そうすると単位制やったもんでね、農業やりたい人は農業科の単位とらないかん。で国語とか数学とかあの体育とかって決まったやつは、全部やらないかんもんね。その他に、自由時間ちゅうんかね、単位を余分なとこで、例えば1週間5単位、って決まっとるね。国語数学5単位とらな。理科も社会も体育もやって言ってとるでしょ。その残りの時間いろんな授業やれたの。例えば商業科の簿記なんかやりたい人は簿記のやってもらってもええし、農業やりたい人は農業のとこやってもええし。例えば普通科の人やともっと他の勉強をね、同じような国語の勉強をもっといいやつやるとかね。そういうふうにずっと分かれてやっとった。ほんでも時間が1時間1時間違うんやて。自分で選択性やもんで、そんで先生がなんかバランスとってくださってね、教室も毎日変わったね。ホームルームはABCでちゃんと朝ホームルームの部屋行ってみなさんで一緒に。ホームルーム終わると、早や1時間目からどうぞ自分でって。例えば同じとこの部屋の子でも、国語は一緒、体育はここで一緒とか数学は一緒とかってあるけど。バラバラになって行きよったんやね。なんかちょっとへんやったね。そういう変則的な学校になっとったね、加茂高が。ほんで加茂高出るときに、単位の取った人は単位のやつをもらえて、取らん人は加茂高等学校の普通科やったの、全員。うちら百姓やっとったもんでね、農業のやつ取らないかんって言って農業とっとたやら。そんやもんでうちら農業科卒業。単位を取ったもんで。卒業になったんや。授業はみんな一緒にやっとたんやね、ずーっと。農業の授業だけは違う。農業科の子と一緒にやっとったけど。普通のはみんな一緒に普通科の子たちとやっとったの。ほんで友達が大勢いるわけ。国語の時間行くとあっちの子と一緒で、体育はこっちの子と一緒でって。ほんで学校中の子、同じ学年の子はよう知っとるわね。みんな知ってるわ、あちこちいくもんで。
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T.Mさん 進学
中学校はね、6年生出ると高等科ちゅうのがあったの。で山之上の高等2年卒業して、それから私たち近くやもんで加茂農林ね。あそこが、昔加茂農林学校あったでしょ。あそこへ入ったわけ。1年生で。入った年に学区制になって、中学3年生になったの私たち。それで3年生になるわけやら。高等2年で加茂農林に入って、1年生済ましたら、加茂農林の中学3年生の免許証貰ったんやよ。賞状もらったの。うちらのクラスというかあの年のクラスがおらんもんねそんな加茂農林の中学3年あらへんもんでね昔は。ほんでその翌年に学区制で、加茂高等学校ができたわけ。加茂農林が無くなって加茂高等学校になったんや。ほんで加茂高等学校で3年で卒業したの。あれ加茂農林高等学校が加茂高校やな。学区制で変わったもんでね。それから途中から加茂高分かれてったんやもんねまた。できたんやよ。私んた卒業してから。初め加茂農林しかなかったけどなあ。その前は、加茂農林は女子の専門やったもんね。女子もあったもんでね、男子と女子と両方あって一緒に授業しとらなんだけどあって、合併したとき加茂農林の2年生になるときに高等学校ができたもんで、加茂高等学校の1年生で入ったやら。そん時に一緒になったんや。女子の人も加茂農林の人も、例えば岐阜とか多治見とか関とかってあるでしょ。そっちの学校行っとる人とか全部帰ってきて一緒に加茂高でやってたんや。全部普通科の人はこっち帰ってきてもらわないかん。例えば特殊な学校の人は入れたけど、ほとんどみなさんみえたんやよ。ほんで一緒にうちら、友達がたくさんおる。クラスも増えたしね。ほんで加茂高で卒業しとるけどね。ちょっとややこしいね。それから、また加茂農林ができたんやね。ほんやもんで私らは学校の免許は、国民学校やでね、初めは尋常高等小学校やったら。小学校入った1年、2年ごろは。3年ごろから国民学校になったの。で国民学校の初等科の6年生出たわけやら。国民学校出たわけやね。それから今度高等科ちゅうやつがあって、そこへ入ったんやねみんな。ほんで6年生で、普通の中学校行く人は中学へ行ったんやね。あちこち行ったんやけど、ほんで2年経って、もう1年経って高等科ってでて、加茂農林は高等科出たら入れたもんでね。ほんで加茂高等科出てから加茂農林へ3年行かしてもらって1年目入って、1年終わったとこで学区制ちゅうやつになって、ほして全部私らは加茂農林の中学卒業生やちゅうことになって。ほんで編入で加茂高へ入れたんや。ほんでその時に皆さんが他所からずーっときて一緒になって。クラスもほんと増えて、加茂高も。6クラスくらいあったんやよ。
