みんなそうやわね。全員が学校行く人みんなないもんでね。服なんかないでしょ。昔はお蚕があって桑の木があったね。桑の木の棒を切ったやつを皮をむいて、それを供出で出しよったの。それで服を作ってもらうの。幸い家はお蚕を飼っとったもんでね、おばあさんが織物をちゃんと織ってね、それで服作ってもらった家で。そういう覚えがあるね。ほやけど、そんな桑の木なんか出して作った服は、全部クラスへ来てね、抽選やの。抽選でしか買えんもんでね。1年に1着2着やと抽選やもんでね。なかなか当たらへんの。みんなが。当たらへんもんでなかなか貰えなんだ。そういう覚えがあるね。

それと例えば、仕事がね、みんなああいう子ども達がおってね、食べるもんが少ないもんで、大豆を道路の両端に穴掘って蒔いて、そんでそれを収穫して上で出しよったんやよ。教室っちゅうかね。みんなで作って出しよったの。普通の道路あるでしょ。あのころは舗装してないもんでね、じゃりじゃりの道ばっかやもんで、その1番端の草生えるとこね。あそこんとこに穴掘ってね、豆をかすかにつまいて、それに燃やいた灰ともみ殻両方混ぜたやつを、上へぱっぱっと肥代わりに、生えてきてそれで大きくなれるようにやってね、ほんでみんなで収穫して学校へ出しとったんやよ。そういうことやっとったんやね、子どもでも。

学校生活

ほんで学校へは、白いご飯を持っていけなんだのね。禁止されとって、麦ご飯。例えば1週間に1回か2回ね、ああいう芋ご飯を持って来いって言われたんやね。さつまいもを入れたご飯を持って来いって学校で言われてね。そういうこともあったしね。で家なんか例えば白いご飯がないときは、麦のご飯を取っといて上に被せて持ってきよったの。こうして弁当の中に。先生が見にみえるんやて。「今日は麦ご飯やでみんな麦ご飯持っとるやろ」って。持ってかんと叱られるもんで、2、3日前の麦ご飯をとってね、並べてくと分からへんでしょ。そうして行きよったね。そういうことも覚えとるけどね。けどご飯麦ご飯ばっかの時もご飯家とっとったでねたくさん。ない人もいっぱいおるけども。

それから疎開って言ってね、名古屋とか岐阜とかの方から来とったの。ほんで私たち一クラスで50人、45人くらいか。ほんで疎開した子が来ると60人くらいになったね。15、6人来よったもんね。それで一クラスやったんやね。今やったら半分にしなかんけど、60人もおったら。あのころはそのくらい大勢おったの。それと学校がね、兵隊さんが校舎を半分以上とっちゃって、山之上はね。私山之上やもんでね。山之上ちゅうとこはね、機関砲という鉄砲撃つやつなんかがね、ぱんぱんぱんってやってね、今でも覚えとるけどね、よし今1,2,3,4,5…って言ってね、撃つまねごとしてみえるんやけど全然撃たせえへんけど、撃つまねしてね。大勢兵隊さんおってね。やっとったんですけど。そういう機関砲の部隊がおったんやね。そこで学校とられちゃうもんで、最後の終戦の年など勉強できんようになっちゃうもんでね。近くのお宮さんとかお寺さん借りてね、交替であちこち勉強に行きよったんやよ。今日はこちらで勉強するとか今日はお宮でするとか言って。クラスによって、全部同じ教室でできんもんで。そしてその日に順で変わってやったことあるね。そういうふうに。それから、本がないの。最後は本がないもんでね。謄写版で刷ったやつをね、先生が刷っとったんやと思うけどね、知らんけども。刷ったやつを貰ったんやよ。そういうのを貰って勉強のあれにしとったの、本の代わりに。ほんと薄っぺらいやつやね。本がないもんでそういうやつを順に習っとるときに作ってもらって、それを見て勉強しとったんやね。

それから終戦のちょっと前まで、農家のうちの兵隊さんに行ってみえてお父さんみえんうちで仕事が出来んとこへお手伝いに行きよったの。みなさんで学校で。お手伝いに行って、例えばさつまいもを植えたりね、草取りしたりね。そういうお手伝いをしとったね。そういうのやったしね、まあいろいろやったよ。山で木を切ってね、薪をずっとこんなんして束にして山から担いで降りてね、道路まで出すの。そっからトラックかしらんで持って帰るけど。そこまで出せんもんで出す人がおらんもんでね。男の人が少ないもんで。男性はその仕事やられる。土曜とか日曜はそういうふうに出よっちってね。みんなで一緒に出てって薪をたくさん持ってきて、積みよったね外へ。そういうことやったりね。今思うと考えられんね。

それから他所から疎開してきてみえるでしょ。その他所の知らん子がいっぱい来とったね。まあそういう子とは今全然お付き合いしとらんもんで分からへんもんでね。もう帰ってっちゃったもんで。

【疎開してきた子のことは、どう感じていましたか?】別に嫌だとは思っとらんかったよ、うちらは。仲良うやっとったよ。ほとんど親戚の人たちと一緒にそういう人が見えるもんで。例えばうちのお姉さんが他所へ嫁にして、その子どもさんが疎開してくるやら。やもんでここのお姉さんの子といっしょやもんで、いとこやもんでね。そういう子が泊まり込みでおったもんでね。仲は良かったよ。名古屋とか岐阜で来るとね、他所の子ばっかな気がしてみんなひがみよったけど。そうでもなかったそう変わらへんかったよ。他所から来るとなんかいい子ばっかな気がする、そうやないもんで変わらへんでね。同じ子どもやもんで、一緒に勉強したけどね。

辛かったこと

【一番戦争が激しかったとき、辛かったことはなんですか?】一番辛かったことはね、例えば薪を出すときなんかね、私らあの山之上でも南の方やもんで薪なんかほとんど作っとらんとこやら。奥の方んた上手に作っとるもんでね、なれとるの。そういう子んた上手に自分で背板ちゅうやつね。そこにだだだっと並べて、ぴっと棒で押さえてね。四つとか五つとかその子によって違うけど、大きい子が五つくらい持ってく、小さい子は三つくらい持ってくわね。ほんで向こうの子んたは慣れとるもんでね、家でやっとったもんで。上手なんやけど私らはへたくそでしょ。途中で崩れちゃうしね。結構えらいしね。担いで下りてくの。ああいうのは辛いなあと思ったし。

あとはね、岐阜の方の女の子んたたくさん来て共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。食事を。みそ汁とかね。おかずとかご飯とかなんかたくさん炊いてね、そいで一緒にやってくださってね、そういうこともやっとったんやね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。

あとはえらいっちっても農家やもんでね。特別、そういうことはないわなあ。戦争って言っても、辛かったちゅうことは食べ物なんか配給やしあかんってまさに言われるもんで、「そうやそうや」と思ってはおったけども、自分とこ百姓やもんでなんでもあるでしょ。ああいうのを食べとったでね。さつまいもの蔓ね。あれを食べよって言われてね。取って食べとったんよ。蔓を取ってきて軸を。あそこちょっと皮剥いてそれを煮てたの。ああいうのたくさんあるわね、採れてたくさんあるもんでそういうやつを食べたりね。さっき言ったように弁当でも、一日は芋ご飯で芋を持ってけとかそうやったり。昔は今の給食やけど、学校へ父兄が順にまわってね、みそ汁を出してくださった。ご飯は自分で持ってくけど、学校でみそ汁を出してくれとったんやね。大勢一緒に作って出してもらいよったけど、結構ね割とおいしい味噌汁。あったかかったしね、冬なんか。そういうこともやってもらったことあるし。いろいろよ。

家の手伝い

一番は、兄弟多かったやら。やもんでお兄さんもお姉さんもおるし、お兄さん兵隊に行っとるしね。お姉さん家に?とるし。そういう関係でうちらはちょうど中間でね。帰ってくると子守りしなかんでしょ、妹弟おるもんで。そういうのに毎日疲れとったね。そういうの決まっとるんやて。大きい子がみんな仕事して、小さい子が自分の妹と弟を子守りしたりお風呂焚いたりね。昔は風呂焚かなかんもんでね。今やと電気でバーッとやっちゃうけど、ガスも電気もないもんで風呂焚かないかんでしょ。ほんで風呂水汲まないかんでしょ。昔は水道ないもんでバケツで汲んでってバーッと大きな桶に水入れて。そして下で火を焚かないかんの、夕方になると。ほんで子守りしなかんやろ。そういうのを家のお手伝いをやっとった。ずっとね。毎日。ほんでみんなでなかなか遊びに行くような暇はないもんでね。まあ夏休みやと昼に水浴びに行くくらいやね。近所の子と一緒に。五人か四人でね。毎日水浴びに行きよったね。池行ったり小さい川行ったり。その程度であと何にも遊ぶことないしね。農家やもんでヤギを飼っとってね、乳を搾っとったの、家で。夕方になるとちゃんと搾っておったもんでね。わりとええもんやったんよ。そういうのはね。

