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M.Iさん 3月12日名古屋大空襲

いまここに住んどるけども、名古屋市東区伊勢町2丁目。そこに住んどったね。ほんで体験は、20年、3月12日、夜。名古屋大空襲。このときは12日やもんで、焼夷弾で空襲。ほんで、アメリカ。B29の、編隊が来たんやね。何機かいっぺんにダーッと飛んでくる。それでもって、空襲を受ける。最初の投下、おってくるやつね。照明弾。明かりを照らす、まずあかりがフワッフワッフワッとあの下を照らすように。あの民家があるかないかを確認せんならんもんで、その照明弾ちゅうやつを、まずB29が落とす。照明弾でもって、下の民家を照らしていく。その後、焼夷弾を投下。そんでその焼夷弾というのは、家を燃やす。焼夷弾やから燃やすほうね。民家を照らして、焼夷弾を何発も落として、家屋を燃やしていく。みんな逃げるんですけども、僕んたは、ちょうどおじいさんが13年、中気で寝たきりやったもんで、寝たきりのおじいさんを乳母車に乗せて、今の名古屋城の方へ逃げる。うちは一番遅く逃げたもんで、町内の人みんな逃げた一番最後に逃げたもんで道路が消防のホースでいっぱいなの。そこを乳母車を牽いて逃げるんだから、ちょっと行くと、ホースがあるわ。片方、前だけまた上あげて。ほんで前は、越させて。ほんでまた、後ろあげて、越させるちゅうふう。その間にもう、熱風が来るわけやね。もう全部家が燃えよるもんで。熱風が来る。ほんで熱風来ると風が巻き上がるもんで、乳母車に被せとる布団が飛んでっちゃう。飛んでくもんでまたそれを拾ってきて、また被せて。ほして、名古屋城の方まで逃げる。そこで焼け出されて、もう行った時には、兄弟4人やったもんで、おばが一緒におったもんで、おばは1番下の弟をおんぶして、2人の子どもの手引いて、逃げる。でおふくろと僕とでその乳母車を牽きがてら逃げるちゅう。それから3日目に、今度その焼跡へ行ったんやね。燃えたところへ。ほんでそこへ行ったのは、家は、もう燃えちゃってあらへんけど、家財道具も燃えちゃっとるけども、おかっての皿とか茶碗とか。そういうもんを、掘り出して。掘り出しに行ったんやね。

T.Nさん・奥さん きれいだと思った

まあ、そういうのは辛かったな。今思うと。でもこの時分は辛いとは思っとらせん。今の感じで言うと、ほんとに辛かったなあと思う。この時分は、もうこれが当たり前やと思っとったもん。うん。勝つためには、兵隊さんの服は作れるということで、一所懸命やっとった。だから、中学くらいちゅうと、早い子やと学童動員ちって、女の人は紡績工場行かないかんかった。うん。働きに行った。家の姉さんら二人とも岐阜?行ったけど、学童動員ちゅうので、紡績工場へ、行かないかん。【そういう工場は、岐阜の空襲の時などはやられなかったんですか?】(やられたんやないかね。紡績工場。)そりゃやられとる。駅の近くやもん。姉さんた行っとったとこは。

【岐阜の空襲は、花火みたいやったってことは、夜?】(夜。それこそ、電球に黒い幕をやって、サイレン鳴るもんで、電球を暗くするためにまずは被せといて。ほんで行くよーって言われて、一緒に付いて行って、行ったんやね。行ったことはいいけど、こっち見たら西の方見たら、いかにもきれいやったで、ものすごい、頭から離れへんわ。あんなの初めて見たもんで。今の岐阜の花火より。ふふ。あのころはね、家がそんな建っとらへんで邪魔ものが無かったで見えたんやね。今はそんなふうやったってそんな分からへんやろ。そう。)あの、1万メートルぐわーって来るんやもんでわかるんやな。そこの山へ登ると、名古屋駅が全部見えるよ。挟間。もう名古屋駅のビルが。天気がええとね。(天気がええと、ツインタワー、あれ見えるよ。)

