美濃加茂市 山之上町」カテゴリーアーカイブ

K.Oさん 兵隊検査

歳はあの人(福田さん)より一つ上。あの人は、大正14年の4月1日に生まれただろ。この私は13年の8月18日に生まれとる。学校は1級上やで。兵隊検査は一緒。わしんたの年は適齢やって言ったやら。ほれで繰り上げって言って、1年したらもう一緒にやったの。兵隊が大勢要ったで。あの人とは繰り上げで一緒で。4月に兵隊検査を受けて、早いものは8月の31日に兵隊に入ったの。あの人?分からんわしには。いかに行かしたということがね。その年の内に行ってまっとるでよっぽどのものが。19年に。

S.Fさん 配給係

それから戦争がだんだん激しくなってね、僕ら役場におって、いろいろ主食やとか副食も含めてやけども、配給制度が。これは本見とるっちゅうと、国家総動員法っちゅう法律が国で13年の4月に出とる。そういう法律に基づいて、いろいろまず第一は米の配給制度。それから2番目には副食関係。副食ちゅうと味噌やとか醤油やとか、酒やとかあらゆる食料品やね。そういうものを、今は自治会長ゆうけど昔は組長っていうね。その組長に連絡をしてね、店があるもんで店へ出したりいろいろして。まず1番始めは主食っちゅうと米やわね。ほんで米の配給制度、これは昭和16年の4月より改正したということですが、僕は遅く入ったもんで、前の配給係の人があったもんですからその人がやっとって、その人が現役で兵隊に行かれた。ほんで後を僕が、村長さんが「お前配給係やれ」って。ほんで配給係をやった。僕は19年の9月から配給係になってね。こういうのはどこも全国的やわね。配給主任で入った。

特に山之上あたりは農村部で米を作っておる人が大部分やったもんでね、もちろん供出制度もあったけども、名古屋とかああゆう町から、もう名古屋には空襲やなんかいろいろあっておれんで、親戚が山之上にあるで行くで、頼むって。そうやってみえる。そういうやと、配給係や何かでも、転出転入ちゅうね、役場へ行ってどこどこに行くで転出証明をくれとゆうことでもらって、その行く先へ持っていくわけ。役場へね。今度役場では、それを見てこの家は大人が何人で子どもは何人でちゅうやつがあって。その基準でね。もう昔のことやで忘れちまってあれやけども、この配給は法律で決まったのはね、大人一人はね1日2合3勺の配給があった。ほんでそういう転出証明持ってみえるもんでもらって台帳作って、その家は、こういう人がみえて米がどんなけいるっちゅう、配給の日にちやとかいろいろ決めたり。それと同時に味噌やとか醤油やとか砂糖や酒やとかいろいろそういうものを配給に来やあたらいろいろやった。

煙草やとかそういうもんまで配給をしとったの。僕らの先生やなんかが、煙草買ってきてくれとか頼まっせるときがあるわね。そうすると煙草屋へ買いに行っとたわ。まあそれは配給制度になる前行きよったけれども。これは僕の家に買ってあって、いろいろ見よったらこういう本があったもんで。その当時のことがこう東海百年っちってこれ毎日新聞が当時に出しとったやつね。これ買っとったもんで家にあったわけよ。まあ当時の事やもんで。統制経済が始まってきたということやとかね。配給を国で決めてね。供出やなんかで割り当てがあるでしょ。あんたんとこは何段何r作っとるで米は家で食う分はどんなけで、あとは供出をしなさいということで供出をしよった。そういうことが書いたる、これ。

ほんで白飯やったけれども、7分づきにして食べなさいと。量も少なくなるもんでね、白い米にすると。いろいろそういう細かいことが書いたるわ。僕らは家で百姓やったもんで自分家でつくようにやっとったもんで、そういうことはあんまり記憶にないけれども。そういうことが書いたるけどもね、で他に国家総動員法いう法律ができた。ほんでこういうことが書いてある。配給の主任者係やってね、加茂郡なら加茂郡の県事務所があったもんでね、今でもあるけども。そういうとこの係を召集していろいろ指示をして。その通り役場に配給をもらってきた。ほんで配給の日にね、朝ちょっと遅れて行くっちゅうとね、どえらいほど玄関に待っとってね配給を。チェックしんならんでしょ。この家はそういう米の通帳を持ってみえる。やもんでそいつにあんたんとこは何人で、何じょう何合やちゅうやつを書いてやらならんだよ。そいつを書いてやることはその他いろいろやけれども、そんなようなことをやっとったし。それからだんだん時が経つにしたがって衣類、シャツからいろいろそういうもんまで配給になった。