特にえらかったことはねえ。…何しとったち覚えないもんでね。子守りして風呂沸かしてね。そういうことしとっただけやね。それから蚕を飼っとるもんでね。桑が家で足らんと、太田まで買いにみえるでしょ。そういうのを手伝って車を押しに行きよった。車で買いに行ったもんでね。昔の車やもんで台車って言ってガラガラのやつでしょ。重たいでお父さんが引いていくもんで私ら後ろで着いてって、山之上登ってかないかんもんでね、押して歩いとったね。そういうお手伝いをしよったね。今のようにあんまり学校では遊ばなんだね。遊ぶとこがないし運動場とられちゃうもんでね。戦争が負けてからは結構うちらも、野球やっとったよ。新しい先生が野球好きでね、うちら山之上であのころ加茂郡やなくて美濃加茂市か、加茂郡やわね。加茂郡で優勝したことあるでね。高等二年で。優勝して県大会行ったことあるよ。そういうのもあるね。それがまた、グローブとかああいうのないもんでねたくさん。人のやつを借りて借りてやらないかんもんでね、選手の分はあるけど予備の分はないもんでね。

空襲

あとは、一番最後の8月の今頃やね。この辺もしょっちゅう空襲があってね。名古屋の方も空襲やったね。岐阜県もばーんとサイレン鳴って、名古屋の方の焼夷弾が落ちてね、燃えるとこの、赤いやつがばーっと燃えるとこだけ、見えたね。山之上高いでしょ。赤くなってね。「あ、今日は名古屋が燃えとるな」って言って見とったけどね。直接飛行機は来ん、B29が高いとこ行くだけで。まあ、「これ日本負けるかな」と思ったね、その時は。あとほんとに、終戦の8月の10日ごろになるとこの辺も艦載機が来たよ。ダーッと来てね。太田の駅でも亡くなったもんね、駅の人が。汽車のとこへバババババーっと撃ってね亡くなった人が。広見でもね、たくさんのドラム缶に鉄砲で撃ってね、もう油がバーッと燃えて火が出て燃えよったけどね。それも覚えがあるんです。それから爆弾の落ちた不発弾がね、山之上の古井の天狗山のこっちらへんね。あそこにもちょっとおったんやね。みなさん言っとったし。私たちは大きい川がないもんでね、池へ水浴びに行きよったんやね今頃ちょうどね。ほうすると艦載機がビョーっと来てね、ブオーンってこの太田の辺をバリバリバリとやってみえてびゅーっと私ら山へ隠れよったけどね。おそがいもんで。ほんと人が見えるくらいやったよ。人がちょっと見えるんやね、飛行機でね。もうこうなると「日本はあかんな」と思っとったね。それまでは絶対勝つって言っとったけど。そういう体験があるね。恐ろしかったねそういうときは。どこ狙っとるや分からんもんね。あとは直接何にもしとらんもんでね、うちらは。そういったこととか、道路に豆蒔いたとか、そういういろいろ。なんといっても小さいでね子ども達。私らも分からんでね。学校行っても運動会なんか無かったもんねその時は。その戦争前はね。

進学

中学校はね、6年生出ると高等科ちゅうのがあったの。で山之上の高等2年卒業して、それから私たち近くやもんで加茂農林ね。あそこが、昔加茂農林学校あったでしょ。あそこへ入ったわけ。1年生で。入った年に学区制になって、中学3年生になったの私たち。それで3年生になるわけやら。高等2年で加茂農林に入って、1年生済ましたら、加茂農林の中学3年生の免許証貰ったんやよ。賞状もらったの。うちらのクラスというかあの年のクラスがおらんもんねそんな加茂農林の中学3年あらへんもんでね昔は。ほんでその翌年に学区制で、加茂高等学校ができたわけ。加茂農林が無くなって加茂高等学校になったんや。ほんで加茂高等学校で3年で卒業したの。あれ加茂農林高等学校が加茂高校やな。学区制で変わったもんでね。それから途中から加茂高分かれてったんやもんねまた。できたんやよ。私んた卒業してから。初め加茂農林しかなかったけどなあ。その前は、加茂農林は女子の専門やったもんね。女子もあったもんでね、男子と女子と両方あって一緒に授業しとらなんだけどあって、合併したとき加茂農林の2年生になるときに高等学校ができたもんで、加茂高等学校の1年生で入ったやら。そん時に一緒になったんや。女子の人も加茂農林の人も、例えば岐阜とか多治見とか関とかってあるでしょ。そっちの学校行っとる人とか全部帰ってきて一緒に加茂高でやってたんや。全部普通科の人はこっち帰ってきてもらわないかん。例えば特殊な学校の人は入れたけど、ほとんどみなさんみえたんやよ。ほんで一緒にうちら、友達がたくさんおる。クラスも増えたしね。ほんで加茂高で卒業しとるけどね。ちょっとややこしいね。それから、また加茂農林ができたんやね。ほんやもんで私らは学校の免許は、国民学校やでね、初めは尋常高等小学校やったら。小学校入った1年、2年ごろは。3年ごろから国民学校になったの。で国民学校の初等科の6年生出たわけやら。国民学校出たわけやね。それから今度高等科ちゅうやつがあって、そこへ入ったんやねみんな。ほんで6年生で、普通の中学校行く人は中学へ行ったんやね。あちこち行ったんやけど、ほんで2年経って、もう1年経って高等科ってでて、加茂農林は高等科出たら入れたもんでね。ほんで加茂高等科出てから加茂農林へ3年行かしてもらって1年目入って、1年終わったとこで学区制ちゅうやつになって、ほして全部私らは加茂農林の中学卒業生やちゅうことになって。ほんで編入で加茂高へ入れたんや。ほんでその時に皆さんが他所からずーっときて一緒になって。クラスもほんと増えて、加茂高も。6クラスくらいあったんやよ。

単位制

そうすると単位制やったもんでね、農業やりたい人は農業科の単位とらないかん。で国語とか数学とかあの体育とかって決まったやつは、全部やらないかんもんね。その他に、自由時間ちゅうんかね、単位を余分なとこで、例えば1週間5単位、って決まっとるね。国語数学5単位とらな。理科も社会も体育もやって言ってとるでしょ。その残りの時間いろんな授業やれたの。例えば商業科の簿記なんかやりたい人は簿記のやってもらってもええし、農業やりたい人は農業のとこやってもええし。例えば普通科の人やともっと他の勉強をね、同じような国語の勉強をもっといいやつやるとかね。そういうふうにずっと分かれてやっとった。ほんでも時間が1時間1時間違うんやて。自分で選択性やもんで、そんで先生がなんかバランスとってくださってね、教室も毎日変わったね。ホームルームはABCでちゃんと朝ホームルームの部屋行ってみなさんで一緒に。ホームルーム終わると、早や1時間目からどうぞ自分でって。例えば同じとこの部屋の子でも、国語は一緒、体育はここで一緒とか数学は一緒とかってあるけど。バラバラになって行きよったんやね。なんかちょっとへんやったね。そういう変則的な学校になっとったね、加茂高が。ほんで加茂高出るときに、単位の取った人は単位のやつをもらえて、取らん人は加茂高等学校の普通科やったの、全員。うちら百姓やっとったもんでね、農業のやつ取らないかんって言って農業とっとたやら。そんやもんでうちら農業科卒業。単位を取ったもんで。卒業になったんや。授業はみんな一緒にやっとたんやね、ずーっと。農業の授業だけは違う。農業科の子と一緒にやっとったけど。普通のはみんな一緒に普通科の子たちとやっとったの。ほんで友達が大勢いるわけ。国語の時間行くとあっちの子と一緒で、体育はこっちの子と一緒でって。ほんで学校中の子、同じ学年の子はよう知っとるわね。みんな知ってるわ、あちこちいくもんで。

玉音放送

【終戦の玉音放送は何処で聞きましたか?】うちは在所で、ラジオでね。何か知らんけど、なんか負けたってね。玉音聞いたで家で。あんま沢山なかったもんでラジオはね。たまにちょっとあったけど。家で聞いたそれは。なんか、今でも覚えとるけど節がね、なんか変わった録音って聞いたね。普通の録音やないみたやね。ほんやもんでねちょとへんな節やて。なんかとんちんかんっていうことは無いけどなんちゅうやな。へんな人やなへんな人やなって思いよった。節がええふうにしゃべりよるのに聞こえなんだもんねなんか。負けてまってね、どうなることやと思っとったけど。

B29

【B29が来たときは、山之上の上も飛んで行ったんですか?】うん、高いとこをね。もう昼来よったよ、B29が。空襲警報ちゅうともう来よったけど。この辺は落とさんけど名古屋、あっち行くと落とすんやね、結局爆弾を。高いとこを線を引いてね、シャーッと線を引いて通ってくね。両方でプロペラが4個あってね。ダーッてそうやって編隊になって行くもんでね、おそがい、おそろしいやね。あんなの下におったらだめやと思うもんでね。高いとこ行きよったんやね。8月のほんと終戦の間際は、艦載機が来たね。戦闘機がバーッと来て、このへんやったんやね。そん時に私らはもうあかんと思ったんやでね。こんな田舎の方まで飛行機が来ては駄目やなと思っておったけど。ほうしたら天皇陛下のあれがあってね。日本は負けたちゅうことで。早速もう学校の兵隊さんも解散しちゃったでね。