(今のお嬢さん方は幸せやね。ほんとに。あのころ食べるもんがないもんやで、とにかく、少しでもお金稼がなきゃってことで、私なんかね、なんていうの。学校から帰るとミシン。既製品を、1日に何枚っちって、縫って、またそれを持ってって、でもう1週間に1ぺんか2へんかくらいずつね、うちの母が持ってっては、それをまた、お手伝い。勉強も何も、やったのかやらんのか分からへんかった。高校へ行くていうときも、もう、そんなふうでお金あらへんで、行かんて言っとったんやけども、とにかく試験だけ受けて、行くには行ったんやけども、入学式の次の日からはずーっと休んでまった。なんでっていって、先生わざわざ言って下さって、ほんで月謝が払えんいって。でまあ、ほしたら、先生がね、3か月代わりに出したるって言って。そんな先生簡単に言えないわね。それで、奨学金の手続き。そんなもんあるって知らんかって、奨学金の手続きして行ったんやけども。)【高校行く人の方が少ないんですね?】(うん。少ないとき。中学の先生は、就職なんてなかなか面倒やもんで、自分に都合のいい方にぼってまったんやて。私は就職する就職するって言っとったんやけども。)富加6千人おって、大学行くのなんて一人か二人やもんな。それくらいやった。(そう、少なかったよ。)大学なんか行けやへん。(お父さんたの同級生で大学行ってみえる人って何人みえる?)3人おる。(3人か。それくらいや。結構ね、同級生って多かったんよ。私の同級生でもね、富田村の、また別の駅前ていうとこがあって、そこでかれこれ10人くらいおったで。結構兄弟が多かったし、子どもも多かったし。うん。あの、なんていうの。「産めよ増やせよ」って。)

T.Nさん 戦後の食事

【戦後特に大変だったことはなんですか?】(戦後の大変だったことは、結局食糧がないもんで、他所の畑から失敬してきて)芋づるの、葉っぱを取ってって、食べたり、みそ汁ん中入れて食べたり。うどん粉を練ってみそ汁ん中入れて、団子汁とかってそういうのを食べたり。(代用食やね。お米もないもんで、なんでも粉のものは全部集めてきて、練って、団子にしとった。芋でも、澱粉工場ってあったんやな。そこでなんか澱粉、ジャガイモの澱粉やない、芋の澱粉をもらってきて、それこそ粉にしたり、それを食料にしてやっとったし、ほれから、私が一番いつも言うのは、山に生えとるこのクサギちゅうのが、あるんやね。こんな大きな葉っぱの。あれを、いつもその団子の汁とかなんかの、あのお米のすこーし入ったとこへ、どっさり入れて。食べるんやね。あれが嫌で嫌で。芋づる食べとるよりも嫌やったの。でもあれ、昨日かしらんテレビでやっとったけど、結構いいらしいんやね。栄養があって。いいんやけども、そのころはもう嫌で嫌で仕方なかった。うん。味が。)

まあ戦地のことは分からんな。どんなふうやったか。学童疎開もないし、戦中、戦後の生活…。まあ辛かったのは、やっぱり勉強ができなかったということと、お百姓さんの手伝いとか、桑の木の皮むきとか、どんぐり拾いとか、竹槍持って人形をつついたりして。そんな練習ばっか。だからおじさん今82歳やけども、こんな丈夫いんや。【そういうことは、お母さんたちは、やってない?】(やってない、うん。まだそれこそ、どんぐり拾いが精一杯やったころ。)

T.Nさん 駅から見た景色

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。

T.Nさん さつまいもと子どもたち

で、それで段々段々と、厳しくなってきて、18年頃からかな。サイパンが落ちた、ニューギニアで占領された、っていって、玉砕ちゅうのか。全部死んだ、死んだ、死んだちゅう話聞くようになってから、もう厳しくなって。こういう遊びもできなんだね。で、何をやったかちゅうと、さっきみたいに桑の木の皮をむいたり、どんぐりを拾いに行ったり、お母さんたは豆ひろいに行ったの?(いや、お茶のほぼ。)お茶ぼぼか。お茶ぼぼ取りに行ったり、そういうことを、やって。(そういうのを戦争中にやって、戦争が終わったら今度芋。芋ほりやら畑の耕しやら。)おじさんたは駅があって、ちょっと街やけども、富加でもほとんど百姓の人たちんたは山とかあるもんで。学校終わってどんぐり拾いに行ったって、どんぐりどこにあるや分からへんやら。ちょびっとしか持ってこれへんやら。ほうすると、帽子いっぱい持ってくるやら。そういうときに、「お前なんや」っていうのが、いじめやったんや。いじめって言っちゃおかしいけど。そう言って、「なんでよけ拾ってこんのや」ってやるもんで、うん。やられよった。

