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S.Wさん 帰路

こうやって地図整理してみるとあれやな。俺はずいぶん遠いとこまで行っとるな。(70年にもなるんやねえ戦後から。命があるでまんだ。そう思いながら。)これをこう登って。南の方は行かん。ちょっと地図細かいでわからんかもしれんが、この国はご存じのようにどえらい広い国やで、地図にするとこんなやさしいとこにはいっとる。今まで話いたのはここまでの話やね。ほんで爆破終わって有蓋車に乗って、このハルピンまで戻ってこういうふうに行って。ここら辺まで来ると積んできた食糧、米だけやけど無うなっちゃって。これは話すとずいぶん日にちがかかっとるんや。ここ、おそらく10日くらいかかっとるんや。それで余計盗られちゃったんやね、食糧。ここは歩兵部隊があった、最初に入ったとこやけど、これをこのまんまずーっと来て、ここまで10日くらいかかって。普通ならそんなにかからへんね。ここからずーっと行って、朝鮮の先の釜山までいくんちかかったかな。10日やな、10日間かかって、釜山からはその日に家まで帰れたで。この図們てとこで汽車が止まって。もう1日たっても2日たっても動かん。どこへ行って米を積んできたのか。トラックで行っとるもんやで、まさか朝鮮までは行きゃあせんでこっちで行って。まあどんくらいかかっとるか知らんツウカのどこかで、食糧を確保したんや。ほうして帰ってきて積んで、いよいよこの朝鮮半島へ入るわけやね。ほんで真ん中あたり入ってどこや。ここの間でも、今度は朝鮮人が竹の竿に材木をくすげて動かす鉤で、今のようなビニールの袋あらへんもんやで、藁で作ったカマスちゅうやつやね。あれはぽーんってやるとよう引っかかって、ひっぱりゃそのままずーっと引っ張れる。そいつで入口のとこに積んどるもんやで、もんな引きずり下ろいてまう。ほんでこっちから何もすることない米こぼれるとべーっと顔にぶつけてやるだけや。そんくらいにしたりして。トイレもありゃせんし。

そうやって朝鮮入ってからも、とにかく1か月。このハルピンのヘイボウから釜山まで来るまでに1か月もようかかって帰ってきた。ほんでその内にはいろいろな笑い話があるわ。駅止まったたんびにトイレにみんな行くけれども、まあ小便の場合は何処でやっても男やでどうっちゅうことは無かったけれども、大便のが板があって、雨が降って水が溜まっとる、そこでするよちゃあ、跳ね返りがびゃあっと上あがってきて、尻が…はっはっは。そんなやつがね、しゃあないでしたけれども。外じゃ野原行ってしてきた方がええけど汽車がいつ出るか時間がちょっとも分からへんのやね。ほんでそんな苦痛を感じたり。有蓋車ってここ戸を開けたり閉めたり。ほんで小さい窓があるんや。ちょうどここに棒が2、3本あって。ここで尻出して大便するんや。小便もそうやったけれども中で寝たり起きたりせんならんで。ほんで米はここで盗られる。そりゃ中のほうに入れりゃいいゆうものの、夜になると大陸はどえらい寒なってね。風邪ひいたり、病気のもとになる。ほんで中の方は自分たが寝たり起きたりする。昼間だけ暑てかなわんだけやけども。ほんでここへ食糧や自分の持物積んだるんや。まあそういう状態の中で1か月と8日かかって山口県の、萩ちゅう小さい港や。それももう船は今の1万tや2万tなんていう大きな船じゃなしに、ちいと嵐がありゃひっくり返ってまうような。上陸用の船乗ったまんま大きい船へダーッと乗り込んで行ってまう船。なんか小さい1艘に10人くらいずつしか乗れん、それで帰ってきたんやね。まあ沈んで死んでまったらそれまでやっていうつもりで、帰ってきたけれども。