あれは機械の部品ね。ああいうのを運んだよ。俺ら学校でお手伝いでね。兵隊さんの車が来てようけ部品を持ってくるの。わからんけど部品をね。鉄の重たいやつとかいろんなやつをね。そういうのを農家のうちの広いとこがある家に預けよったの、一次的に。そういうのを運ぶのを子どもがやっとったの。持てる範囲で。

戦争について

【「日本は駄目かもしれん」というのは、周りの人も同じことを言っていましたか?】戦争のこと?そうやね、そりゃ戦争はやっぱりやったあかんよね。みんなが犠牲になるでね。みんなが犠牲になって、みんな不幸になるで。もう日本は70年来戦争はやらんってきとるで、やってもらわん方がいいて思っとるわね、私らも。それが割と反対する人が少ないでしょ。どっちでもええ人がいっぱいおらへん?そんなような気がするね。私ら見とると。まあそりゃ年やもんで、あんまり前出てかへんでね。言わんけど、もっと若かったらね、また「反対」って言って、なんか叫んでやりたいような気がするけど、ね。不幸の人いっぱいおるでね戦争では。

T.Kさん

女性としての戦時下生活

取材時年齢

86歳

取材時在住

美濃加茂市新池町

取材年月日

平成27年7月31日

学徒動員

戦時中だったら、ちょうど私たち6年生卒業する時に、国民学校ね。国民学校6年生の時にあれやったもんでね、で6年生終わって、地元の女学校へ入ったわけ。19年の6月までその女学校で勉強しとったわけね。で戦争が酷くなったもんで、6月で学校がね、解散になっちゃったの。その女学校がね。その前は女学校行っとっても、山を開墾してね。さつまいもとか、それこそ豆やね。豆やなんかを「今日は開墾に行く日やで」って言って、山の方へ行って開墾して、さつまいもとかそういうものをを作ってね、やっとったんです。それでまだ終戦前の19年の6月までその女学校行って。で6月で女学校が、戦いが酷くなったもんでもう、解散になっちゃったんよ。で、みんなそれぞれが軍需工場へ勤めに行かんならんのね。その時にここの腕章に「学徒動員」ちゅう腕章つけて、「神風」と書いたハチマキつけて、6月に「また会いましょうね」って言ってそこでみんな別れて、4つか5つくらいの工場へ分かれて勤めに行ったわけ。地元では、大きいお寺さんがあったもんで、そこへ兵隊さんたちが来て、お寺で寝泊まりしてみえたの。劇場も全部、その軍需工場で仕事をやってみえたし、私たちおった女学校も軍需工場して、兵隊さんたちがそこで仕事をやってみえたの。その年はね。

【工場では何をされていたんですか?】なんかね機械の部品みたいなものをね、作ってたんやね。

お百度参りと千人針

各家庭にはね、戦闘機が爆弾落とすって言って、蔵も全部黒く塗っちゃって。分からないように塗っちゃったの、黒く。ほんで家にある金物。火鉢とかね、お寺の鐘つき堂の鐘ね。あれとかみんなその時分は供出しんなかったの。あるものをみんな出してくれって言って、お寺の鐘から、自分とこの家やったら、金の火鉢やとかね、そういうものあったもんで、全部出しちゃって。金物何にもないように。なんか軍の方へ出しちゃったんです。戦時中その女学校行っとる時に、お百度参りってね、戦争に行かれる人の、祈願を祈るために、百回お百度参りって言って、裸足で奥之院まで行って、石を投げて戻ってくる。それを婦人会の人が、「今夜、お百度参りやでお願いしますね」って言って、そうやってみえるとついて行って、そのお百度参りを戦時中ね、兵隊さんが無事に帰ってこれるようにっていって、お百度参りをしたわけ。あと、千人針っていってね、こういう筆のね、あそこにたんたんたんっと赤い穴開けて、赤の糸でこぶ作って、こういうのにね、千。千作るわけ。ほんで寅年の人は、寅の数だけ千人針作れるの。普通の人は一個だけしか作れんけども、寅年は寅の数だけやもんで、「あ、あそこの家には寅年の人がみえたであそこ行こうかね」って、そういうとこ行って訪ねて、この千人針を作ってね、届けたわけ。皆若い人は特攻隊って言ってね、私の主人もそうやけども、まだ二十歳にならんうちに、特攻隊へ志願してね、予科練へ。行ったわけなんです。

女学校の生活

【女学校は、美濃加茂にあったんですか?】美濃加茂やないです。益田郡の金山町。下呂市。

【女学校の時、竹やりの練習などはしましたか?】あのね、女学校の時はなぎなた。長い。なぎなたの練習ばっかしやったね。

【当時給食はありましたか?】私たちの時は無かったね。お弁当持ってったね。お弁当の中も芋やった。

おしゃれよりも

【当時はどんな服装でしたか?】服装は、それこそもんぺって言ったね。もんぺ姿やったね。おしゃれしたいっていう気持ちは無かったね。終戦まで、私たちの年齢の人はお嫁に行くときにもんぺ姿でお嫁に行きなさった人いくらでもいたよ。

「勝つまでは欲しがりません。」って言ってね。「勝つまでは欲しがりません」っていう、いつもそういうことを言われとったね。で何にも、欲しいったってものがあらへんで。欲しいものが、食べる物がないでしょ。で「勝つまでは欲しがりません」って言っとったけども。食べる物もなかったからね。

親戚が疎開に

【金山には、疎開してきた子どもたちはいましたか?】金山は疎開はなしでね、他からね。私んとこの実家なんか2世帯。東京から私んとこのうちにね、住んでたわ。みんなどこの家もそういうふうにして、自分とこの親戚の人が疎開してきてみえたんよ。うん。ちょっと私たちのすぐ隣村なんかお寺へ、名古屋から学生がね、3年生以上の人がお寺へ学徒の疎開でお寺さんへ来てみえたんやけども。私たちのお寺さんは、兵隊さんがそこで寝泊まりしてやってみえたもんで、子どものあれやなかったんやけどもね。(親戚は)若い衆は東京に残して、おじいさんおばあさんを私んとこのうちの方にね、預けに来てみえたんです。

辛かったこと

【戦時中辛かったことは何ですか?】辛かったことはね、毎日それこそご飯なんかなかったもんで、大豆のね、配給ってのがあったもんで大豆のご飯。大豆のご飯とかさつまいものご飯とか。ご飯って言ったってお雑炊やわね。そういうのを、戦時中は食べとったの。じゃがいも入れてね。ほんと米はどこにあるか分からんくらいの、そういう食べ物やったんやて。お米の配給制度になって、赤ちゃんから2歳まで、5歳から7歳までって、4段階に仕切って、一日のお米のいただける量が決まってたんやわ。で私たちは、そのとき終戦後に役場に入ったのね。役場に入って、その配給係っちゅうのをやってたんやて。そのときにやっぱしそういうお米とか赤ちゃんにはミルクの配給とかね。そういう配給制度が、終戦後あったわけ。お米も15日分くらいやったね、ひと月にお米が来る日は。あとは、それこそ大豆とかさつまいもとかじゃがいもとか入れてご飯食べるちゅうだけで、お米は15日分しか配給がなかったんよ。

【配給は、終戦前はなかったんですか?】いつごろからやったやろうねえ。私が終戦後、役場入ってから配給の係になったもんで、あれやろ。その前からもあったんやろうねえ。今月は、10日分しか米の配給がないよって言っとったことがあるでね。10日から、今月は15日分お米の配給があるよって。あとは自分たちでね、補って。まだずっと田舎の方へ持ってって、着るものと、お百姓さんのとこ行って、お米とかそういうのと交換してもらってきてね、食べとったんやて。

終戦の時

【当時は、戦争には勝つと思っていましたか?】今日は真珠湾攻撃やあれやって、みんな勝ったニュースばっかし入ってきたでしょ。けども、「あー、あそこ陥落したよ、ここ陥落したよ」ってものすごくね、喜んでいたんやけども。ちょうど終戦を迎えて、20年の8月15日に陛下のね、あれがあった時には、私たち泣いてね。「ああ、やっぱし、戦争に負けたんやねえ」って言って、話したんやけどね。

兄が戦争に

【ご家族の中で戦争に行かれた人はいましたか?】兄が行ったわ。私の兄は、戦争に行っておるわ。でも無事にね、帰ってきたんやけども。家の辺でもほんと一軒に3人くらい行ってる家がね、4軒くらいあったね。あの時分はほんとね「産めよ、増やせよ」ちゅうときでどこの家族も大勢な子どもやったの。うちも八人兄弟なの私。女4人と男4人の。八人兄弟やけども、まあほんと皆どこの家も7人8人が多かったね。子どもが。