T.Mさん 空襲
あとは、一番最後の8月の今頃やね。この辺もしょっちゅう空襲があってね。名古屋の方も空襲やったね。岐阜県もばーんとサイレン鳴って、名古屋の方の焼夷弾が落ちてね、燃えるとこの、赤いやつがばーっと燃えるとこだけ、見えたね。山之上高いでしょ。赤くなってね。「あ、今日は名古屋が燃えとるな」って言って見とったけどね。直接飛行機は来ん、B29が高いとこ行くだけで。まあ、「これ日本負けるかな」と思ったね、その時は。あとほんとに、終戦の8月の10日ごろになるとこの辺も艦載機が来たよ。ダーッと来てね。太田の駅でも亡くなったもんね、駅の人が。汽車のとこへバババババーっと撃ってね亡くなった人が。広見でもね、たくさんのドラム缶に鉄砲で撃ってね、もう油がバーッと燃えて火が出て燃えよったけどね。それも覚えがあるんです。それから爆弾の落ちた不発弾がね、山之上の古井の天狗山のこっちらへんね。あそこにもちょっとおったんやね。みなさん言っとったし。私たちは大きい川がないもんでね、池へ水浴びに行きよったんやね今頃ちょうどね。ほうすると艦載機がビョーっと来てね、ブオーンってこの太田の辺をバリバリバリとやってみえてびゅーっと私ら山へ隠れよったけどね。おそがいもんで。ほんと人が見えるくらいやったよ。人がちょっと見えるんやね、飛行機でね。もうこうなると「日本はあかんな」と思っとったね。それまでは絶対勝つって言っとったけど。そういう体験があるね。恐ろしかったねそういうときは。どこ狙っとるや分からんもんね。あとは直接何にもしとらんもんでね、うちらは。そういったこととか、道路に豆蒔いたとか、そういういろいろ。なんといっても小さいでね子ども達。私らも分からんでね。学校行っても運動会なんか無かったもんねその時は。その戦争前はね。
T.Mさん 家の手伝い
一番は、兄弟多かったやら。やもんでお兄さんもお姉さんもおるし、お兄さん兵隊に行っとるしね。お姉さん家に?とるし。そういう関係でうちらはちょうど中間でね。帰ってくると子守りしなかんでしょ、妹弟おるもんで。そういうのに毎日疲れとったね。そういうの決まっとるんやて。大きい子がみんな仕事して、小さい子が自分の妹と弟を子守りしたりお風呂焚いたりね。昔は風呂焚かなかんもんでね。今やと電気でバーッとやっちゃうけど、ガスも電気もないもんで風呂焚かないかんでしょ。ほんで風呂水汲まないかんでしょ。昔は水道ないもんでバケツで汲んでってバーッと大きな桶に水入れて。そして下で火を焚かないかんの、夕方になると。ほんで子守りしなかんやろ。そういうのを家のお手伝いをやっとった。ずっとね。毎日。ほんでみんなでなかなか遊びに行くような暇はないもんでね。まあ夏休みやと昼に水浴びに行くくらいやね。近所の子と一緒に。五人か四人でね。毎日水浴びに行きよったね。池行ったり小さい川行ったり。その程度であと何にも遊ぶことないしね。農家やもんでヤギを飼っとってね、乳を搾っとったの、家で。夕方になるとちゃんと搾っておったもんでね。わりとええもんやったんよ。そういうのはね。