ほれでここに着いてまた、訓示が「今までしてきたことは、家内も友達にも誰にも話すやない。自分でしまっとけ、死ぬまでしまっとけ。」そういうことを言われてね、ほんで誰かに話したい、誰かに話したいことは話したいってそんな気持ちで、とにかく過ごしとった。ほんで太田の佐々木書店ちゅうとこ行ったらこれがあって、偶然目に留まったもんやで。「あったあった。」って。まあ、普通の人は、こういう尊い本があるのに全然読まへん。ここに書いたるのまったく一字も違わへん。やってきたことが。(読んでもらいやわかるやら。)ちょっと読むのえらいか知らんが、読んでね。  『日の丸は紅い泪に』

…ここで3年訓練をして今度、3年終わって入所するのがここ。まあ北も北。まるっきり端っこやね。ええとこやったここ。ここが1番楽しいちゅうか、いよいよ力入れてやれるちゅうとこやでそりゃ生きがいがあったわけやね。ほんでここが1年とちょこっと兵隊に行くまで。あとこれはこの訓練所におるときに、最初にここへ行ってここで軍用道路作った。あのまるきり奴隷みたいなもんやわ。軍隊に使われて。ほしてここでは軍用道路つくって。

関東軍ちゅうのは軍隊のうちでも、内地の軍隊よりも強い軍隊ちゅうことで、有名やったんやね。ところが戦争に負けるときは弱いもんや。もっとも弾薬もないし、兵器も剣やない、竹のさややった。剣を入れるさやが竹で作ったるんや。ちーと飛んだりすると竹が割れて剣が出て、自分にくすがるようになってまう。そんようなんしかあらへんかったんやで。軍隊としては強いあれやったかもしれんが、もう私んたが行った頃には弱いもんやったからね。その代り絞ることは十分絞られて。とにかく青春時代を全部、こういうことで過ごしちゃったんやで。それであの、人生のうちではどえらい被害を被ったと思うんやね。

S.Wさん 逃げる

その仕事終わって今度は、自分の身の回りのものかかえて、まあその時はぼけーっとしちゃって眠たいだけで、何しとるか分からんような状態やったけども。そこを爆発する、電気を送るで「早う逃げてこい」って。自分が危ないで早う逃げて来いって。ほんなことやったことないけども、まあっちって。どっちみち死んでもええやって言って、全部シンカンに電池入れて。爆ぜて、建物が潰れてまうまで見届けて。

ほして、いよいよ今度自分た逃げる。逃げるっちって、その玉音放送ちゅうのを私ら聞いたことないんやね。知らんうちに「日本戦争に負けた」ってそういうことになって。で「今までやったことは絶対人に漏らすな」。この本を買うまで、よう人に話さなんだ。うん。止められとったんやね。ほんで、銃も帯剣も家まで持って家まで帰って来とるんやで。命は助かった。この部隊に入ったばっかに。それでその隊員が散らかってまって今の行為が外部に知れ渡ると、酷いことになるもんやで。ほんでソ連に抑留することもなし。なんとか無事に帰れたが、まだこれから帰る後の話をちょこっとしたいんやけど。その辺だけは、自分では幸せやったなと思うんやな。

ほんで爆破終わって建物潰れてまって、何にも見えんようになった。よしもうこれで行けるわと思ったら、汽車に乗れって。汽車に乗ったことはええが、汽車は有蓋車と無蓋車とあって。有蓋車というのは、屋根のある風が入らん汽車やね。ほんな暑てうだるような暑さや中は。そんなやつに入らなあかんかった。食糧なんかは誰が積んでくれたか分からんが、積んだって。米なんか十分あったんや。でそれを積んで出かけた。が、途中で全部現地人に盗られちゃった。盗られるとしゃあないまあ大勢来て、こっちは鉄砲持っとったけども弾はあらへんし。剣あっても人を殺すことはできへん。汽車で、隅っこの方で隠れとった。そのうちに全部、引きずりおろされ盗られちゃった。