【お兄さんの見送りはしましたか?】昔はあったよ、うん。みんなして送ったんやて。お宮さん行って、それからもう日の丸の旗持って駅までね、送ってったの。今日は何処何処の人の出征日やでっていって。みんなして。で町長さんの挨拶があって元気で行って来いって。

【その時は、「勝ってきて」という思いでしたか?】そうそう、うん。その時分にね、歌があってね。「咲いた桜が男子(おのこ)なら 慕う胡蝶は妻じゃもの 生きて咲け桜花 俺も死のう 華やかに」って。その歌がもう頭にこびりついとる、うん。

S.Wさん

満州での忘れられない2か月間

取材時年齢

89歳

取材時在住

加茂郡七宗町

取材年月日

平成27年7月30日

満蒙開拓青少年義勇軍

兵隊は、わずか2ヶ月ちょっとかなあ。5月6月7月8月、やで2か月半。けれどそのうちに、誰も経験せんことを経験してきたわけ。

今の中学3年生。今は中国東北部やけども、元の名は満州国ちゅうの。これは日本の政策で、どえらいあっちの方へ兵とかやって進めて。侵略やったんやね、今から考えてみると。ほんでそれにえらい興味を持った。家出てかなかんちゅうこと何にもなかったけども、行ってみとうなって。今で言うと何かなあ、中学1年や。その時に志願をしたんや。でそれからその次の年に予備訓練。今の加茂農林高校やったな。あそこで宿泊訓練を受けて、学校の勉強どころやなかったけど。昔は尋常高等科1年が、中学1年や。高等科2年が中学2年やね。ほんで大体は、現在の中学2年になれば卒業ちゅうことになったけど。金のあるものや頭のいいものは、みんな高等科3年て。あとは中等学校行くとか、職を見つけるとかそういう時代やったもんでね、私は、満州の大平野へ行って働いて、ちいと名をあげて親たちを呼んで、第二の故郷を創るという。そういう気持ちで出て行ったんやね。うん。その満蒙開拓少年義勇軍に三年間。これはそういう規則があって。三年間たてば、各個人一人に30町歩の畑が無償でもらえて、そこで1代過ごしてもらう。そういう約束やったけど、何にもならなんだちゅうことやけど。そんなで満州へ出てったんやね。土地がもらえるどころか、やったことはみんな軍人の訓練と同じように、まるきり兵隊そのものやったんやね。それが3年間。ほんで3年過ぎて、入植する土地が決まって、6月に入植して、初めてくわを手にすることができたちゅうことや。そのうちに3年間に1度、故郷に帰れるちゅうことで、家に帰ってきて1ヶ月ほど遊んで、帰ってったわけやけど。その年、高等科2年。内地の人たちよりも1年か2年早めに軍隊へ入らなかん。で喜んどったのは、甲種合格にはならなんだ。身長が足らなんで。わずか1m53で、人に笑われるような小さい男やったもんで。乙種ちゅうので。この乙種ちゅうのは、軍隊で言うと2番目の段階やね。1番が甲種合格。乙種は2番目。ほんで3番目になると丙種。そのあとはまあ軍人になれん。病気を持っとるとか肢体が不自由とかそういう人たちやったね。

関東軍へ

でまあそういうようなことで、5年間まではおらなんだが、開拓に関係したことはまる4年。ほしてちょうど終戦の年、1945年の5月に、「関東軍へ入隊せよ」ちゅうことではじめて、軍人ということになったわけじゃけども。その軍人の期間はわずか2か月と半分。2か月半やったね。ほんで直接戦争に携わったわけではないけども、戦争以上に、なんちゅうかな、悲惨な状態の中でその2か月を過ごしたということ。その入ったことろが、一時、昭和の終りから平成の初めにかけて日本中で話題になったとこやけども。何をやったかちゅうと、率直に言うちゅうと、中国の捕虜を殺したちゅうことやね。ほんで殺すことは直接携わらなんだけども、今の捕虜の収容所の爆破やとか、捕虜の死体の…始末。そういったことをやったわけやな。ほんでこれ話があちこちするかもしれんが、ソ連が日本を侵攻するちゅうなにをはじめたのは、まず1番に今の中国の東北部満州の、日本がはいっとる、まだそのころそんなに大変な人数ではなかった。私んたが行った時が第四次。義勇隊で言うと、第四次やで。あと十三次くらいまで出てきたと思うけども。

こんなやつ見てもらっても、わからんな。まんだ大事なあれがあったけども、家を立て替えたときにいらんいらんてみんな、大勢で片づけたもんで大事なもんみんな捨てがってまって。母親がしまっておいてくれた手紙までちゃーんと、そのころ建てたのが平成元年やったで、それまでは大事に家でしまっといたら、誰か手伝いに来てくれた人か知らんが、「こんな古い手紙みたいなのええやら」って、どうも燃やいてまった。こんな大袋にいっぱいしまっとったのに、それが一番大事なあれになった。写真も何にも大変向こうで撮ったけども、また兵役終わったら帰ってきて開拓の仕事ができるやろうちゅうことで。みんなしまっといたんやね。そやもんで写真はあらせんわ、証拠になる手紙、「せっかく母がっとっといてくれたやつやで」って言って『重用』と袋に入れてしまっといたのに、燃やしちゃってあらへん。そんでがっかりしちゃってよ。いろいろ文章書くことが好きで、死ぬまでには何とか書き残したいと思って、そうやつを大事にしまっといたんやけど、ぜんぜんもうあらへんのやで。ほんと記憶だけで話さないかんようになってまったね。

異動

でまあそういうことで。今の軍役は、名前は、満州でも大きい街やけどハルピン市。現在でもハルピン。中国語ではないけどもハルピンいうんやね。ハルピン市からどうやろ2駅やったで、100キロくらい。10キロくらい北側へ入ったとこやったね。あそこにヘイボウちゅうとこやった。満州国関東軍の防疫給水特殊部隊。難しいことへ入ったもんやこれ。その前に歩兵を1か月間やって、そのあとにその特殊部隊入ったね。歩兵に入った場合は、まあこれは人殺しの訓練ばっかで、他のこと何にもやっとらん。ところが義勇隊でかなり鍛えとったもんやで、とんとん拍子で、なにさにつけてこんな調子のええとこないやって、仲間と一緒に勤めとったんやけども。ちょうど1か月経った時に査閲があって。その査閲もどえらい成績優秀で、そんなとこ褒められとってもあかんけどあって、終わった翌日。夜の9時か10時やったかな。呼び出されて「渡邉は明日、ハルピンの方の軍隊に配属になったで、行ってもらないかん。」おいたって言ったら?おいたなんて言ったらお前銃殺やぞって。昔はそういう、上からの命令は刃向かうことができなんだもんやでね。ほんでまあ、黙ってついてけって。ほんで次の朝早よう、そのとき歩兵部隊は牡丹江省の、エキガか。エキガのとこにある部隊で。そこではほんとかわいがってもらって、楽しとったわけやね。ほんでまあ命令なら仕方がないちゅうとこで、一人出てったわけや。で、今のヘイボウの防疫給水特殊部隊か。そこへ入隊する時にも来るのが1時間くらい遅れちゃって。もう、入隊時間に遅れると重営倉へ入らなんで。刑でも1番重い刑やけども、それを心配して恐る恐る行ったときに早や夜になっとったわ。まる1日かかって、ハルピンに。で行ったら門番が立っとって「入隊か」「はい。時間が遅れて、重い罪になるのか」って聞いたら、「いやいやええよ。今ここにみんなで食べた夕飯が残っとる。残飯やけども、食え。」そのころは腹がよう減る時期で。ほんで残飯だろうがなんだろうがちゅうことでもらって食べて。次の日からもう早や、配属の兵舎も何もかも決まっとったもんで入れられて、叱られもどうもせずに入隊時間の遅れは何ともなかったんや。やれやれと。

逆らえない

毎日何やったかちゅうと、衛生関係の講議ばっかりやった。まあ夏の暑いときに、ムシムシするような講堂の中でその講義を受けることが、苦しかったけれども、まあこれは辛抱してやるよりしょうがない。それでどんなもんやったかな。1か月の半分…30日間。そんなにもやらんかったと思う、30日くらい。ほれで日に焼けたからだが白うなってまって、もう早や死ぬか知らんと思うような体になってまって、室内ばっかやもんで。ほんでいろいろやっとって、成績が悪いっちゅうと酷い罰を受けないかんかったね。軍隊のスリッパちゅうのは、皮で作ったスリッパやで。ほんで私1回免れなんだが、みんな殴られる。そうした罪も罰もこっちから逆らうことが出来んで、やられるまんまに。中にはたたかれて倒れる者もおった。むごいことをするなと思って。ほんでそんなやつはまだあっさりした罰であって。ペーチカって、ご存じないと思うで。このくらいの周りで7人くらいで囲うとやっとこさまわれる大きな煙突なんやね。そいつが兵舎の中にたった一つある。そこへ連れられて行って、「これから蝉をやれ」って。蝉をやれっていうのは、それに抱き付いてミンミンやることで。さーて、そんな大きなもので、つるつるのコンクリートで仕上げたるんやで。そんなやつ抱えて止まることもできん。ほんでも何とかしてやらないかん、何とかしてやらないかん。みんなに台になってもらって足を両足、二人の肩に足をかけて。ほうやってやって、静かに抜けてもらって、ほうすると、1秒か2秒つらまっとることはできるわね。ほうで長いことつらまっとると、ミンミンをやらなん。ほん時に声を出しても「蝉は尻振る」って、こうやって動かさないかん。尻動かすとダンっと下へおっちゃうの。そんなやつ。これは嫌なやつやったね。そんなこと一回やらせられたことがある。