特にえらかったことはねえ。…何しとったち覚えないもんでね。子守りして風呂沸かしてね。そういうことしとっただけやね。それから蚕を飼っとるもんでね。桑が家で足らんと、太田まで買いにみえるでしょ。そういうのを手伝って車を押しに行きよった。車で買いに行ったもんでね。昔の車やもんで台車って言ってガラガラのやつでしょ。重たいでお父さんが引いていくもんで私ら後ろで着いてって、山之上登ってかないかんもんでね、押して歩いとったね。そういうお手伝いをしよったね。今のようにあんまり学校では遊ばなんだね。遊ぶとこがないし運動場とられちゃうもんでね。戦争が負けてからは結構うちらも、野球やっとったよ。新しい先生が野球好きでね、うちら山之上であのころ加茂郡やなくて美濃加茂市か、加茂郡やわね。加茂郡で優勝したことあるでね。高等二年で。優勝して県大会行ったことあるよ。そういうのもあるね。それがまた、グローブとかああいうのないもんでねたくさん。人のやつを借りて借りてやらないかんもんでね、選手の分はあるけど予備の分はないもんでね。
T.Mさん 辛かったこと
【一番戦争が激しかったとき、辛かったことはなんですか?】一番辛かったことはね、例えば薪を出すときなんかね、私らあの山之上でも南の方やもんで薪なんかほとんど作っとらんとこやら。奥の方んた上手に作っとるもんでね、なれとるの。そういう子んた上手に自分で背板ちゅうやつね。そこにだだだっと並べて、ぴっと棒で押さえてね。四つとか五つとかその子によって違うけど、大きい子が五つくらい持ってく、小さい子は三つくらい持ってくわね。ほんで向こうの子んたは慣れとるもんでね、家でやっとったもんで。上手なんやけど私らはへたくそでしょ。途中で崩れちゃうしね。結構えらいしね。担いで下りてくの。ああいうのは辛いなあと思ったし。
あとはね、岐阜の方の女の子んたたくさん来て共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。食事を。みそ汁とかね。おかずとかご飯とかなんかたくさん炊いてね、そいで一緒にやってくださってね、そういうこともやっとったんやね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。
あとはえらいっちっても農家やもんでね。特別、そういうことはないわなあ。戦争って言っても、辛かったちゅうことは食べ物なんか配給やしあかんってまさに言われるもんで、「そうやそうや」と思ってはおったけども、自分とこ百姓やもんでなんでもあるでしょ。ああいうのを食べとったでね。さつまいもの蔓ね。あれを食べよって言われてね。取って食べとったんよ。蔓を取ってきて軸を。あそこちょっと皮剥いてそれを煮てたの。ああいうのたくさんあるわね、採れてたくさんあるもんでそういうやつを食べたりね。さっき言ったように弁当でも、一日は芋ご飯で芋を持ってけとかそうやったり。昔は今の給食やけど、学校へ父兄が順にまわってね、みそ汁を出してくださった。ご飯は自分で持ってくけど、学校でみそ汁を出してくれとったんやね。大勢一緒に作って出してもらいよったけど、結構ね割とおいしい味噌汁。あったかかったしね、冬なんか。そういうこともやってもらったことあるし。いろいろよ。
T.Mさん 学校生活
ほんで学校へは、白いご飯を持っていけなんだのね。禁止されとって、麦ご飯。例えば1週間に1回か2回ね、ああいう芋ご飯を持って来いって言われたんやね。さつまいもを入れたご飯を持って来いって学校で言われてね。そういうこともあったしね。で家なんか例えば白いご飯がないときは、麦のご飯を取っといて上に被せて持ってきよったの。こうして弁当の中に。先生が見にみえるんやて。「今日は麦ご飯やでみんな麦ご飯持っとるやろ」って。持ってかんと叱られるもんで、2、3日前の麦ご飯をとってね、並べてくと分からへんでしょ。そうして行きよったね。そういうことも覚えとるけどね。けどご飯麦ご飯ばっかの時もご飯家とっとったでねたくさん。ない人もいっぱいおるけども。