T.Nさん 野球するときも

それくらいやもんでおじさんたは、もう5、6年ちゅうのは、空襲警報ないときは、子ども同士で遊びたいわな。で遊ぶやら。で英語が使えんの。今やちゅうと、「アウトー、セーフ」って言ってやるやら。おじさんたそんな英語みたいなの使っちゃあかんちゅうの。でならなんて言ったかゆうと、しっかり覚えないけど、あの時分やったら「だめー」って言ったりやな。「だめー」うん。おそらくストライクボールでも、「悪いー」「良いー」って言ったんやねえ?しっかり覚えないけども。英語は使っちゃいかなんだ。ほんで駅に桜の木がいーっぱいに植えったったもんで、でここらへんからコロコロベースって言って、ゴムボールポーンってやって、それをぼーんとやって、ほんで、この木に行く、この木に行く、この木に行く、っていって、遊んどったわ。ん?ベース言っちゃあかんわな。とにかく、英語は一切ご法度やったんやね。ほやもんで、「打ったー、投げたー、取ったー」そういうふうやった。そういって遊んどった。これは、16年、17年ごろや。まだ戦争が激しくないもんで。まだこの時分は、まだ日本がどこどこへ進軍して、あの勝利したとか、そういう放送ばっかやった。

T.Nさん 兄の出征時の記憶と家族

【お兄さんは、志願されたんでしょうか?】志願じゃない。徴兵制度言って、もうこの時分なると、お前は兵隊になれっちゅうふうに、赤札っていってこういう召集令状が来るんやね。それが来ると、もう逃げれない。絶対に行かなければ。召集令状って言って、こういう令状が来よったんやね。これは、普通は赤紙ちゅう言いよったんやわ。赤紙。赤紙赤紙ちゅう。でこれが来たら絶対に逃げれんわけ。うん。もう絶対に入隊せんと。あなたはどこどこどこどこへ、これはうちの兄貴は二十六連隊だな。に入りなさいっちゅう。それが来ると三日以内くらいにはもう行かならんもんで。その間にもう早やあれやけどもわかっとるもんで、皆さんに日の丸の旗をやって、千人針をこうやってやってもらって、それを腹に巻いて、兄貴は、今ゆう「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」ってやつと一緒に腹に巻いて、戦地行った。で、その時にみんなが、「勝ってくるぞと…」って言って、旗を振りながら、今のこの、駅まで、送ってった。ほんでちゃんと、憲兵が来るもんで、二十六連隊っていって分からへんやろ。ぽーんとくるだけやもんで。ほんで三日以内に入りなさいやもんで。でどこ行っていいかわからへんもんで、ほんでちゃーんと憲兵が来て、連れて、入隊させた。もう全然この時分はそんなような徴兵制度やもんで、志願なんていうもんは全然ない。で、志願っていうのは、さっき言った若井ちゅうんが、予科練に行ったの。今ゆう、中学卒業するとあの時分は、六年生の時には中学ってあったんかな。すぐ高校やでな。高校の方へ行くのか、そういう予科練へ行って。これを、志願やわ。志願して飛行機乗りの勉強するんやな。そういう二通りあったんやね。そういう志願、もちろん志願と、徴兵制度とあって。もう兄貴んたは、もう早や二十歳ごろやもんで成人しとったもんで。ほんやもんで徴兵制度しかない。で赤紙が来ると、もう嫌でも行かなかん。兵隊に行ったもんで、結局それがもとで、病気なっちゃって。心配で心配で心配でかなわんもんで。で病気なってまって、早よ死んで。ちょうどキヨ子ちゅう名前の娘もおったんや。で僕ものすごく大事にしとったんや。で大事にしとったけども、結局きよこも、あれいくつや、三つか。四歳くらいか。四歳くらいで死んじゃった。亡くなった。一家全部死んだ。

T.Nさん 「食三衣五住十」

ほんでおじさんは機械が好きやったもんで、今関商工いうけども、昔は関工業高等学校やったんやね。そこへ入って機械の勉強をして、卒業してから名古屋へ行ったら、もうおじさん勤めたところは、brotherミシンがやっとるとこやったもんで南区やったんやね。南区の内田橋ちゅうとこやったんやね。ほうしたらね、もう港区からその辺はあたりもう全然家あらへんのよ。もうほとんど焼け野原で。僕が行ったの25,6年ごろに名古屋行ったらもう焼野原。もうほとんど。だからそのときに、おじさんが二十歳になった祝いのときに、教育長やな。名古屋行った時の。こっちで受けなかったもんで名古屋で受けたときに言われた教育長の言葉は、なんやったっけ。うーんとね、「食三衣五住十」。ちゅう言葉を言わした。これはどういうことかいうと、日本は負けたんやけども、こんな焼野原やけども、君たちが頑張れば、食は三年経てば食べれるようになるよと。着るものは、五年経てば必ず着る物が、着れるようになるよと。ほんで十年経てば、必ず、家が建ちますよと。一生懸命やればやな。うん。日本が負けて沈んどったって、なんにもならんから、こういうことを頭に入れて頑張れば、必ず日本は復興しますよゆって。ほしたらほんとその通りくらいに、十年経ったらぶつぶつぶつぶつと家が建ったりなんかして、復興の兆しがこの時分から表れてきたんやね。僕は幸いにして、そのbrotherミシンの下請けの会社に入ったもんで、あの当時はやっぱりミシンちゅうものはどこの家庭でもやっぱり、なけないかんものやもんで、どんどんどんどん大きくなって、うん。いいとこに就職したなとは思っとった。これが教育長の言葉やった。これよう、いまだに覚えとった。まあ、そういったおじさんの、そういうだけの経緯しか、ちょっとよう分からんな。