S.Wさん 言われるままにやったこと

25日くらい経った8月の、ソ連が開戦したのが9日やったで、8月の7日の日やなかったかな。今度また「体に自信のあるもの、前へ出よ。」って。どっちみちあれやで、死ぬ覚悟でここまで出て来とるやっちゃでええわって。やっぱり一番に飛び出て行った。ほうしよったら、そう大勢ではなかったが、200人くらいの内で20人。ざっとやで30人はおらなんだで、出た。ほんで出たばっかに非道い目にあったとあのときは思ったけれども、これもまあ若いでできたことやけども、辛抱してやったが1週間という間は、後で話すけれども全然寝とらん。寝て歩いた。ほんで酸素ボンベにぶつかった。耳がここが切れて。ほんでも何も手当てしとるわけでもない。なんかここに塗り薬もらって塗ったくらいで、知らんうちに治っちゃったけども。その1週間寝ずにやったことは何かちゅうと、さっきのちょろっと言いかけとった中国の捕虜、300人ざっと300人やで、多いか少ないかはわからん。一兵卒やもんやで、そういうことはぜんぜん関知せんし知るわけもなかったんやね。だから言われるままにやってきたこと。最初の前の日は、捕虜がおるちゅう場面は見て、ずーっと廻って行って。ほんで次の朝早よう起きたら、今のみんな倒れとるんや。「あれ、どういうことやろう」と。言いよったらそのうちにだんだん風の便りか。軍属が集まって、毒殺したっていうんやね。ガス。ガスや。ほんですでにそれ以前にかなりそういう研究が進んどって戦争に負けなんだら私んたもゆくゆくはその仕事をやらんなん。まあそいつはそんなけで終えとくが。それをどうするか。7回8回…9回やったかな。個室やったね。みんな、一つの部屋に1人ずつその捕虜が入って。ほんで、7回までの間で1回2回は、捕虜が入っとらなんだ。みんなそれを、外に投げ出すんやね。窓から。そんなこと、まあご飯が出ても食べれんわ、むごいやら、胸が詰まってまって、ご飯も食べれなんだ。涙流しながら。まんだ、全部死んどりゃええけども、中には目をキョロッキョロッと動かしたり、腕を動かしたり、生きとる者もおる。それもそのまんま放り出しとる。それが2日かかったかな。後は、誰がやったか知らんが、ドラム缶にガソリンが運び込まれて、ガソリンで焼いてまったんやね。ほんでその後殺した死体を焼いとる間に、今度捕虜の収容しとった建物、これ鉄筋コンクリート建ての頑丈な建物で、全部窓は鉄格子で。今のサッシの格子。あれとおんなじ幅くらいで太さが1センチくらいの鉄の棒やね。それでできとる。それを取り外せんなん。そんな取り外しができるような道具もあらせんみんな、酸素ボンベで焼切らんことには取り外せん。おっそろしい仕事で、今度は自分の命が危ない。そいつをみんなで声掛け合って、壊して。その壊したやつをトラックで、ハルピンに、中国語で名前スンダリやなかったかな。松花江ちゅうどえらい大きな河があるんやね。その川岸でほかるやつならええが、舟で今度持ってって中に橋が架けたって、その橋を歩かないかんかった。ほうやって持ってって真ん中の方で沈めるんや。そいつ終わったら今度は、死体がまんだぬれたようなやつもあったけども、肉が付いたような感じやった。それをカマスに詰めて。これはもう真ん中。スンダリのど真ん中に持ってって、捨てる。そんなけが4日ほどかかったかな。その間、昼間は当然、漏れて悪いことやないで働かなんだけれども、屋根下に入って暑い中で日陰に入って、昼寝もできなんだね。いつ何やあるやわからへんで。ほうやって、1週間。まる1週間やったで、そんなやつが4日ほどかかって、あとの3日、そんなけが、戦争に行っとっても殺し合いはあったやろうけども、殺し合い以上に悲惨やと思ったね。

