美濃加茂市 太田・美濃太田駅」カテゴリーアーカイブ

T.Mさん 戦時中の生活

戦時中はどこのうちも白壁やったんや、壁が。敵から見えんように黒う塗ってまったんや。何で塗ったんや。(あれはね、鍋の炭。)炭か、そうか。(それわしも覚えとる。真っ黒に塗ってまって、汚い家になってまったわな。鍋の炭ではうまいこと塗れりゃええけど、今みたいに。もう、まだら。もうむちゃくちゃやった。電気やなんかでもね、今みたいに蛍光灯なんかもちろんありゃへんけども豆電球ね。あそこへね、全部カバーを被せるんです。外へ光が洩れんちゅうことでね。そういう生活やったね。まあ夜なんて言ったら真っ黒けやわね。風呂とかそういうとこでもよほどの家やなけりゃ電気なんて、蝋燭ではなかったかね。)戦時中は防空壕が作ってあった。防空壕が。上にまた土やって、そこの上に芋づるを植えちゃったんや。ふっふっふ。(あったあった。)まあいろいろあった、その当時あんま覚えないけどもね。(そうやね。小学校の中にも防空壕が作ったったね。太田の小学校やなんか。運動場に。)そうやな。そうやった。(ほいで、今芋づるの話されたけど、運動場も芋ばっかやった。植えたったわね。運動場いっぱい芋を。もちろん生徒が食ったんやろうけどね。そういうことも覚えてます。)うちは19年に行って、20年の3月やったでな。(そうかそうか。20年の。19年の何月かしらん?)それが全然覚えないのよ。たまに見やあただけで覚えないもん親の顔。でも3人子どもおったでな。

A.Nさん 日本が勝つと思っていた

【当時は、日本が戦争に勝つと思っていましたか?】そうそうそう。そうやなけりゃそりゃ、父親たち出征してけへなんだでね。そらそういうつもりで誰もいけやへんでね。やっぱり何とかして勝利して、やっぱり「祖国の為」ということと、家族のためやわね。そういう気持ちで、出征して行ったと思いますよ。それはもう、まぎれもないことやと思います。(先週、つっちゃん来たときさ、うちのおふくろ役場におったやな。でも悲しい顔も何にもしなんだと。「そうか」ちゅうの。)そうやね、もう覚悟決めてらしたんやな。うちは亡くなった祐泉寺のおっさま。あの人が通知をもって来らしたの。ほんで話はまるきり別になるけど、元町の提灯屋さん。あそこは3人亡くなっちゃったんやでね。ひとりは戦艦大和で亡くなって。であとふたりは、中国かどっかしらんで亡くなってね。ほいで祐泉寺のおっさまござるとまあほんっとひやっとしよったで。みんなその亡くなったちゅう知らせばっかを。一軒でね、兄弟が沢山あるとこは3人くらい亡くなってみえる人がおる。まあ戦艦大和で亡くなってみえるで頭のええ人やわな。普通じゃ乗れへんでね。案外戦艦大和、蜂屋にも一人おらっせるでね。亡くなってみえる人が。

A.Nさん 沖縄戦について

あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。

だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。

A.Nさん 父との最後の昼食

私は太田にいまして、今は蜂屋にいますけども。父親が戦争にいって。第一番にちょっと見ていただきたいのが(写真)これが私です。これがおふくろです。これが、戦死した親父なんです。で、これがおばあさんが当時いましたのでね。これが何年かちゅうとね、昭和18年の11月30日だったと思うんですが、ちょっと日にちは定かでは。でも12月は間違えない。まあそんなときにね。これは出征していく唯一の写真なんです。

私の親父はどうやったかな。3ちょっとくらいやなかったかと思うんです。ほんでおふくろが、27、8やなかったかな。これは、私。小学校の1年生です。そんときになんちゅうですか、まあ「赤紙一枚」というんですか。あの国からね、ようするにあんたは戦争に行って、国を守ってくれということで、戦争に行ったわけです。それがまあ、最後のお別れやったわけです。最初に行ったときは、今、ここ(写真)には見えないんですけど、近所の人やらいろんなたくさんの方がね、「頑張ってこいよ」という歓呼の声というんですか。そういうもんで送られて、最初に祐泉寺にね、?ちゅうのがあるんです。そこへ「これから行ってくる」という誓いを立ててね、太田の駅を出発して。私も岐阜駅まで父親を見送っていって。もちろん小さいときでしたので、叔父さん、親父の弟さんに連れられて。岐阜の駅まで一緒に見送りに行ったことは、覚えてはおるんです。それから、昼飯を岐阜の駅の、今はまあ平和通りですけど昔は凱旋通りって言っておりましたのでね。あそこで最後の昼食を食べたというのが、あのほんとの最後でした。

【お父さんを見送るときは、どんな気持ちでしたか?悲しかったですか?】その時はまだ小学校の1年生でしたもんでね。まあ逆にね、みんな「万歳万歳」って送ってくれるもんでね。まあ嬉しかったちゅうのはむしろ、なんていったらいいね、印象に。悲しいとかそういう気持ちは全くなかったわね。それと裏腹に、おふくろたちはなんていったらいいね、それ以上に悲しかったやらあと思うんです。私は今言ったように一年生ではね、そういう実感全くなかったね。

それでどこへ配属されたかというと、広島県の呉で集合して輸送船に、これ11月に出発しとりますので、12月の初めごろでしたかね。輸送船に乗せられて、目的は海南島というところへ、行く途中でした。船もね、?丸という、家いけばわかるんですけども、そういう船に乗って、どのくらい乗ってたんでしょうね。300人くらい乗ってたんでしょうね、輸送船でしたもんでね。それで途中台湾沖でね、バシー海峡という海の名前ですけど、そこで魚雷でやられて。船をまあ真っ二つに、真っ二つにされて。それで亡くなったということがたまたま、戦友の方が瑞穂市に、今穂積というとこですけどそこにみえて、その方は、助かったんです。船が沈む時は非常に渦巻きができるらしいですね。ほれで、そういう訓練は、まあその戦友の方に聞いたんですけれども、海に万が一そういうふうで沈むととにかく、外へ逃げよ、逃げよということでね、船が沈んだらできるだけ外へ逃げないと、こう渦で吸い込まれると。そういう事で。まあその方はたまたま泳ぎも、ああ、その方もできなんだね、まあとにかく必死で泳いで、船から遠ざかって、その方は助かって、その方が初めて帰ってこられて、うちの親父はそういうふうで亡くなったちゅうことを知りましたのは、戦死の、知ったということはそういう事でした。