S.Fさん 山の上の日記

一番記憶があるのは、あの当時百姓やもんでお蚕を飼っとったね。養蚕をね。やで桑を摘んだりいろいろして、朝早う行ったり夜遅う行ったりそういうことやって、お蚕に桑をやってみえた。そこへ召集が来ましたよっていって、持っていかないかん。本当に……そら名誉っていや名誉やけども、気の毒なような気がしてね、僕が数えの19かそこらやもんでなんちって言ったらいいや知らんと思ってね、それと山之上やもんで山のようなところも通って越えていかんならんやら。ほんやもんで、恐ろしいやらいろいろで苦労して行った覚えはある。判をもらって帰ってきて村長さんに、「朝、こういうふうで召集を持って行った」って言う。そういうようなこと。

それからね、空襲があるんだよね。その当時サイレンは無かったもんでね、火の見やぐらがあって、高いところやでね。ほんで.空襲警報がやれちゅうて、これも山之上では、古井の駐在所やったかどこやったかから、連絡が来る。ほんで山之上と古井と下米田は一緒に呼び出いといて、何時何分に空襲警報が発生なったで処置しよというようなあれが来るわけよね。はっきり覚えはないけれども、それから火の見やぐらの鐘を打たんならん。空襲警報のはどうやとか、鐘が鳴らすやつが違っとるね。そういうことも宿直のあれでやらんならん。日記もね、何時にやったとか誰がとか、召集令状が来たやなんかも、山之上の日記があるんやね。そういうことを書いて、次の朝村長さんに、こういうことやこういうことをやったって言って報告をしよった。

S.Fさん 戦後

終戦になって、軍隊は解散しとったもんでな。それぞれまあ行けちゅうことで。てんでわれわれちりぢりばらばらで、来たわけやけれども、僕の場合は初年兵やったけれども、ちょうど進駐軍がね、兵器を日本国から引き受けなかん。引き渡すわけやね。僕らの部隊でも何人とおったもんで、そっから兵器を浜松の師範学校へ輸送してね。そこで引き渡すということで、僕らの隊はね。兵器をどこどこへ、何月いつかに集結しときなさいって部隊から命令が出てね。僕らは兵器を浜松の師範学校までね、トラックでやって並べて、アメリカさんに受け渡すという仕事でね。初年兵でおって、終戦をした後僕らは残留で残って。他は返されちょったけど、僕らはどのくらい残ったか知らんけど20人か30人残ったのかどうや。夜は泊まって不寝番でね。兵器がどっかへ盗まれたりなんやしたらあれやもんで、不寝やったりいろいろして。片道やっておったわけやね。で、その兵器渡すときはまあ僕ら関係ないもんで、すぐ家へ来ちゃったけれども。終戦になって戻ってきてまた山之上の役場へ就職したんです。

S.Fさん 赤紙

僕らの上の兵隊さんはね、召集兵って知っとるか。何月いつかに入隊すべしっていう、赤紙が来るわけ。その赤紙が来ることも、僕は役場で宿直やなんかやるでしょ。そういう電話がくるの。召集令状が来たで取りに来いっちゅうて。判持ってね、取りに。どこへ行った覚えないが、古井の駐在所やなかったか知らんと思うけども、行ってもらってくる。判を押してもらってきてね、その兵隊さんのとこへ持っていくの。持ってって。「こういうふうで赤紙がきたで、ご苦労様ですけども、何日には入隊してください」とお願いをして、出てくんやね。それは兵隊に今まで行ってきた星のある人ね。そういう人んた、日にちある限り、ちゃんと間に合うように行かれるわけですけども。それから行くときには、まあ出陣ちゃうか、村の人がね、太田の駅まで古井の駅まで見送りをして下れる、一緒に行って下れる。古井駅行って、そしてまあこういうふうで行くんだという挨拶をしてね、古井から汽車に乗って、それぞれの司令される部隊に、行くわけやおね。

S.Fさん 入隊

私は大正5年1月生まれで、山之上町です。小学校は昭和7年に入って6年おって、中学ちゅうか昔やで高等1年、高等2年。ほんで加茂農林。僕らは戦争中やったもんで12月に卒業して、家は百姓やもんでね。農業を1年。ほんで19年の1月から、山之上の役場へ来てくれっちゅう話で、行って。徴兵検査が19年の秋にあって、僕らは繰り上げ徴集って言ってね、普通21なって、徴兵検査受けるんや。それが僕らの級のもう一つ上の組から1年繰り上げになったの。やもんで、早く徴兵検査やってね。ほんで昭和20年ね、終戦の年の。兵隊に行くのは、4月の23日入隊。僕らは山之上の西洞っちゅうとこにおって、23日に行くときは、皆さんに挨拶して古井の駅まで送ってもらってね、ほんで汽車に乗って岐阜へ行って。その時には、岐阜市あたりは空襲もなんにも受けておらんで普通の町であったけども。それから三重県の久居ちゅうとこが、自衛隊があるね。そこに入隊をしたんです、23日に。そこに3か月おって、それから部隊を移動をしたもんで。