フィリピン」カテゴリーアーカイブ

K.Hさん 兄が眠る場所

これが、今のそれに書いたる平成20年に行った時の、私の兄が死んだとこだけども、向こうでは3年経ったら、ここへ埋めてあってあることが分かっとってもそこを畑にしようが道路にしようが建物建てようが、よろしいということになっとる。宗教的にね。だから私の兄の亡くなったというところも、家の倉庫になっとる。(それはどこへ行ってもそうやね。フィリピンでもそうやったで。)

A.Nさん 父との最後の昼食

私は太田にいまして、今は蜂屋にいますけども。父親が戦争にいって。第一番にちょっと見ていただきたいのが(写真)これが私です。これがおふくろです。これが、戦死した親父なんです。で、これがおばあさんが当時いましたのでね。これが何年かちゅうとね、昭和18年の11月30日だったと思うんですが、ちょっと日にちは定かでは。でも12月は間違えない。まあそんなときにね。これは出征していく唯一の写真なんです。

私の親父はどうやったかな。3ちょっとくらいやなかったかと思うんです。ほんでおふくろが、27、8やなかったかな。これは、私。小学校の1年生です。そんときになんちゅうですか、まあ「赤紙一枚」というんですか。あの国からね、ようするにあんたは戦争に行って、国を守ってくれということで、戦争に行ったわけです。それがまあ、最後のお別れやったわけです。最初に行ったときは、今、ここ(写真)には見えないんですけど、近所の人やらいろんなたくさんの方がね、「頑張ってこいよ」という歓呼の声というんですか。そういうもんで送られて、最初に祐泉寺にね、?ちゅうのがあるんです。そこへ「これから行ってくる」という誓いを立ててね、太田の駅を出発して。私も岐阜駅まで父親を見送っていって。もちろん小さいときでしたので、叔父さん、親父の弟さんに連れられて。岐阜の駅まで一緒に見送りに行ったことは、覚えてはおるんです。それから、昼飯を岐阜の駅の、今はまあ平和通りですけど昔は凱旋通りって言っておりましたのでね。あそこで最後の昼食を食べたというのが、あのほんとの最後でした。

【お父さんを見送るときは、どんな気持ちでしたか?悲しかったですか?】その時はまだ小学校の1年生でしたもんでね。まあ逆にね、みんな「万歳万歳」って送ってくれるもんでね。まあ嬉しかったちゅうのはむしろ、なんていったらいいね、印象に。悲しいとかそういう気持ちは全くなかったわね。それと裏腹に、おふくろたちはなんていったらいいね、それ以上に悲しかったやらあと思うんです。私は今言ったように一年生ではね、そういう実感全くなかったね。

それでどこへ配属されたかというと、広島県の呉で集合して輸送船に、これ11月に出発しとりますので、12月の初めごろでしたかね。輸送船に乗せられて、目的は海南島というところへ、行く途中でした。船もね、?丸という、家いけばわかるんですけども、そういう船に乗って、どのくらい乗ってたんでしょうね。300人くらい乗ってたんでしょうね、輸送船でしたもんでね。それで途中台湾沖でね、バシー海峡という海の名前ですけど、そこで魚雷でやられて。船をまあ真っ二つに、真っ二つにされて。それで亡くなったということがたまたま、戦友の方が瑞穂市に、今穂積というとこですけどそこにみえて、その方は、助かったんです。船が沈む時は非常に渦巻きができるらしいですね。ほれで、そういう訓練は、まあその戦友の方に聞いたんですけれども、海に万が一そういうふうで沈むととにかく、外へ逃げよ、逃げよということでね、船が沈んだらできるだけ外へ逃げないと、こう渦で吸い込まれると。そういう事で。まあその方はたまたま泳ぎも、ああ、その方もできなんだね、まあとにかく必死で泳いで、船から遠ざかって、その方は助かって、その方が初めて帰ってこられて、うちの親父はそういうふうで亡くなったちゅうことを知りましたのは、戦死の、知ったということはそういう事でした。