空襲警報とか警戒警報とかいうのは、初めのうちはそんなになかったけども、やっぱりあの美濃加茂市というか、当時美濃加茂市やない、伊深村やったもんでね。伊深の山の中ですからそんなになかったが、でも夜になると、警戒警報発せられると、明かりをまず消す。家の中の明かりを消しちゃうという。消さずに家の中で、シートで電気をカバーして。でもほんとその電気を消しただけで、そうゆうような生活を強いられたわけやね。それはまあ日常生活での、決まりやね。で空襲警報で何したという。学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。あまり記憶にないですけれども。昔は太田は機関車の集積するとこやったもんで。蒸気機関車が何台も集まってきて、高山線と越美南線の機関車が全部今日はこの機関車を持ってくとそういうような車庫があったの。そこへ、時期ははっきり覚えておりませんけども終戦の間際にきたときに、終戦の前の年やったと思うけども、その車庫に止まってる機関車に、飛行機からボボボボーンと機銃掃射って飛行機で上から撃ったという。
投稿者「nabe」のアーカイブ
N.Iさん 小学校教育
私は伊深でずーっと終戦までおりましたもので。出て行かないから、そういう意味で市原さんのような空襲警報とかなんかのどえらい怖い思いをしてないわけですけど。むしろ私は、学校で戦時教育を受けたそのことの方が印象が深いわけやけども。体験したちゅうことは、戦時中ですからやっぱり戦争教育ちゅうか、そういうのをもう徹底されたちゅうことやね。私は市原さんよりちょっとだけ年上やでほんとならあれやけども、命に直接関わるようなそういう体験はしてないわけですね。まず小学校ずっと体験したということになると、飛行機が飛んでくると、「あの飛行機はどういう飛行機やろう」と、そういうことを想像する勉強の一環として当時は、音を出す機械がオルガンしかなかった。私たちの頃は。私は伊深ですから、伊深の小さい小学校で先生が、それらしい音をヴー…っといわして、たとえば大型爆撃機のB29。それの音とか、航空母艦から飛んでくる艦載機って呼ばれたあの飛行機、グラマンっていう飛行機があったと思いますがあの当時。その音と聞き分けるようなそういう勉強を音楽の時間にしたという。こういう音がしたらB29が飛んできて、どこで爆弾落とすや分からんで気を付けていましょうっていうね。艦載機や、まあ小型の戦闘機ですけどグラマン戦闘機って言いましたけどそういう、ちょっと音が違うんやね。だからそういう飛行機の音の聞き分けをまず勉強させられたということ。それから体作りということでは、よくテレビのドラマなんかでやりますが、藁人形を作って竹槍で刺す。そういうのを4年生のころからやりました。ちょうど4年生に、いわゆる徹底した軍師教育がおこなわれたもんで。体育の時間などに、校庭に藁人形が何体も作ってある。村人たちのそういうやつやと。その藁人形使って槍の刺し方を、ただこうやっただけでは刺せへんでって、槍の刺し方を教えてもらったっちゃ、教えられたと言った方がいいかな。そういうようなことを。それから、そのほか体育の中では、剣道とか、ようするに武道というかたちで剣道。柔道は先生いなかったで、まず剣道と、今のこの槍を刺す、銃剣術という。銃に、刀が付いてあるから銃剣というわけ。そういうようなことを、小学校のまもなく4年生から、はいったと。
M.Iさん 愛知時計電機への攻撃
おふくろと、それからおばさんがいた。おばさんはこの戦争やって、学徒の疎開ちゅうんやったかな。そいつ付いてかなかったもんで、おじいさんは、そんなやつ行っちゃいかんっていってやめた。で、おばさん家にいたの。一緒に。子どもひとりおって、子ども一人引いて。で逃げれたんやけども。そのかわり今度そのおばさんは、名古屋の愛知時計で、爆弾にあって。爆弾にあってね。死者が全部入れたるとこに一緒に入れたった。まだ、虫の息で息があったもんで、出してきて。出してもらって、病院の方に。で結局片方の目失明して、ほんだけの怪我しとった。【よく見つけられましたね】おふくろが行ってね。ほしたら死んだ人の中に、一緒に入れったったもんで、まだ生きとるですぐ出してくれって。ほんでも、虫の知らせやないか。愛知時計電機。あの大曽根の。そこで爆弾でやられた。
