投稿者「nabe」のアーカイブ

K.Hさん 朝鮮へ

その次の年の3月に、そこの会社の従業員を募集する人が来て、そのころはそういういろんな会社から私のうちはこういう事をしてますという募集に来た。その時にその人がそういったもんだから、私行きますって言ったんや。私はその当時ちょうど高等科2年、今の中学2年。昔は高等科2年生までしかなかったから。2年の時にうちの親父らが行けと言ったんで、兄貴も加茂農林行っとった。だから受験したけれどもね、ここが悪いもんだから落第した。落第したのはね東は加茂郡の白川町、西は岐阜市、北は美濃市、南は土岐からね、特修科って言うその科があって、そこね。今で言うなら高校で落第したやつばっかりが集まって。家で遊んどっても来年学校受けるのに勉強できやへんから、学校へ来て1年勉強して、もう一ぺん加茂農林を受けるという。そこへ行っとった時にそういう事があったもんだから、その年の3月また高校の受験をするという、加茂農林もう一ぺん行くというはずやったけどやめて、そういうことをやりよった。蜂屋の学校で同じ同級生の私の他に3人行く人がおって、4人行くということは決めて、岐阜県中で22人一緒に北朝鮮行ったの。朝10時何分か11時何分かの岐阜の駅で汽車に乗って、その日の晩下関へ着いた。ほんで下関から釜山へ行く、還付連絡船ちゅうのがあったでね、それに乗ると次の日の朝もう釜山へ着くと。釜山へ着いたらその日の夕方、現在のソウル。そこへ着いて、旅館で泊まるかなんかして次の日の朝汽車に乗って、現在の北朝鮮へ着いたと。私らがそこへ着いたのはもう夕方暗くなってから。ほんで朝起きたらね、もうびっくりしたのは、4月の10日に家を出たんだから,4月の10日いったらもう、今は温暖化で4月の初めに桜の花咲くんだけど、私ら子どもの頃には4月の7、8日から10日ごろにかけて桜の花が咲きよった。それが向こうへ着いて起きたらもう朝寒い寒いって、外出たら一面に霜が出とる。で桜の花が咲くのが5月の10日ごろ。ちょうど家と比べると1か月遅い。それくらい、もう北の方だという事やね。

【その製鉄会社で作っていたもの】普通の鉄とは違って、特殊鋼という鋼をつくる。その材料をつくるとこへ配属された。

K.Hさん ニュース映画

私がね、ちょうど中学3年を卒業した年の4月に、私は北朝鮮に行ったの。でなぜかというとそのころは、もう若い者は大東亜協栄、いわゆる中国も満州もそれから東南アジアも、アメリカとかイギリスとかフランスの植民地になって、みなそれで貧しい暮らしをしとるから、そういう人たちを自分で働いたら自分の利益になるような国にしようじゃないかとゆうことで若い者は満州行きなさいとか。そういう時代やったもんやで、その時のちょうど高等科2年の時に、あんたらは考えられんかもわからんけど、昔は映画を見るなんちゅうことはね、太田には映画館は無かったし岐阜まで行かな映画は見られなんだの。そういう時代やったから、夏休みにね、私は伊深村が1年に2回か3回学校の運動場にこう幕をして、映画会があったの。それはもう村中誰が来て見ても無料で。もう2時間か3時間の映画。そのときにニュース映画ちゅうのをね、20分か30分くらいやったかな。あのそういう今、こういうふうで侵略したわこれ落としたわちゅうふうに。ある鉄鋼会社が、大きな鉄の鉱石の山があると。その中に、一か所は製鉄工場で使うのがある。その当時の製鉄工事は35%以上鉄分が含まれてないと。高炉と言って、直径7,8メートルで高さは十何メートルのところへ鉄鉱石と、コークスって知っとる?コークスいったらね、石炭に熱を当てるとそのガスが出るんや。そのガスを昔はその都市ガスとして、一般の町の人が東京とか大阪の人がガスの栓をひねるとそのガスが出ると。そのガスは石炭を、700度800度の、熱するとガスだけ出る。煙だけ出した後に残ったのが炭やわね。ちょうど炭を作るのと同じ原理で残ったコークスと言う黒いパンみたいにあの、スポンジみたいに穴がいっぱい開いた塊があるんや。それを混ぜて、鉄鉱石というのは鉄の酸素と結合したの。だから酸素をコークスという炭素で、入れると燃えて炭酸ガスが出る。そうすると鉄が残るという。まあそういう原理でしとったんやけども、それが35%以下のものでは使いもんにならんと。だからそれをどうしたら使いもんにできるかということをいろいろ考えて、それを細かく粉にしてそれを水に溶かして。その水に発泡剤って言って今では洗剤入れるとすぐ泡が出るわね。そういう泡のできるものを入れて下から空気を送ると、ぶくぶくっと泡ができると。その泡の表面に鉄鉱石が集まるということを発見して。全体の中の3分の1、3分の2以上は石や。石の塊やわね。石の粉の中に20%から25%の鉄鉱石があるんやけども。泡さえ集めたら40%50%の鉄分が集まるということを発見して、それを製鉄工場でしますというのを、そのニュース映画で見たんや。