S.Wさん 逆らえない

毎日何やったかちゅうと、衛生関係の講議ばっかりやった。まあ夏の暑いときに、ムシムシするような講堂の中でその講義を受けることが、苦しかったけれども、まあこれは辛抱してやるよりしょうがない。それでどんなもんやったかな。1か月の半分…30日間。そんなにもやらんかったと思う、30日くらい。ほれで日に焼けたからだが白うなってまって、もう早や死ぬか知らんと思うような体になってまって、室内ばっかやもんで。ほんでいろいろやっとって、成績が悪いっちゅうと酷い罰を受けないかんかったね。軍隊のスリッパちゅうのは、皮で作ったスリッパやで。ほんで私1回免れなんだが、みんな殴られる。そうした罪も罰もこっちから逆らうことが出来んで、やられるまんまに。中にはたたかれて倒れる者もおった。むごいことをするなと思って。ほんでそんなやつはまだあっさりした罰であって。ペーチカって、ご存じないと思うで。このくらいの周りで7人くらいで囲うとやっとこさまわれる大きな煙突なんやね。そいつが兵舎の中にたった一つある。そこへ連れられて行って、「これから蝉をやれ」って。蝉をやれっていうのは、それに抱き付いてミンミンやることで。さーて、そんな大きなもので、つるつるのコンクリートで仕上げたるんやで。そんなやつ抱えて止まることもできん。ほんでも何とかしてやらないかん、何とかしてやらないかん。みんなに台になってもらって足を両足、二人の肩に足をかけて。ほうやってやって、静かに抜けてもらって、ほうすると、1秒か2秒つらまっとることはできるわね。ほうで長いことつらまっとると、ミンミンをやらなん。ほん時に声を出しても「蝉は尻振る」って、こうやって動かさないかん。尻動かすとダンっと下へおっちゃうの。そんなやつ。これは嫌なやつやったね。そんなこと一回やらせられたことがある。

講義の最中に雨が酷う降って、急に作った兵舎やもんで中泥だらけになっちゃった。ほんで夕飯も食べられなんだ。お茶も飲めん。生水飲んだら生水飲んだでこれは義勇軍に行った初日から言われた教えやったけれども、腹減るしどうしても飲まなならんてちょっと飲んだら、軽いマラリアにかかったんや。私一人だけやないええか。大勢。下痢になっちゃってね、講義の時間に便所にとまってこのまんまおりゃ人の笑いもんになるし、着替えるものも何にもない。ほんで便所へ行く。便所の数だってそう大層はあらへん。そこに婦人便所ちゅうのがあるな。ほんで初めのうちは婦人便所を遠慮しよったけれども、ついに婦人便所へ入っちゃった。でそれを上官に、あれは上官って言っても上等兵やったで大したあれやないけども、見つかっちゃって。ほんでその時は何にもなくてやれやれと思っとったら、兵舎へ帰ったら「今日便所へ行った者前へ出よ」。しゃあないで出てったんや。ほんで「何にも言わずに婦人便所入った者」そん時私は婦人便所入っとった。前へぱっと出た。1番に出たんや。ほんで後のものはみんな、もじもじもじとうろたえてなかなかさっさと出なんだんやね。ほんでなんじゃかんじゃ言われとるうちに、何や30人くらいおったかな。ずーっと並んで、ほんで1番頭がその時も今度は帯革ってこのくらいの幅の、剣を吊らなんで丈夫なバンドやわね。そいつを自分のやつを抜いて、それで叩く。これでやられると、血が出るし。でも最初やったでかしらんが、最初の一つは痛くてここ黒にえとったらしいが、自分で見えへんし鏡もあらへんで見るわけにいかなんだが。痛いことは痛かったが1回叩いただけで次行った。ほんでまあこれで済んだやれやれって。ほしたら順番に向こうの方行ったら仕舞ほど酷うなって、もう叩く方がへとへとになるくらいやったね。そんな罰まで受けて、辛抱してきたわけやったで。