M.Iさん 今が一番平和
戦争には行ってないけど、そういう体験。来年から手形信号を、ものすごく絞られて習わないかんと思っとったら、終戦やったんや。海軍やなんか使うでしょ。あれ。それは4年生やなしに、名古屋におるときに。だから、20年の3月に、同じ年に勝川で終戦を聞いたんやね。戦争に行った人は戦争に行った人で。全然体験は違う。
まあ、今が一番平和やでいいわね。
M.Iさん 物々交換
【お米10日分というのは、家族分ですか?】そうです。一人当たり、そういうふうに分けていく。配給としては、一人が10日分しかない。まあその時の需要によっていろいろものは変わるけんどね。川辺の畑があるところでも、百姓の子んたはみんな学校の弁当に、さつまいもを持って来とった。家んとこでお米があっても。お米があるとこは、名古屋に。名古屋に買い出しにみえるもんで、お金なんていつまでも続かへんもんで、着物やなんか持って、物々交換。着物とお米と換えるとか、かぼちゃと換えてくとか。
M.Iさん 防空壕
まだ、焼夷弾でやられたもんで、命だけはあったということやね。爆弾でやられとれば、みんな。各家庭に防空壕を掘っとった。警戒警報、空襲警報鳴るとみんなそこに逃げ込んだ。各家庭の土間に掘るか畳の縁の下に防空壕を。そうやって避難して。【一度は防空壕に入ったんですか?】みんな入った。僕の家は裕福な方やったもんで、6年生までの衣類はもう全部入れちゃって、防空壕の中に一緒にしまっとった。しまっとったけども、ちょうどその空襲のあった前の日に、干さんならんいって出しちゃった。空襲受けて防空壕の壁がどーんと倒れても、どうもなってなかった。防空壕に入っとるなら衣類も全部助かっとったんやけども。運悪く、入れといちゃあ湿気こもっちゃうっていって。各家庭は防空壕ちゅうやつを持っとった。家族がちょうど入れるくらいの。自分たちで、頼んで掘ってもらったりして。で入口だけ木のこんなやつ。
M.Iさん 学校生活と艦載機
【終戦の時は、春日井にいらっしゃったんですか?】終戦の時は、ちょうど春日井に移ってた。駅の裏んとこに、かつらそうってそこへ移った。だから焼け出されるまで名古屋におるうちは学校へ行くと、警戒警報になる。警戒警報になると、運動場に分団で並んで、分団別で家へ帰ってった。空襲警報が鳴る前に、いっぺん警戒警報ちゅうのが今、敵がこれから攻めてくるよちゅう、予告がある。学校へ行くときは、今のような名札やっぱり付けてるんやけども、名札に住所と血液型が書いてあった。でもし、何かあったときにどこの誰かわかるように、今の何年何組なんのたろうとかそういうんやなしに。そういう名札を付けとる。で鞄と、ランドセルと防空頭巾と、両方持って学校行った。だから学校へ着いたかしらと思ったら、すぐ警戒警報鳴るちゅうことも。ちょっとやっとって、鳴ると。分団別に運動場に並ぶんやけども、あの時分は給食やったもんで、給食のコッペパンちゅうやつをみんな一つずつもらって家に帰った。名古屋城の後ろには練兵隊があったもんで、兵隊さんの駐屯しとるとこがあった。B29が来るとそれを打ち落とすっていって、照明を下から、対象灯ちゅうやつを照らす。で下から大砲を撃つんやけども、高いから届かん。ほうして今度はB29が、対象灯目がけてウワーッと急降下してくる。そういうことの繰り返し。
それから勝川いって終戦になる前に、名古屋の庄内川。お馬さんのえさの草をいっぱい学校持ってかなかん。草を刈ってお馬さんのえさに。えさを学校持ってく。でお茶の実は、飛行機。航空機の燃料になる。で学校に持ってった。庄内川に草刈りに行って、袋詰めて今の線路伝いで戻ってったら、艦載機って言ってね、人目がけて、バリバリバリバリって。だけども、艦載機が来たって僕ら知らなんだ。田んぼでお百姓の人が、「あんた、すぐ隠れなあかん、隠れなあかん」っていって言われて、中央線の途中にちょっとした鉄橋のようなのがあるもんで、その下へ逃げたの。ほんで艦載機が行っちゃって、あそこの、名古屋から艦載機がずーっと来て、だいたい多治見の方へ行く。多治見の中央線を機関銃でもってバリバリバリって。完全に人を狙ってきたの。ほういう体験を。