講義の最中に雨が酷う降って、急に作った兵舎やもんで中泥だらけになっちゃった。ほんで夕飯も食べられなんだ。お茶も飲めん。生水飲んだら生水飲んだでこれは義勇軍に行った初日から言われた教えやったけれども、腹減るしどうしても飲まなならんてちょっと飲んだら、軽いマラリアにかかったんや。私一人だけやないええか。大勢。下痢になっちゃってね、講義の時間に便所にとまってこのまんまおりゃ人の笑いもんになるし、着替えるものも何にもない。ほんで便所へ行く。便所の数だってそう大層はあらへん。そこに婦人便所ちゅうのがあるな。ほんで初めのうちは婦人便所を遠慮しよったけれども、ついに婦人便所へ入っちゃった。でそれを上官に、あれは上官って言っても上等兵やったで大したあれやないけども、見つかっちゃって。ほんでその時は何にもなくてやれやれと思っとったら、兵舎へ帰ったら「今日便所へ行った者前へ出よ」。しゃあないで出てったんや。ほんで「何にも言わずに婦人便所入った者」そん時私は婦人便所入っとった。前へぱっと出た。1番に出たんや。ほんで後のものはみんな、もじもじもじとうろたえてなかなかさっさと出なんだんやね。ほんでなんじゃかんじゃ言われとるうちに、何や30人くらいおったかな。ずーっと並んで、ほんで1番頭がその時も今度は帯革ってこのくらいの幅の、剣を吊らなんで丈夫なバンドやわね。そいつを自分のやつを抜いて、それで叩く。これでやられると、血が出るし。でも最初やったでかしらんが、最初の一つは痛くてここ黒にえとったらしいが、自分で見えへんし鏡もあらへんで見るわけにいかなんだが。痛いことは痛かったが1回叩いただけで次行った。ほんでまあこれで済んだやれやれって。ほしたら順番に向こうの方行ったら仕舞ほど酷うなって、もう叩く方がへとへとになるくらいやったね。そんな罰まで受けて、辛抱してきたわけやったで。

言われるままにやったこと

25日くらい経った8月の、ソ連が開戦したのが9日やったで、8月の7日の日やなかったかな。今度また「体に自信のあるもの、前へ出よ。」って。どっちみちあれやで、死ぬ覚悟でここまで出て来とるやっちゃでええわって。やっぱり一番に飛び出て行った。ほうしよったら、そう大勢ではなかったが、200人くらいの内で20人。ざっとやで30人はおらなんだで、出た。ほんで出たばっかに非道い目にあったとあのときは思ったけれども、これもまあ若いでできたことやけども、辛抱してやったが1週間という間は、後で話すけれども全然寝とらん。寝て歩いた。ほんで酸素ボンベにぶつかった。耳がここが切れて。ほんでも何も手当てしとるわけでもない。なんかここに塗り薬もらって塗ったくらいで、知らんうちに治っちゃったけども。その1週間寝ずにやったことは何かちゅうと、さっきのちょろっと言いかけとった中国の捕虜、300人ざっと300人やで、多いか少ないかはわからん。一兵卒やもんやで、そういうことはぜんぜん関知せんし知るわけもなかったんやね。だから言われるままにやってきたこと。最初の前の日は、捕虜がおるちゅう場面は見て、ずーっと廻って行って。ほんで次の朝早よう起きたら、今のみんな倒れとるんや。「あれ、どういうことやろう」と。言いよったらそのうちにだんだん風の便りか。軍属が集まって、毒殺したっていうんやね。ガス。ガスや。ほんですでにそれ以前にかなりそういう研究が進んどって戦争に負けなんだら私んたもゆくゆくはその仕事をやらんなん。まあそいつはそんなけで終えとくが。それをどうするか。7回8回…9回やったかな。個室やったね。みんな、一つの部屋に1人ずつその捕虜が入って。ほんで、7回までの間で1回2回は、捕虜が入っとらなんだ。みんなそれを、外に投げ出すんやね。窓から。そんなこと、まあご飯が出ても食べれんわ、むごいやら、胸が詰まってまって、ご飯も食べれなんだ。涙流しながら。まんだ、全部死んどりゃええけども、中には目をキョロッキョロッと動かしたり、腕を動かしたり、生きとる者もおる。それもそのまんま放り出しとる。それが2日かかったかな。後は、誰がやったか知らんが、ドラム缶にガソリンが運び込まれて、ガソリンで焼いてまったんやね。ほんでその後殺した死体を焼いとる間に、今度捕虜の収容しとった建物、これ鉄筋コンクリート建ての頑丈な建物で、全部窓は鉄格子で。今のサッシの格子。あれとおんなじ幅くらいで太さが1センチくらいの鉄の棒やね。それでできとる。それを取り外せんなん。そんな取り外しができるような道具もあらせんみんな、酸素ボンベで焼切らんことには取り外せん。おっそろしい仕事で、今度は自分の命が危ない。そいつをみんなで声掛け合って、壊して。その壊したやつをトラックで、ハルピンに、中国語で名前スンダリやなかったかな。松花江ちゅうどえらい大きな河があるんやね。その川岸でほかるやつならええが、舟で今度持ってって中に橋が架けたって、その橋を歩かないかんかった。ほうやって持ってって真ん中の方で沈めるんや。そいつ終わったら今度は、死体がまんだぬれたようなやつもあったけども、肉が付いたような感じやった。それをカマスに詰めて。これはもう真ん中。スンダリのど真ん中に持ってって、捨てる。そんなけが4日ほどかかったかな。その間、昼間は当然、漏れて悪いことやないで働かなんだけれども、屋根下に入って暑い中で日陰に入って、昼寝もできなんだね。いつ何やあるやわからへんで。ほうやって、1週間。まる1週間やったで、そんなやつが4日ほどかかって、あとの3日、そんなけが、戦争に行っとっても殺し合いはあったやろうけども、殺し合い以上に悲惨やと思ったね。

逃げる

その仕事終わって今度は、自分の身の回りのものかかえて、まあその時はぼけーっとしちゃって眠たいだけで、何しとるか分からんような状態やったけども。そこを爆発する、電気を送るで「早う逃げてこい」って。自分が危ないで早う逃げて来いって。ほんなことやったことないけども、まあっちって。どっちみち死んでもええやって言って、全部シンカンに電池入れて。爆ぜて、建物が潰れてまうまで見届けて。

ほして、いよいよ今度自分た逃げる。逃げるっちって、その玉音放送ちゅうのを私ら聞いたことないんやね。知らんうちに「日本戦争に負けた」ってそういうことになって。で「今までやったことは絶対人に漏らすな」。この本を買うまで、よう人に話さなんだ。うん。止められとったんやね。ほんで、銃も帯剣も家まで持って家まで帰って来とるんやで。命は助かった。この部隊に入ったばっかに。それでその隊員が散らかってまって今の行為が外部に知れ渡ると、酷いことになるもんやで。ほんでソ連に抑留することもなし。なんとか無事に帰れたが、まだこれから帰る後の話をちょこっとしたいんやけど。その辺だけは、自分では幸せやったなと思うんやな。

ほんで爆破終わって建物潰れてまって、何にも見えんようになった。よしもうこれで行けるわと思ったら、汽車に乗れって。汽車に乗ったことはええが、汽車は有蓋車と無蓋車とあって。有蓋車というのは、屋根のある風が入らん汽車やね。ほんな暑てうだるような暑さや中は。そんなやつに入らなあかんかった。食糧なんかは誰が積んでくれたか分からんが、積んだって。米なんか十分あったんや。でそれを積んで出かけた。が、途中で全部現地人に盗られちゃった。盗られるとしゃあないまあ大勢来て、こっちは鉄砲持っとったけども弾はあらへんし。剣あっても人を殺すことはできへん。汽車で、隅っこの方で隠れとった。そのうちに全部、引きずりおろされ盗られちゃった。