S.Wさん 異動

でまあそういうことで。今の軍役は、名前は、満州でも大きい街やけどハルピン市。現在でもハルピン。中国語ではないけどもハルピンいうんやね。ハルピン市からどうやろ2駅やったで、100キロくらい。10キロくらい北側へ入ったとこやったね。あそこにヘイボウちゅうとこやった。満州国関東軍の防疫給水特殊部隊。難しいことへ入ったもんやこれ。その前に歩兵を1か月間やって、そのあとにその特殊部隊入ったね。歩兵に入った場合は、まあこれは人殺しの訓練ばっかで、他のこと何にもやっとらん。ところが義勇隊でかなり鍛えとったもんやで、とんとん拍子で、なにさにつけてこんな調子のええとこないやって、仲間と一緒に勤めとったんやけども。ちょうど1か月経った時に査閲があって。その査閲もどえらい成績優秀で、そんなとこ褒められとってもあかんけどあって、終わった翌日。夜の9時か10時やったかな。呼び出されて「渡邉は明日、ハルピンの方の軍隊に配属になったで、行ってもらないかん。」おいたって言ったら?おいたなんて言ったらお前銃殺やぞって。昔はそういう、上からの命令は刃向かうことができなんだもんやでね。ほんでまあ、黙ってついてけって。ほんで次の朝早よう、そのとき歩兵部隊は牡丹江省の、エキガか。エキガのとこにある部隊で。そこではほんとかわいがってもらって、楽しとったわけやね。ほんでまあ命令なら仕方がないちゅうとこで、一人出てったわけや。で、今のヘイボウの防疫給水特殊部隊か。そこへ入隊する時にも来るのが1時間くらい遅れちゃって。もう、入隊時間に遅れると重営倉へ入らなんで。刑でも1番重い刑やけども、それを心配して恐る恐る行ったときに早や夜になっとったわ。まる1日かかって、ハルピンに。で行ったら門番が立っとって「入隊か」「はい。時間が遅れて、重い罪になるのか」って聞いたら、「いやいやええよ。今ここにみんなで食べた夕飯が残っとる。残飯やけども、食え。」そのころは腹がよう減る時期で。ほんで残飯だろうがなんだろうがちゅうことでもらって食べて。次の日からもう早や、配属の兵舎も何もかも決まっとったもんで入れられて、叱られもどうもせずに入隊時間の遅れは何ともなかったんや。やれやれと。

S.Wさん 関東軍

でまあそういうようなことで、5年間まではおらなんだが、開拓に関係したことはまる4年。ほしてちょうど終戦の年、1945年の5月に、「関東軍へ入隊せよ」ちゅうことではじめて、軍人ということになったわけじゃけども。その軍人の期間はわずか2か月と半分。2か月半やったね。ほんで直接戦争に携わったわけではないけども、戦争以上に、なんちゅうかな、悲惨な状態の中でその2か月を過ごしたということ。その入ったことろが、一時、昭和の終りから平成の初めにかけて日本中で話題になったとこやけども。何をやったかちゅうと、率直に言うちゅうと、中国の捕虜を殺したちゅうことやね。ほんで殺すことは直接携わらなんだけども、今の捕虜の収容所の爆破やとか、捕虜の死体の…始末。そういったことをやったわけやな。ほんでこれ話があちこちするかもしれんが、ソ連が日本を侵攻するちゅうなにをはじめたのは、まず1番に今の中国の東北部満州の、日本がはいっとる、まだそのころそんなに大変な人数ではなかった。私んたが行った時が第四次。義勇隊で言うと、第四次やで。あと十三次くらいまで出てきたと思うけども。