【馬は、何の馬ですか?】兵隊さんの馬。軍隊で兵隊さんが使っとる馬のエサを。お茶の実は飛行機の油を。搾って燃料にしとったんやね。それをみんな拾って持って行っとった。そういう体験をした。
ちょうど自分の家から今の名古屋城まで逃げるのは、3キロくらいあるかなあ。そんなけのとこで。でもう逃げたとこに行ったら、みんな町内会の人が「逃げてきた」ちって、市原さんとこのじいさんて…(沈黙)……びっくりされた。そうやって連れて行ったもんで。だからその時分が一番、苦しい時代やったね。
M.Iさん その時を思うと
とにかく炎の中の逃げるちゅうやつは、すごかったね。今国会でもって、自衛隊が戦地行くちゅうの言ってるけども、おそらく自衛隊の人んたも、自分の奥さんや子どもを残して行って、戦争がどうなるや分からんもんで、ちょっとやめようとしとる人がおるね。自衛隊を。自分の家庭ちゅうことを考えて。おじさんは、そういう体験をしてきた。そういう体験をしとるもんでね、今苦しいちゅうやつは、あんまり苦にならない。その時のことを思うと。うん。ものすごく、今平和。ね。今一番いいとき。今戦争しようとすると、戦争で体験あった人は、「なんでこんなに平和で、いいのにそんな」ちゅうね。そういう体験をしてきた。
M.Iさん 避難後の生活
ほれから今度は、春日井市へ。春日井市の勝川町へ行って、そちらの町営の住宅に住むようになった。そこで8月15日の、終戦を迎えた。だから、終戦を迎えたのは、結局3年生の時なんやね。3年生の時にそこで終戦。今度そこ行くと、春日井市やと焚きもんがないもんで。今度は自分たが生活に焚きもんがいるもんで。常光寺。勝川から入ってたら常光寺あるわね。そこへ、大きい袋を持って松ぼっくりを拾いに行った。それが焚きもんなんやけども。で松ぼっくり一升あると、お米が一升炊けると。ていうのは、松ぼっくりは中に種が入っとるころにだから、火力が強いんや。火力が強いもんでそのくらい。一升あれば、ご飯が一升炊ける。子どもながらに、拾いに。でお百姓さんのとこなんか焚きもんもあらへんもんで。お百姓さんのひとは、桑の木の枝とか小麦作っとる、その殻。そういうのを燃やして、焚きもんをしていたんや。勝川の近所でね。昔は米穀通帳ちゅう、米の配給を受ける。米穀通帳を持ってって配給を受けるんやけども。1か月のうちで、お米は10日。…(沈黙)……で、さつまいものかす。あれとかね。で、小麦を10日分。そういうふうに分けていった。そんで、芋乾燥したやつをご飯に混ぜて食べたのね。ご飯の中入れて炊くと、ご飯は黒いご飯やったね。芋で黒くなっちゃうの。そういう生活をしたんやね。生活をしたのが、23年までしたんかな。その間食べるもんもないから、いろいろ昔は田んぼで蓮華やなんか作っとったわね。蓮華は採ってきて、お浸しにしたんや。で食べたり。今のこういう道にも食べれる草が。そういうのを採って来て食べたり。23年に、おじいさんが川辺やったもんで田んぼや畑が残っとる。でそれからの食事をあれしながら、川辺に越してきた。そういう体験をしてきた。
M.Iさん 3月19日名古屋大空襲
ほんでそれから、今度は、19日の空襲は、爆弾。爆弾で今度空襲があったんや。けれども僕んたはそんときには、日置町ちゅうとこへもう、おふくろの在所の方へ逃げとったもんで、ほんでその後行ったら、家の前に6mくらいの、爆弾の落ちた穴が開いとった。爆弾の落ちた穴が開いとった。僕んたは焼夷弾でやられたもんで、まあ助かったけども。爆弾でたまたまその時やられとったら、うち中死んじゃうとこやった。そういう状態であって、名古屋の日置町におふくろの在所の日置町に、ずっと世話んなっとって。