帰路

こうやって地図整理してみるとあれやな。俺はずいぶん遠いとこまで行っとるな。(70年にもなるんやねえ戦後から。命があるでまんだ。そう思いながら。)これをこう登って。南の方は行かん。ちょっと地図細かいでわからんかもしれんが、この国はご存じのようにどえらい広い国やで、地図にするとこんなやさしいとこにはいっとる。今まで話いたのはここまでの話やね。ほんで爆破終わって有蓋車に乗って、このハルピンまで戻ってこういうふうに行って。ここら辺まで来ると積んできた食糧、米だけやけど無うなっちゃって。これは話すとずいぶん日にちがかかっとるんや。ここ、おそらく10日くらいかかっとるんや。それで余計盗られちゃったんやね、食糧。ここは歩兵部隊があった、最初に入ったとこやけど、これをこのまんまずーっと来て、ここまで10日くらいかかって。普通ならそんなにかからへんね。ここからずーっと行って、朝鮮の先の釜山までいくんちかかったかな。10日やな、10日間かかって、釜山からはその日に家まで帰れたで。この図們てとこで汽車が止まって。もう1日たっても2日たっても動かん。どこへ行って米を積んできたのか。トラックで行っとるもんやで、まさか朝鮮までは行きゃあせんでこっちで行って。まあどんくらいかかっとるか知らんツウカのどこかで、食糧を確保したんや。ほうして帰ってきて積んで、いよいよこの朝鮮半島へ入るわけやね。ほんで真ん中あたり入ってどこや。ここの間でも、今度は朝鮮人が竹の竿に材木をくすげて動かす鉤で、今のようなビニールの袋あらへんもんやで、藁で作ったカマスちゅうやつやね。あれはぽーんってやるとよう引っかかって、ひっぱりゃそのままずーっと引っ張れる。そいつで入口のとこに積んどるもんやで、もんな引きずり下ろいてまう。ほんでこっちから何もすることない米こぼれるとべーっと顔にぶつけてやるだけや。そんくらいにしたりして。トイレもありゃせんし。

そうやって朝鮮入ってからも、とにかく1か月。このハルピンのヘイボウから釜山まで来るまでに1か月もようかかって帰ってきた。ほんでその内にはいろいろな笑い話があるわ。駅止まったたんびにトイレにみんな行くけれども、まあ小便の場合は何処でやっても男やでどうっちゅうことは無かったけれども、大便のが板があって、雨が降って水が溜まっとる、そこでするよちゃあ、跳ね返りがびゃあっと上あがってきて、尻が…はっはっは。そんなやつがね、しゃあないでしたけれども。外じゃ野原行ってしてきた方がええけど汽車がいつ出るか時間がちょっとも分からへんのやね。ほんでそんな苦痛を感じたり。有蓋車ってここ戸を開けたり閉めたり。ほんで小さい窓があるんや。ちょうどここに棒が2、3本あって。ここで尻出して大便するんや。小便もそうやったけれども中で寝たり起きたりせんならんで。ほんで米はここで盗られる。そりゃ中のほうに入れりゃいいゆうものの、夜になると大陸はどえらい寒なってね。風邪ひいたり、病気のもとになる。ほんで中の方は自分たが寝たり起きたりする。昼間だけ暑てかなわんだけやけども。ほんでここへ食糧や自分の持物積んだるんや。まあそういう状態の中で1か月と8日かかって山口県の、萩ちゅう小さい港や。それももう船は今の1万tや2万tなんていう大きな船じゃなしに、ちいと嵐がありゃひっくり返ってまうような。上陸用の船乗ったまんま大きい船へダーッと乗り込んで行ってまう船。なんか小さい1艘に10人くらいずつしか乗れん、それで帰ってきたんやね。まあ沈んで死んでまったらそれまでやっていうつもりで、帰ってきたけれども。

ほれでここに着いてまた、訓示が「今までしてきたことは、家内も友達にも誰にも話すやない。自分でしまっとけ、死ぬまでしまっとけ。」そういうことを言われてね、ほんで誰かに話したい、誰かに話したいことは話したいってそんな気持ちで、とにかく過ごしとった。ほんで太田の佐々木書店ちゅうとこ行ったらこれがあって、偶然目に留まったもんやで。「あったあった。」って。まあ、普通の人は、こういう尊い本があるのに全然読まへん。ここに書いたるのまったく一字も違わへん。やってきたことが。(読んでもらいやわかるやら。)ちょっと読むのえらいか知らんが、読んでね。  『日の丸は紅い泪に』

…ここで3年訓練をして今度、3年終わって入所するのがここ。まあ北も北。まるっきり端っこやね。ええとこやったここ。ここが1番楽しいちゅうか、いよいよ力入れてやれるちゅうとこやでそりゃ生きがいがあったわけやね。ほんでここが1年とちょこっと兵隊に行くまで。あとこれはこの訓練所におるときに、最初にここへ行ってここで軍用道路作った。あのまるきり奴隷みたいなもんやわ。軍隊に使われて。ほしてここでは軍用道路つくって。

関東軍ちゅうのは軍隊のうちでも、内地の軍隊よりも強い軍隊ちゅうことで、有名やったんやね。ところが戦争に負けるときは弱いもんや。もっとも弾薬もないし、兵器も剣やない、竹のさややった。剣を入れるさやが竹で作ったるんや。ちーと飛んだりすると竹が割れて剣が出て、自分にくすがるようになってまう。そんようなんしかあらへんかったんやで。軍隊としては強いあれやったかもしれんが、もう私んたが行った頃には弱いもんやったからね。その代り絞ることは十分絞られて。とにかく青春時代を全部、こういうことで過ごしちゃったんやで。それであの、人生のうちではどえらい被害を被ったと思うんやね。

教員の道へ

ほんで軍人は軍属まで、家族が亡くなるまで面倒見てもらえたけど、義勇隊は全然見てもらえん。たった5年間5千やったか、5万円の金だけもらって、あとは何にも援助はあらへんなんだで。まんだほかの死んだ者は軍属扱いになるか。おりゃ、死にゃあ良かったと思った。(ほんでもね、命からがら逃げてきて今生きとるでね)ほんでも命からがら逃げては来なんだけど。楽に逃げてきたで。ほんでここの地元の母校やけども、校長がどえらい熱心な人でね、学校の先生のお手伝いに来てくれんかっていって。その時が22歳の頃やな。22歳の時に来て、24年まで引きずった。「あかん。学校も出とらんし学問もさげとらんで、先生なんかになれる資格なんかないで駄目や」って断り続けてきたが、2年、もう忘れるころになったら来て。「頼む、頼む」て。ちょうど教員も不足しとる頃やでね。とうとうこっちが根負けしたというか、そのころちょうど静岡に富士川農学校ちゅうとこがあって、そこ入ることをあれして。試験を受けんでも履歴であの入校さしてやるちゅうて。入校の案内が早や来とったわけやね。ほんでそれ見たら、「そんなとこ行かんでいい。俺が農産学校の方もあるし、農業の細かいことなにもかもあるで見してやるで、勉強しや良い。」「先生やったら勉強できんやら」って言ったら、「いやいや、俺が認めるでええ」って。ちゃんとやってもいいって。とうとう負けて1年間だけやりますって。ほんで1年間過ぎたころ面白いっつったら面白い。学校面白くてかなわん。まあ黙ってやるかって。ほうしてやるんやったら免許証がない。免許証とるためにはどうしやええって。講習や通信教育や、そういうものがあるでそういう学校へ臨時で2,3か月はいけるで学校へ行くとか、そういうことをしやええって。そんでできることからやりゃええっていって、あの講習は夏休み全部休まずに、毎日土日は除いて講習に、ほぼの学校であったもんやでね、そんで150単位くらい講習で単位を取って。あとは、玉川大学の通信教育。これがえらかったわ。自動車の運転も素人やし、おそがいながらも名古屋の明和高校やったか。明和高校やな。あそこへ試験受けに。その試験が全部とんとんで通りゃええけども、1回や2回はちゃんと不合格や。これまた取り直しにいかんならん。まあそうこうするうちに、昭和24年に学校に入って、25年には臨時免許もらえて。27年に仮免許状を取ることができた。ほして昭和35年。35歳にして初めて、小学校教諭2級の免許状、それが取れたんや。ほんでまんだ足らんでって言って単位が。ほんでまた通信教育。そんで42歳。ちょうど親父の死んだ歳やな。42歳で初めて、1級の免許状を取ることができた。ほんでまあやれやれ、まだそりゃ中学とか高校あるで取れって。ほうしたらまあおじさん取れなんだけどね。そういうことがあったおかげに、なんとかもう、今はこんなにのんびりと暮らしができるくらいやで。

奥さんのお話

私んたも家におるときは戦時中やったよ。ちょうど卒業する時にはあれやったもんで。さつまいもを学校、勉強そのものやないもんでね、もう薪背負いから、さつまいも作って主食で食べてね、そういう生活をしてきとったんや。ほんでお嫁入りしてもらうときには、お米が配給で。私の在所はお百姓が沢山やったもんで、そのお米を物々交換して塩を貰ったりお砂糖貰ったりして、物々交換して食べとった。そうやけど配給でしょ。お米もこのくらいしかもらえへんし、ほんで麦こんくらい入れてお米こんくらい入れてご飯炊いとった。ほんでこういう夏の暑い日は腐っちゃってね。そんなような生活してきたもんで、まあ戦争終わってからでも苦しい目にあって来とるでねみんな。なかなか自由なあれがなかったよ。配給やったね。ほんとにお米がないのが残念ね。そういうことになると。まあ辛い思いしたなって思う。