それから疎開って言ってね、名古屋とか岐阜とかの方から来とったの。ほんで私たち一クラスで50人、45人くらいか。ほんで疎開した子が来ると60人くらいになったね。15、6人来よったもんね。それで一クラスやったんやね。今やったら半分にしなかんけど、60人もおったら。あのころはそのくらい大勢おったの。それと学校がね、兵隊さんが校舎を半分以上とっちゃって、山之上はね。私山之上やもんでね。山之上ちゅうとこはね、機関砲という鉄砲撃つやつなんかがね、ぱんぱんぱんってやってね、今でも覚えとるけどね、よし今1,2,3,4,5…って言ってね、撃つまねごとしてみえるんやけど全然撃たせえへんけど、撃つまねしてね。大勢兵隊さんおってね。やっとったんですけど。そういう機関砲の部隊がおったんやね。そこで学校とられちゃうもんで、最後の終戦の年など勉強できんようになっちゃうもんでね。近くのお宮さんとかお寺さん借りてね、交替であちこち勉強に行きよったんやよ。今日はこちらで勉強するとか今日はお宮でするとか言って。クラスによって、全部同じ教室でできんもんで。そしてその日に順で変わってやったことあるね。そういうふうに。それから、本がないの。最後は本がないもんでね。謄写版で刷ったやつをね、先生が刷っとったんやと思うけどね、知らんけども。刷ったやつを貰ったんやよ。そういうのを貰って勉強のあれにしとったの、本の代わりに。ほんと薄っぺらいやつやね。本がないもんでそういうやつを順に習っとるときに作ってもらって、それを見て勉強しとったんやね。
それから終戦のちょっと前まで、農家のうちの兵隊さんに行ってみえてお父さんみえんうちで仕事が出来んとこへお手伝いに行きよったの。みなさんで学校で。お手伝いに行って、例えばさつまいもを植えたりね、草取りしたりね。そういうお手伝いをしとったね。そういうのやったしね、まあいろいろやったよ。山で木を切ってね、薪をずっとこんなんして束にして山から担いで降りてね、道路まで出すの。そっからトラックかしらんで持って帰るけど。そこまで出せんもんで出す人がおらんもんでね。男の人が少ないもんで。男性はその仕事やられる。土曜とか日曜はそういうふうに出よっちってね。みんなで一緒に出てって薪をたくさん持ってきて、積みよったね外へ。そういうことやったりね。今思うと考えられんね。
それから他所から疎開してきてみえるでしょ。その他所の知らん子がいっぱい来とったね。まあそういう子とは今全然お付き合いしとらんもんで分からへんもんでね。もう帰ってっちゃったもんで。
【疎開してきた子のことは、どう感じていましたか?】別に嫌だとは思っとらんかったよ、うちらは。仲良うやっとったよ。ほとんど親戚の人たちと一緒にそういう人が見えるもんで。例えばうちのお姉さんが他所へ嫁にして、その子どもさんが疎開してくるやら。やもんでここのお姉さんの子といっしょやもんで、いとこやもんでね。そういう子が泊まり込みでおったもんでね。仲は良かったよ。名古屋とか岐阜で来るとね、他所の子ばっかな気がしてみんなひがみよったけど。そうでもなかったそう変わらへんかったよ。他所から来るとなんかいい子ばっかな気がする、そうやないもんで変わらへんでね。同じ子どもやもんで、一緒に勉強したけどね。
T.Mさん 戦時中の生活
私はね、戦争中は小学校の3年4年5年…そのころやね。6年までかな。そのころまで、ずーっと戦争やっとったね。終戦の時に今の中学1年生やったね、8月に。ほんやもんで小学校の時の体験っていうとね、どういうことがあるやら、生活か学校か。例えば生活、家やと、私は百姓の生まれやもんでね。農家やもんでね、お父さんお母さんが農家やったもんでね。食べるもんは米作っとるでしょ。別に全然、供出はするけど百姓沢山やっとるもんで食べ物はそんな苦にならなかったのね。制限受けなんだの。食べ物は良かったけど、例えば学校行くとなると、服とかズボンとかそういうのは無いわけやら。それと履くもんがないもんでね、もう3年生4年生ごろから草履を作って履いたんよ。自分で草履を作ってね。おじいさんおばあさんに教えてもらってね。藁を綯って縄みたいに綯って。両方でつないで。前でこうやって足に掛けといてね。学校へずーっとはいてったんやよ。履くもんないもんでね。買うもんないし履くもんないもんで。そういうことをやっておったのね。ほんとそれ終戦ちょっと前1、2年くらいかな。そういうことずっとやっとったでしょ。みんなそうやわね。全員が学校行く人みんなないもんでね。服なんかないでしょ。昔はお蚕があって桑の木があったね。桑の木の棒を切ったやつを皮をむいて、それを供出で出しよったの。それで服を作ってもらうの。幸い家はお蚕を飼っとったもんでね、おばあさんが織物をちゃんと織ってね、それで服作ってもらった家で。そういう覚えがあるね。ほやけど、そんな桑の木なんか出して作った服は、全部クラスへ来てね、抽選やの。抽選でしか買えんもんでね。1年に1着2着やと抽選やもんでね。なかなか当たらへんの。みんなが。当たらへんもんでなかなか貰えなんだ。そういう覚えがあるね。