T.Nさん・奥さん 桑の皮むきとどんぐり拾い

一番大事なこと忘れとった。おじさんたの5,6年時分は、こういう軍服を作るために、桑の木の皮むきをした。学校へ行って、勉強するんやねえ。各部落のお百姓さんのとこ行って、竹をこういうふうに挟んでね、縄でカンカンに縛って。竹を2本ね、ここを縄で2本だけ縛って、ここへ桑の木を入れてこちらにぐっと締めてね、締めれるように縄をこっちも巻いて。こうやってしごくと、皮だけになるの。桑の木の皮だけ残っちゃってね。それを何するかいうと、その繊維を送って、そういう軍服を実際作ったんやと思うんやけども。生地にするために皮向きに行きよった。(私らの、小学校1年生くらいの時は、お茶のほぼ。この花になる、芽になる種やね。あれをいっぱい拾い集めて供出したんやね。で何にするかゆったら、飛行機の油がないで、そういうのをたくさん集めよということでね、子どもんたがね、そこら中のお茶畑行って拾い集めて。)どんぐりもそうよ。どんぐりも拾ってね、それを出しよったの。どんぐりも飛行機の油になる。(とにかく油がないでっていって。飛行機の油がないでっていって。そういうことは、やったね。)だからおじさんたはね、もう5,6年なんていったらね、勉強全然しとらへん。ほとんどこういうことやら、あの竹槍持ったり、石を投げたり、そんなことばっかして。

T.Nさん 日本は強いと思っていた

【周りの人もみんな、戦争に勝つと思っていたんでしょうか?】もうおそらくそうやと思ったよ。うん。大本営発表でもその時分は、まだサイパンが落ちん前は、あんまり「負けとる負けとる負けとる」ちゅう発表が出来んもんで。わが日本軍はどこどこを占領したやなくて、戦っておるとか。そんなような言い方だけで、あそこを占領した、ここを占領したちゅうことは、言ってなかったね。激戦、戦っておる。優勢に戦っておるとか、いうような言葉で話をしとったんやけども、サイパンとか、ニューギニア、ガダルカナルとかが、やられて負けたというようになってからは、ある程度、正直な発表をしよったね。あとは、室戸岬?四国?から、潮岬。和歌山県の南端やね。あそこやとかに、敵機来襲、数十機とか、もう終戦間際になるときは、もう何百機言いよった。何百機が、日本に向かっとるゆって。そんなような状態で、空襲警報になると下級生を、とにかく竹藪に入れたり、学校の帰りやったら、麦畑とかさつまいもの畑とか、そういうとこにこう、隠れさしたりして帰ってきよったんやね。兄貴んたも、満州におったんやけども。満州って、昔韓国があって、ソビエトがあって、中国がある。この辺は昔の地図見ると、この満州の辺も赤いとこあったよ。日本列島があって、韓国があって、ソビエトがあってこの辺に、日本の領土みたいなとこがまずあったんやね。満州っちゅう。でそこへ派遣されて行っとったんやね。で今の地図ではあかんけども、昔の地図はたしかにそういうふうになっとった。もう戦争が厳しくなってきて、そこらへんに日本兵が行ってる兵隊さんは皆、?しだしたんやね。今ゆうフィリピンとかあのへんに、ずーっと。で、中国のほうは、結構に日本は進軍しとったんやね。慰安婦の問題なんか起きるのは、そういうところにある。で満州にしても韓国にしても日本びいきやったもんで、中国もどっちかちゅうとあれやもんで。日本兵は結構、おおちゃくしたっちゅうか、今の言い方で言うとおおちゃく。悪いことをしたのかな。うん。若干ね。まあそんな程度のことしか、おじさんは分からんな。もう日本人そのものとか、僕らにしても、「負ける」ちゅうあれは、全然なかったね。日本は強いっちゅう気持ちがあったもんで。もうサイパンもおちて、あれもおちて、もう日本の領土に、そういう飛行機がくるようになったら、誰でもこれはもう日本はダメやなちゅうことは思うんやけども、その当時は、そんなこと全然思わなんだ。うん。あくまでも、まんだ勝てるっちゅう気持ちしかなかった。