岐阜駅

軍隊から帰ってきてあの頃汽車なんかまともに乗れやせん。窓から飛び込んだり下りたりするようなそんなような混んでまって。ほんでそのようなで、わしらのような体の小さいものは窓からぴょんと入れたで、ほうやって乗り降りしたりね。ほんで1番驚いたのは岐阜の駅。降りたことはええが、あんまり駅を利用したこともなかったけれども、春日に行くときには2,3回は行ったことあるもんやで、ホームへ降りて来たら町はむちゃくちゃに焼け野原ちゅうやつやね。あれになってまっとるし、ホームなんかさっぱりどこへいってまったやらわからへん。駅員に聞いてなにした。がっかりしたあん時は。まあほんとに。

(自分で整理せないかんてもう早や歳になったもんで構いたくないでしょ。ここを若いもんがやるとね。ほんやもんで知らん顔して逃げてまうもんで、よけ何処へしまったかわっからへんようになる。でももう必要ないわ、私が死ぬまではっていうくらいのことやわね。よう聞いてくださったねほんでもね。ほんで上手に話がしたいけれども、まとまった話ができんもんで申し訳ないと思ってね。)

奥さんの兄

(15歳の時に思い切ってみんな有志のものは行くちゅうことになって、ちょうど私の兄もね、一緒やったの。旦那と。一緒に行って、戦争終わって逃げて来よるうちに、腸チフスちゅう病気になってまって、ほんでやっぱり入院して。『死亡』のとこにあるんやけど。水が飲みたいけど飲んだらいかんって。まあ逃げてくるもんで飲みたいだけやわね。病気やから。でどうやっても飲まずにおれなんだで飲んだらそれが最後。そのまま倒れて亡くなっちゃったわね。そういう話を聞いて、ああほんとやったなあと思ってね。)

今思うこと

こういう大東亜戦争で犠牲になったものの気持ちをもうちょっと察してくれな敵わんな。大事な青春時代を、国の為の国策やなんか。そんなふうにして酷い目に遭わされてよ。1か月の日当が、義勇隊のうちは3円や。1か月3円やよ。1年経って36円や。そんな報酬でさ。軍事訓練が多かったとは言いながら、畑はいくらでもはえとれちゅうんやで、あっちの土地はよう肥とって無肥料でなんでも採れるやっちゃで。だいぶ野菜も穀物も、採りよったんやね。生産しよった。そういうやつの金がだいぶ入っとってもいいような気がしたんやけども、微々たるもんやった。

自分体験したことがええことならええけれども。惨めな中国人をあんな目に遭わせちゃってよ。どうせ殺すんやったらそのまま釈放したればよかった、生かして。というようなそういう憤慨するっちゅうか、まあ心が収まりつかんで。そういう経験しとると。(だから日本人もそうやって痛めてきたんやね。あの返しが来ると思うんよ。ほうやけどそん時の思いはどうにもならなんだっていうでね。やらんならんかったもんで。大変やったらしいよ。)死体を焼くときでも、みんな「ええにおいがする、ええにおいがする」って言いよったけども、俺はちょっともええにおいせん。そういうのに携わっとらんものはなんやろなんやろって知らずにおる。(こんなことしてええんかしらと思ったってね。そういう話はようくしたけれど聞いたけど。15歳から行って青春時代は何にもないもんで。)そういうことで、安全保障制度はええかげんにして、日本を今迄通り平和にしてほしいちゅうことは、思うね。一番、そういうことは強く思う。

この開拓の政策でもそうやけども、なんやかんや言っとる上の。昔は特に軍閥主義やったであれやけども、一部の者に引っぱられてまったっていうこと。でこんな大きな戦争になっちゃったやね。勝ちゃええけど負けてまった。(負けた悔しさは何ともいえんわね。もう勝つばっかと思ってね。みんな一生懸命に満州広げようと思って、一生懸命やったんやて。そういう気持ちはわかるよ。ほんとに。そうやけども情けないことにね。日本は負けてまってということやで。まあ仕方がないことやで。それこそ知らん人はこんなん嘘かしらと思うようなことやね。ほんとにね、悲しかったと思うよ。)ほんで義勇隊生活ちゅうやつは、あの苦しい中も楽しいことがたいへんあったもんやで。気の弱い、トンコン(屯墾)病ちゅうやつにね、トンコン病ちゅうやつはご存じないかもしれんが、家に帰りとうてしょうがない病気なんやわ。そうそうホームシック。そういう病気になって帰った者も大勢おるんやね。

船と汽車の話

【向こうへ行くときは、どの港から出たんですか?】何回も行き来しとるで、何回もって2回だけやが。最初義勇軍に行くときは敦賀の港。福井県敦賀市。敦賀を出て北朝鮮の、今はまあそんな呼び方やないが、清津から羅津。ほれからみんな満州鉄道に乗ったわけやね。羅津で。ほーんで船が移動揺れてね。熱田丸ちゅうどえらい大きな船やったけど。敦賀を出港するときに、そのころはまんだ港で出るまであの、海にいろいろおるやつが出て来ちゃあ泳いどるやつを見とったら、クラゲがうようようよ~って出て来ちゃあ気持ちよさそうに泳いどる。子どもやわそりゃね、まんだ。ほうやもんやで釣れんかちゅうことになって。ご飯粒、夕飯食べるのまっとって、そいつを持ってきて釣ろうかって。糸にご飯粒を縛り付けて落といたると、ちゃんと咥えて上ってくるけど、1mから2mになってくるとどぼーんって。へっへっへ。そんな楽しみをしてよ。家を捨てて寂しいとも悲しいとも思わん。楽しいことやと思って、遊びながらしよったら、?ほうして、どんなけともいかんうちに、甲板に出とる者みんな船室入れちゅうことで。甲板が海になったようにでーんと荒れるようになった。ほうしたら船が揺れて揺れて揺れたかいて船の中のこういう前やけども、ところどころこう台がとってあって、このくらいの高さの。ほうして通路が割合広くとってあったんやね。ほんでひとしまひとしまに何人やったかあれしたかわからんけど、ほんであれ夜出て次の朝10時ごろに清津に着いたかな。もう酔っちゃって、船がどんなふうにして動いてきたやら何があったことやらさっぱりわからん。何か人の話によると「渡邉はおかあ、おかあ言っとったぞ」って。ほんとに死んだかしらんと思うほど苦しかったんやね。ほんで清津で降りて陸に上がったら、陸地が動いとるんやないか。ふらふらーふらふらーって歩いて。ほんで清津の町をふらふらっと歩いて。ほんで半日くらい歩いて清津を発ったかな。夕方早や羅津へ着いたんや。羅津へ着いたら今度は立派な開拓会館ができて、立派なホテルができて。そこで泊まることになった。ほんでもまだえらいことはえらいしまあどうでもようなって、みんなから離れとった。で便所行くと水洗便所で、こんなことは初めてやでどえらい便所に入ったってよ。ほんで笑ったことやったが、夜が明けるまでちったあ寝たやな。

朝、太陽が昇りかかっとったで何時、時計は持っとらんし、何時っていうことも分からなんだけども。汽車に初めて乗ったわけやけども、満州鉄道に。いやあ、良い汽車でね。別に広いこともなかったが、ここらへんの新幹線と一緒やわね。6人ずつ横一列に乗れる席で、どえらい重車に乗ったみたいやった。汽車の話するとまたいろいろ出てくるけれども、前を見て来よるとレールがさーっと沈んでくの。ほんで通り抜けるとぼこんと跳ね上がるんや。土地が軟らかいもんやでね。おそがいやったよ、脱線するか知らんと思って。そんな感じで、「ああ、珍しいことや珍しいことや」って何やったが、駅から駅までの間がひょっとすると1時間くらい乗って走らないかんとこがあるかもしれん。とにかく一面坡の訓練所に着くまでに、7か所くらい止まっただけやでね。もっとも特急やっちゅうこともあったけれども。ほんで今はそんなことないが、機関車の上には大きな銀がついとって。乗務員が綱引っぱりよる。カーブへ来たり踏切があるとこへ来ると。じゃーんじゃーんじゃーんと。ゆっくりしとるなあと。はっはっは。のんびりと綱引いてじゃーんじゃーん鳴らいて行くんやね。そんなやつが面白かったな。初めてやったもんやで。こっから近いとこで1区間、太田駅くらいまでは完全にあった。やっと乗っとる。ただ、汽車の中が朝鮮半島から満州国へ入ったころにはニンニク臭うてよ。まあ嫌で嫌でかなわなんだが、今はニンニクのにおいそう嫌いではないけどもあのころは嫌やったね。ほうしてまんだ胸に残るのは、あれは豆満江か?なにか川、朝鮮の民族衣装を着て、その高いとこ汽車通って行くわけやわ。今の中国の東北部入るときは。ほんで川が真下に見えるもんやでね。民族衣装がそれはとってもきれいで、こんなようないろいろな濃い色やでね。それを見とると、なーんたらきれいやろ。あれが朝鮮人かよなんてよて。ふっふ。ほんであの何しよるかちゅうと洗濯しよるんや。なんか棒の野球のバットをちょっと短こうしたこんくらいのやつ。あれで石の上でぽんぽんぽんぽん叩いて。それで洗濯終えたものは、何に入れよるそこらへんなにや見えなんだけども入れ物に入れて頭に乗せて、タッタタッタと帰ってきよる。入れ代わり立ち代わりで北朝鮮の住民かなんか知らんが、あれが珍しかった。ほして、汽車のデッキが、この汽車は高いら。1mかデッキがあるわけや乗るんやけども、野原から飛んできてほやほやほやっと乗れるように、低うこんなくらいしかあらへん。ほんで脱線かなんかしてもそうどえらい大きな事故になんかならへんのやな。まず脱線したなんちゅう話はしたことない。ほして、寒さが厳しいもんやで二重窓で、窓開けてもなかなか外の景色が見られない。難儀して開けて原住民に叱られたり。風が入ってくるとあかんでって。風入ってくるてええやんと思って。へへへ。そんなけが珍しかった。