こんなやつ見てもらっても、わからんな。まんだ大事なあれがあったけども、家を立て替えたときにいらんいらんてみんな、大勢で片づけたもんで大事なもんみんな捨てがってまって。母親がしまっておいてくれた手紙までちゃーんと、そのころ建てたのが平成元年やったで、それまでは大事に家でしまっといたら、誰か手伝いに来てくれた人か知らんが、「こんな古い手紙みたいなのええやら」って、どうも燃やいてまった。こんな大袋にいっぱいしまっとったのに、それが一番大事なあれになった。写真も何にも大変向こうで撮ったけども、また兵役終わったら帰ってきて開拓の仕事ができるやろうちゅうことで。みんなしまっといたんやね。そやもんで写真はあらせんわ、証拠になる手紙、「せっかく母がっとっといてくれたやつやで」って言って『重用』と袋に入れてしまっといたのに、燃やしちゃってあらへん。そんでがっかりしちゃってよ。いろいろ文章書くことが好きで、死ぬまでには何とか書き残したいと思って、そうやつを大事にしまっといたんやけど、ぜんぜんもうあらへんのやで。ほんと記憶だけで話さないかんようになってまったね。

S.Wさん 満蒙開拓青少年義勇軍

兵隊は、わずか2ヶ月ちょっとかなあ。5月6月7月8月、やで2か月半。けれどそのうちに、誰も経験せんことを経験してきたわけ。

今の中学3年生。今は中国東北部やけども、元の名は満州国ちゅうの。これは日本の政策で、どえらいあっちの方へ兵とかやって進めて。侵略やったんやね、今から考えてみると。ほんでそれにえらい興味を持った。家出てかなかんちゅうこと何にもなかったけども、行ってみとうなって。今で言うと何かなあ、中学1年や。その時に志願をしたんや。でそれからその次の年に予備訓練。今の加茂農林高校やったな。あそこで宿泊訓練を受けて、学校の勉強どころやなかったけど。昔は尋常高等科1年が、中学1年や。高等科2年が中学2年やね。ほんで大体は、現在の中学2年になれば卒業ちゅうことになったけど。金のあるものや頭のいいものは、みんな高等科3年て。あとは中等学校行くとか、職を見つけるとかそういう時代やったもんでね、私は、満州の大平野へ行って働いて、ちいと名をあげて親たちを呼んで、第二の故郷を創るという。そういう気持ちで出て行ったんやね。うん。その満蒙開拓少年義勇軍に三年間。これはそういう規則があって。三年間たてば、各個人一人に30町歩の畑が無償でもらえて、そこで1代過ごしてもらう。そういう約束やったけど、何にもならなんだちゅうことやけど。そんなで満州へ出てったんやね。土地がもらえるどころか、やったことはみんな軍人の訓練と同じように、まるきり兵隊そのものやったんやね。それが3年間。ほんで3年過ぎて、入植する土地が決まって、6月に入植して、初めてくわを手にすることができたちゅうことや。そのうちに3年間に1度、故郷に帰れるちゅうことで、家に帰ってきて1ヶ月ほど遊んで、帰ってったわけやけど。その年、高等科2年。内地の人たちよりも1年か2年早めに軍隊へ入らなかん。で喜んどったのは、甲種合格にはならなんだ。身長が足らなんで。わずか1m53で、人に笑われるような小さい男やったもんで。乙種ちゅうので。この乙種ちゅうのは、軍隊で言うと2番目の段階やね。1番が甲種合格。乙種は2番目。ほんで3番目になると丙種。そのあとはまあ軍人になれん。病気を持っとるとか肢体が不自由とかそういう人たちやったね。

N.Iさん 今思うと怖いけど

【学校に防空壕掘ったのは、中学校の時でしたっけ】中学校行ったときに、まず一年生は防空壕掘りをやらせられた。自分たで。私たちの学校はできたばっかりの私たち3年目の生徒でしたもんで。自分たの防空壕は自分たで掘るんやて。まあそんな大したことやねえ。ただ前から見て、見えな結構やったで。そんくらいのあれでした。直接目の前で爆弾が落ちて見えたとか、そういう体験をやっぱり田舎ですもんでね。同じ今の美濃加茂市でも太田の方はそうやなかったかと思います。そういう体験できた方はいらっしゃらんかもしれんけど。太田だけやったと思います。結局中心やで。ここんとこの人たちはね、ずーっと工業地帯ですから、この近辺では太田だけやったと思います。