A.Nさん 祈りを込めて

(これは貴重な写真やね。)これはね、ここの市長に最初見せたら、どうもちょっとグッと来たらしいもんで、ほんだもんで?神社へこれを見て初めて行ったらしいです。ほんで、神社へ毎年、今年も来てくれるかということでそれはどうや知らんけどね。これも、1番大事なたからやわね。

で、ここに日章旗があるでしょ。これはね、みんな寄せ書きって言ってね、おたくらでも卒業するときにいろんな友達やいろんな名前書いて進学頑張れよとかいう事を書く。ほれがね、近所の方あるいは親戚、そうした方名前が全部刻まれてね。頑張って行けよとかそういう激励の旗なんです。それから千人針って言って刺繍でね、敵に撃ち勝って来いというそういうのがあるといいんやけどな。ほんとはようわかる。(それぞれの祈りを込めて。)そういうことも、昔は風呂屋さんにたくさんあったわねそういうの。今みたいに個人の風呂はほとんどあらへん。ええとこの人しかあらへんなんだもんで、田舎は別として。うちらの方はお風呂屋さんでね、昔風呂五銭か十銭かしらんで風呂へ入らしてもらって、ほんでそこにそういう寄せ書きするとこがあったもんで。(千人針というのはね、ちょうどこれくらいの丸が千個打ってあって、その丸のとこへ針に糸を通して出して。これに糸をくるくるっと巻いてまたすると、こういうまるん中に糸がこんなんなったのができるわけよ。ほんでそれを例えばあなたにお願いするというと、じゃあこの出征する丹羽さんのお父さんが元気で働いてくださるように、という願いを込めてすると。そういう祈りを込めて千人の人がこういうのをしたと。それを丹羽さんのお父さんが体に巻いて行った。みんなが祈りを込めて。)そうそう。まあそれは、実物を見ると一番ええんやけどね。(まあないわねえ。)実物は岐阜の神社にあったかなかったかそれはしらんけどね。(例えば丹羽さんのうちに置いておれば残っとればあれやけども、お父さんが巻いて戦地へ持ってってまったから)体に巻いてね。(で向こうで死んでしまえば)それでしまいやわね。そういった、祈りを込めたちゅう。今は死にに、会社でも海外出張やなんかはそんなことしいへんしね。意味が全然違うでね。そういう点はね、昔の人は偉いもんやったと思ってね。そういうことで助け合ったということやね。ただ、死んでくるじゃないぞと。いう願いを込めて。