それと例えば、仕事がね、みんなああいう子ども達がおってね、食べるもんが少ないもんで、大豆を道路の両端に穴掘って蒔いて、そんでそれを収穫して上で出しよったんやよ。教室っちゅうかね。みんなで作って出しよったの。普通の道路あるでしょ。あのころは舗装してないもんでね、じゃりじゃりの道ばっかやもんで、その1番端の草生えるとこね。あそこんとこに穴掘ってね、豆をかすかにつまいて、それに燃やいた灰ともみ殻両方混ぜたやつを、上へぱっぱっと肥代わりに、生えてきてそれで大きくなれるようにやってね、ほんでみんなで収穫して学校へ出しとったんやよ。そういうことやっとったんやね、子どもでも。
T.Kさん 兄が戦争に
【ご家族の中で戦争に行かれた人はいましたか?】兄が行ったわ。私の兄は、戦争に行っておるわ。でも無事にね、帰ってきたんやけども。家の辺でもほんと一軒に3人くらい行ってる家がね、4軒くらいあったね。あの時分はほんとね「産めよ、増やせよ」ちゅうときでどこの家族も大勢な子どもやったの。うちも八人兄弟なの私。女4人と男4人の。八人兄弟やけども、まあほんと皆どこの家も7人8人が多かったね。子どもが。
【お兄さんの見送りはしましたか?】昔はあったよ、うん。みんなして送ったんやて。お宮さん行って、それからもう日の丸の旗持って駅までね、送ってったの。今日は何処何処の人の出征日やでっていって。みんなして。で町長さんの挨拶があって元気で行って来いって。
【その時は、「勝ってきて」という思いでしたか?】そうそう、うん。その時分にね、歌があってね。「咲いた桜が男子(おのこ)なら 慕う胡蝶は妻じゃもの 生きて咲け桜花 俺も死のう 華やかに」って。その歌がもう頭にこびりついとる、うん。
T.Kさん 終戦の時
【当時は、戦争には勝つと思っていましたか?】今日は真珠湾攻撃やあれやって、みんな勝ったニュースばっかし入ってきたでしょ。けども、「あー、あそこ陥落したよ、ここ陥落したよ」ってものすごくね、喜んでいたんやけども。ちょうど終戦を迎えて、20年の8月15日に陛下のね、あれがあった時には、私たち泣いてね。「ああ、やっぱし、戦争に負けたんやねえ」って言って、話したんやけどね。
T.Kさん 辛かったこと
【戦時中辛かったことは何ですか?】辛かったことはね、毎日それこそご飯なんかなかったもんで、大豆のね、配給ってのがあったもんで大豆のご飯。大豆のご飯とかさつまいものご飯とか。ご飯って言ったってお雑炊やわね。そういうのを、戦時中は食べとったの。じゃがいも入れてね。ほんと米はどこにあるか分からんくらいの、そういう食べ物やったんやて。お米の配給制度になって、赤ちゃんから2歳まで、5歳から7歳までって、4段階に仕切って、一日のお米のいただける量が決まってたんやわ。で私たちは、そのとき終戦後に役場に入ったのね。役場に入って、その配給係っちゅうのをやってたんやて。そのときにやっぱしそういうお米とか赤ちゃんにはミルクの配給とかね。そういう配給制度が、終戦後あったわけ。お米も15日分くらいやったね、ひと月にお米が来る日は。あとは、それこそ大豆とかさつまいもとかじゃがいもとか入れてご飯食べるちゅうだけで、お米は15日分しか配給がなかったんよ。
【配給は、終戦前はなかったんですか?】いつごろからやったやろうねえ。私が終戦後、役場入ってから配給の係になったもんで、あれやろ。その前からもあったんやろうねえ。今月は、10日分しか米の配給がないよって言っとったことがあるでね。10日から、今月は15日分お米の配給があるよって。あとは自分たちでね、補って。まだずっと田舎の方へ持ってって、着るものと、お百姓さんのとこ行って、お米とかそういうのと交換してもらってきてね、食べとったんやて。