言えることは、早う兵隊さんになって戦地へ行って、米軍と戦いたいということはちっとも怖いことやねえ。そういう教育をされとったんやね。で、兵隊に行きゃ死ぬこと当たり前のようなことで。死んだ人のことを軍神、戦の神様なんて言い方しとったでね。亡くなった人の葬式は、村中で。小学校で葬式あって。その後に個人個人の仏式の葬式。そういう教育ちゅうのは非常に怖いなあと。ちょうど今、憲法改正とかいろいろありますけども、やっぱり死ぬということが当たり前だという。戦争に行けんような奴は国賊やて。というような言い方された。例えば一定年齢になると兵隊検査ゆうやつがあったんやね。そしてそれに受かるのは甲種合格と乙種合格。甲種合格は立派な人や。戦争に行っちゃった。軍隊入れるのは乙種合格までという。乙種合格になったら皆にバカにされちゃうぐらいですから言わへんわね。そういうようなものの考え方が徹底されてた。そういうようなことを今思うと怖かった。でもちっとも怖いことやなかった。当たり前で。そういう徹底した軍事教育がなされたということやろうか。【その教育を何も疑問には思わなかった?】うん。そういう教育が全然なされてないから、行くのが当たり前で。そういう教育しかなかったんやね。

N.Iさん 岐阜空襲と名古屋空襲

戦時中一番怖いなと思ったのは、岐阜の空襲の時。岐阜の空襲の時は、いつも伊深の空の上を、何機飛行機が行ったか分からん。飛んでた。それは爆撃機やなしに、小さいね、グラマン戦闘機やったと思うけど。大きい爆弾やなしに焼夷弾。燃やす。バーンって破裂して壊してしまうんやなしに、爆弾落として火をつけて燃やすという、そういうあれやったと思いますので。その様子見たら、そうかなと思って。あれが、破壊するんやなしに消失させるための空襲やったかなあとね。それが何機も飛んどるもんで、一機や二機やないわけやな。何機来たかそんな覚えもないけども。当然間違って爆弾落とすかも分からんし。そういう怖さは、そのときもあった。一機や二機ならいいけども、それがもう、かなり長いどのくらいの時間やったか。そう思いながらね。でしばらくすると、西の方の空が夕焼けで染まったんや。赤くなって。そのくらい、岐阜の火事はすごかった。同じことが名古屋の空襲のときにも。名古屋の方の空が、伊深から見てもずっと山の方が、あかあかとしとった。そのくらい一斉に燃えたわけやね。名古屋は2回そういうのがあったと思うけどな。

【名古屋の時は、(伊深の上を)飛んでいかなかったんですか?】名古屋の時は、飛ばない。名古屋の方は大きい爆撃機で。今の自衛隊の飛行練習はうちの上よう通る。やっぱり、飛行機の飛びやすい場所かなと思ってみたりするけども。とにかく岐阜の空襲のときは、うちの真上とは言わんけど、どの辺飛んだか真っ暗ですから。飛行機は小さい明かりをつけてるけども。そんな外へ出て見とるのに叱られちまうような状況ですから、家の中で。今の中学1年生のときでした。【防空壕ではなく、家の中に逃げた?】うん。自分の家にはそんな避難小屋も何にもないですから、家ん中に。まあ伊深のような田舎ではそうです。中には山際に家のある人では、家の裏に横穴を掘って避難小屋にしたという話を聞いたことはありますけど、まあ伊深にはあんまりそういう家はなかったですね。家がずっと並んどるわけやないもんで。

N.Iさん 戦場に行きたい

私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。