A.Nさん 日本が勝つと思っていた

【当時は、日本が戦争に勝つと思っていましたか?】そうそうそう。そうやなけりゃそりゃ、父親たち出征してけへなんだでね。そらそういうつもりで誰もいけやへんでね。やっぱり何とかして勝利して、やっぱり「祖国の為」ということと、家族のためやわね。そういう気持ちで、出征して行ったと思いますよ。それはもう、まぎれもないことやと思います。(先週、つっちゃん来たときさ、うちのおふくろ役場におったやな。でも悲しい顔も何にもしなんだと。「そうか」ちゅうの。)そうやね、もう覚悟決めてらしたんやな。うちは亡くなった祐泉寺のおっさま。あの人が通知をもって来らしたの。ほんで話はまるきり別になるけど、元町の提灯屋さん。あそこは3人亡くなっちゃったんやでね。ひとりは戦艦大和で亡くなって。であとふたりは、中国かどっかしらんで亡くなってね。ほいで祐泉寺のおっさまござるとまあほんっとひやっとしよったで。みんなその亡くなったちゅう知らせばっかを。一軒でね、兄弟が沢山あるとこは3人くらい亡くなってみえる人がおる。まあ戦艦大和で亡くなってみえるで頭のええ人やわな。普通じゃ乗れへんでね。案外戦艦大和、蜂屋にも一人おらっせるでね。亡くなってみえる人が。

A.Nさん 沖縄戦について

あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。

だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。

A.Nさん 追悼

結局、1番最初に言ったように赤紙一枚。ようするにはがき一枚でね、あんたはここへ、戦争へ行ってきなさいと、国で指令をしてくれたわけやでね。それで行って、戦いで敗れて戦死したわけですけどね。今、国で追悼式とか、市でも今度10月2日に追悼式が。市もやってくれるんです。ほれから県は、あの岐阜で10月の23日やったかな。それもやってくださる。ほいで国では、8月15日。もうじききますけど、私も行ってくるんですけど東京の武道館でね、追悼式をやってくれるんです。言ってみれば、我々は当たり前の事やと思っとるわけですけれど、まあそれに対していろいろな反対派もあるわけですけれど。出発するときの誓いとしてはね、やはり「俺たちは、靖国神社で会おう」ということで。亡くなったら靖国神社でという気持ちで出征していったわけです。その靖国神社は、今は総理もいろいろな反対があって、内外の反対もあって行ってはいけないということでね、我々遺族では、とにかくそんなこと言わずにとにかく、総理が国の代表としてひとつ、行って参ってくれるのが本当じゃないかということでお願いしとるけど、なかなか内外の反対でよう行かれないということは、非常に我々は残念ですけどそれで、日本武道館で、別のとこで追悼式をやるというかたちを今は取っておるんです。

まあだいたい、大体って言ってもそりゃまあ話しよるといろんなことが浮かんでくるもんでね。さっき言った、空襲で逃げ回ったこと、防空壕でもとにかく空襲警報が鳴るとすぐ防空壕へ入るのがひとつの鉄則でしたもんでね。途中で食べ物ないと、桑いちごを食べたりね。桑いちごっていって、桑にいちごがね、小さないちごができるんです。(今は桑があらへんわ。)ああ、桑があらへんか。あれも食べた覚えがあります。あんなもん食べれたもんやないですよ。(食べるもん何にもないでな。)何にもなかったんやでね。芋っちゃあ蔓まで食っちゃうんやでね。ほれから、甲羅キビって。(あのころはキュウリが食べもんやったね。)ほんとやて。キュウリとかそういうもんはね。比較的すぐ成りよるもんでね。