N.Iさん

徹底した軍事教育

取材時年齢

83歳

取材時在住

美濃加茂市伊深町

取材年月日

平成27年7月26日

小学校教育

私は伊深でずーっと終戦までおりましたもので。出て行かないから、そういう意味で市原さんのような空襲警報とかなんかのどえらい怖い思いをしてないわけですけど。むしろ私は、学校で戦時教育を受けたそのことの方が印象が深いわけやけども。体験したちゅうことは、戦時中ですからやっぱり戦争教育ちゅうか、そういうのをもう徹底されたちゅうことやね。私は市原さんよりちょっとだけ年上やでほんとならあれやけども、命に直接関わるようなそういう体験はしてないわけですね。まず小学校ずっと体験したということになると、飛行機が飛んでくると、「あの飛行機はどういう飛行機やろう」と、そういうことを想像する勉強の一環として当時は、音を出す機械がオルガンしかなかった。私たちの頃は。私は伊深ですから、伊深の小さい小学校で先生が、それらしい音をヴー…っといわして、たとえば大型爆撃機のB29。それの音とか、航空母艦から飛んでくる艦載機って呼ばれたあの飛行機、グラマンっていう飛行機があったと思いますがあの当時。その音と聞き分けるようなそういう勉強を音楽の時間にしたという。こういう音がしたらB29が飛んできて、どこで爆弾落とすや分からんで気を付けていましょうっていうね。艦載機や、まあ小型の戦闘機ですけどグラマン戦闘機って言いましたけどそういう、ちょっと音が違うんやね。だからそういう飛行機の音の聞き分けをまず勉強させられたということ。それから体作りということでは、よくテレビのドラマなんかでやりますが、藁人形を作って竹槍で刺す。そういうのを4年生のころからやりました。ちょうど4年生に、いわゆる徹底した軍師教育がおこなわれたもんで。体育の時間などに、校庭に藁人形が何体も作ってある。村人たちのそういうやつやと。その藁人形使って槍の刺し方を、ただこうやっただけでは刺せへんでって、槍の刺し方を教えてもらったっちゃ、教えられたと言った方がいいかな。そういうようなことを。それから、そのほか体育の中では、剣道とか、ようするに武道というかたちで剣道。柔道は先生いなかったで、まず剣道と、今のこの槍を刺す、銃剣術という。銃に、刀が付いてあるから銃剣というわけ。そういうようなことを、小学校のまもなく4年生から、はいったと。

美濃太田襲撃

空襲警報とか警戒警報とかいうのは、初めのうちはそんなになかったけども、やっぱりあの美濃加茂市というか、当時美濃加茂市やない、伊深村やったもんでね。伊深の山の中ですからそんなになかったが、でも夜になると、警戒警報発せられると、明かりをまず消す。家の中の明かりを消しちゃうという。消さずに家の中で、シートで電気をカバーして。でもほんとその電気を消しただけで、そうゆうような生活を強いられたわけやね。それはまあ日常生活での、決まりやね。で空襲警報で何したという。学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。あまり記憶にないですけれども。昔は太田は機関車の集積するとこやったもんで。蒸気機関車が何台も集まってきて、高山線と越美南線の機関車が全部今日はこの機関車を持ってくとそういうような車庫があったの。そこへ、時期ははっきり覚えておりませんけども終戦の間際にきたときに、終戦の前の年やったと思うけども、その車庫に止まってる機関車に、飛行機からボボボボーンと機銃掃射って飛行機で上から撃ったという。

戦場に行きたい

私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。

岐阜空襲と名古屋空襲

戦時中一番怖いなと思ったのは、岐阜の空襲の時。岐阜の空襲の時は、いつも伊深の空の上を、何機飛行機が行ったか分からん。飛んでた。それは爆撃機やなしに、小さいね、グラマン戦闘機やったと思うけど。大きい爆弾やなしに焼夷弾。燃やす。バーンって破裂して壊してしまうんやなしに、爆弾落として火をつけて燃やすという、そういうあれやったと思いますので。その様子見たら、そうかなと思って。あれが、破壊するんやなしに消失させるための空襲やったかなあとね。それが何機も飛んどるもんで、一機や二機やないわけやな。何機来たかそんな覚えもないけども。当然間違って爆弾落とすかも分からんし。そういう怖さは、そのときもあった。一機や二機ならいいけども、それがもう、かなり長いどのくらいの時間やったか。そう思いながらね。でしばらくすると、西の方の空が夕焼けで染まったんや。赤くなって。そのくらい、岐阜の火事はすごかった。同じことが名古屋の空襲のときにも。名古屋の方の空が、伊深から見てもずっと山の方が、あかあかとしとった。そのくらい一斉に燃えたわけやね。名古屋は2回そういうのがあったと思うけどな。

【名古屋の時は、(伊深の上を)飛んでいかなかったんですか?】名古屋の時は、飛ばない。名古屋の方は大きい爆撃機で。今の自衛隊の飛行練習はうちの上よう通る。やっぱり、飛行機の飛びやすい場所かなと思ってみたりするけども。とにかく岐阜の空襲のときは、うちの真上とは言わんけど、どの辺飛んだか真っ暗ですから。飛行機は小さい明かりをつけてるけども。そんな外へ出て見とるのに叱られちまうような状況ですから、家の中で。今の中学1年生のときでした。【防空壕ではなく、家の中に逃げた?】うん。自分の家にはそんな避難小屋も何にもないですから、家ん中に。まあ伊深のような田舎ではそうです。中には山際に家のある人では、家の裏に横穴を掘って避難小屋にしたという話を聞いたことはありますけど、まあ伊深にはあんまりそういう家はなかったですね。家がずっと並んどるわけやないもんで。

今思うと怖いけど

【学校に防空壕掘ったのは、中学校の時でしたっけ】中学校行ったときに、まず一年生は防空壕掘りをやらせられた。自分たで。私たちの学校はできたばっかりの私たち3年目の生徒でしたもんで。自分たの防空壕は自分たで掘るんやて。まあそんな大したことやねえ。ただ前から見て、見えな結構やったで。そんくらいのあれでした。直接目の前で爆弾が落ちて見えたとか、そういう体験をやっぱり田舎ですもんでね。同じ今の美濃加茂市でも太田の方はそうやなかったかと思います。そういう体験できた方はいらっしゃらんかもしれんけど。太田だけやったと思います。結局中心やで。ここんとこの人たちはね、ずーっと工業地帯ですから、この近辺では太田だけやったと思います。

言えることは、早う兵隊さんになって戦地へ行って、米軍と戦いたいということはちっとも怖いことやねえ。そういう教育をされとったんやね。で、兵隊に行きゃ死ぬこと当たり前のようなことで。死んだ人のことを軍神、戦の神様なんて言い方しとったでね。亡くなった人の葬式は、村中で。小学校で葬式あって。その後に個人個人の仏式の葬式。そういう教育ちゅうのは非常に怖いなあと。ちょうど今、憲法改正とかいろいろありますけども、やっぱり死ぬということが当たり前だという。戦争に行けんような奴は国賊やて。というような言い方された。例えば一定年齢になると兵隊検査ゆうやつがあったんやね。そしてそれに受かるのは甲種合格と乙種合格。甲種合格は立派な人や。戦争に行っちゃった。軍隊入れるのは乙種合格までという。乙種合格になったら皆にバカにされちゃうぐらいですから言わへんわね。そういうようなものの考え方が徹底されてた。そういうようなことを今思うと怖かった。でもちっとも怖いことやなかった。当たり前で。そういう徹底した軍事教育がなされたということやろうか。【その教育を何も疑問には思わなかった?】うん。そういう教育が全然なされてないから、行くのが当たり前で。そういう教育しかなかったんやね。