A.Nさん 父の遺骨

(骨はもらいに行った?)ああ、骨って言ったって何にもあらへんよ、海軍やもんで。ただ、(名前書いただけの。)うんそうそう。東別院か?岐阜の。東別院へ貰いに行ったんです。親父の骨やね。(白い箱で)そうそう白い箱で。わしは東別院まで貰いにいった。おふくろと一緒に貰いに行った覚えがあるね、骨。なんにも入っとらへんでね、骨ん中ちゃあ。もちろん海で亡くなっとるもんでね。(もしあってもだれの骨や分からへんもんな。)うんそんな程度のね。ほいで、あれ合同慰霊祭やってくれやんかなあ。東別院でものすごい200くらいあったんかなあ。みんなこのくらいの箱がだーっと並んどるんやわ。そこの一人やもんで。終戦直後やもんでね、骨貰いに行った覚えがある。おふくろと二人で行った覚えがあるね。ほんで家で葬式やるったって、もちろん今のような葬式ができひんかったけども、覚えとるのは砂糖や餅もあらへんなんだもんでね、柿の熟したのが甘いもんでね、そういうものでお萩を作っとったような覚えがありますね。それで甘みをとって砂糖の代わりにしたりね、いろんなことをやってそりゃまあ、おふくろたちはえらかったわねそういうことをやりよったんでね。ほんでやっぱり、こんにちがあるわけやでね。だからよう支えてくれたと思うんです。

A.Nさん 学校

ついでに見といてもらいたいのが、これが太田の小学校。今は鉄筋できちっとなってますけどね。これは私たちが1年生の時の写真です。要するに入学式やわね。ほんでこの頭の禿げた方はヒダっちゅう校長先生でね。この女の先生。この先生が怖かったんです。そんなこと言っちゃいかんけど、もうほんとにね、ものすごい怖かったんです。言うこと聞かなんだらビンタやられとったでね、いっくら小さい子でも。今やったら一発にそんなことやったら先生クビになってまうもんでやらんけどね。ビンタくらいはもうしょっちゅうでした。怖かったですね。まあ今これちょっと見てみるに、半分は亡くなったね。やっぱり。今はだいたい80歳近いでね。半分くらいは亡くなりました。この女の子も今ちょっと思い出せんけどね。おかっぱでね。昔は、まあ今そんなことはないけどシラミを湧かいたりね、ほいでGDTを頭の上からかぶせるんです。だーっと。シラミが湧いとるもんでね、そのくらい不潔、不衛生なの。シラミっていってもちょっとわからんでしょ。はっはっは。そういうこともあったし。真っ裸にされてね、粉をまくんです。シラミがおるちゅうと、熱には弱いらしいもんでね、着とるものを湯の中へ浸けてね、それで退治をしとったんです。そういう苦しいこともありましたね。(だにとか蚤。蚤は、ちょっと大きいか。)蚤はちょっと大きいね。シラミなんて言ったらほんとにね、このくらいの。

A.Nさん 空襲

それでさっきも言ったように、戦争が進んできたちゅうのかね、出征してったのが18年で終戦が20年でしたもんで、その間はやっぱりさっきも言ったようにご飯っていったってまともなご飯食べれなかったんです。芋とか代用食とかすいとんとかそういうものばっか食べて生きてきたちゅうことやね。これも、作ったものを食べるだけでしたもんで、自分でとってたべるとか作って食べるとかそういう事じゃないんですもんでね。比較的苦しみは少なかった。ただだんだん怖くなってきたというのはさっきも言ったように、各務原とか岐阜というのは空襲に遭いよったわね。ほいでね、西の空が真っ赤になってね、岐阜も爆撃に遭ってね。それから各務原の飛行場ね。蘇原の駅のあそこらへんはもう酷くやられたと。ほんでここの近くでいうとカヤバ工業もね、焼夷弾が落ちたんです。知っとるかね。(知っとる。ダーッてね。)ねえ。あれはもう、何年やったっけまあその時もね、空が真っ赤でね。(藪へ行ったの。)そうでしょ。藪へ逃げたんや。そうです。逃げるとこがないもんで。ほんで防空壕へ、防空壕っていってもそこらへんの田んぼや畑、田んぼはないですけど。畑やなんかはほとんど防空壕って言ってね、あんなとこそんなん爆弾なんて落とされたら一発でやられることは分かっとっても、そういうものは作りよったんです。ほいで上はなるだけ分からんように、芋を作ったのね。最初そういうカモフラージュはしとったというような覚えはあります。まあそういうときはほんとに苦しかったわね。

A.Nさん 戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。