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T.Kさん 親戚が疎開に

【金山には、疎開してきた子どもたちはいましたか?】金山は疎開はなしでね、他からね。私んとこの実家なんか2世帯。東京から私んとこのうちにね、住んでたわ。みんなどこの家もそういうふうにして、自分とこの親戚の人が疎開してきてみえたんよ。うん。ちょっと私たちのすぐ隣村なんかお寺へ、名古屋から学生がね、3年生以上の人がお寺へ学徒の疎開でお寺さんへ来てみえたんやけども。私たちのお寺さんは、兵隊さんがそこで寝泊まりしてやってみえたもんで、子どものあれやなかったんやけどもね。(親戚は)若い衆は東京に残して、おじいさんおばあさんを私んとこのうちの方にね、預けに来てみえたんです。

T.Kさん おしゃれよりも

【当時はどんな服装でしたか?】服装は、それこそもんぺって言ったね。もんぺ姿やったね。おしゃれしたいっていう気持ちは無かったね。終戦まで、私たちの年齢の人はお嫁に行くときにもんぺ姿でお嫁に行きなさった人いくらでもいたよ。

「勝つまでは欲しがりません。」って言ってね。「勝つまでは欲しがりません」っていう、いつもそういうことを言われとったね。で何にも、欲しいったってものがあらへんで。欲しいものが、食べる物がないでしょ。で「勝つまでは欲しがりません」って言っとったけども。食べる物もなかったからね。

T.Kさん 女学校の生活

【女学校は、美濃加茂にあったんですか?】美濃加茂やないです。益田郡の金山町。下呂市。

【女学校の時、竹やりの練習などはしましたか?】あのね、女学校の時はなぎなた。長い。なぎなたの練習ばっかしやったね。

【当時給食はありましたか?】私たちの時は無かったね。お弁当持ってったね。お弁当の中も芋やった。

T.Kさん お百度参りと千人針

各家庭にはね、戦闘機が爆弾落とすって言って、蔵も全部黒く塗っちゃって。分からないように塗っちゃったの、黒く。ほんで家にある金物。火鉢とかね、お寺の鐘つき堂の鐘ね。あれとかみんなその時分は供出しんなかったの。あるものをみんな出してくれって言って、お寺の鐘から、自分とこの家やったら、金の火鉢やとかね、そういうものあったもんで、全部出しちゃって。金物何にもないように。なんか軍の方へ出しちゃったんです。戦時中その女学校行っとる時に、お百度参りってね、戦争に行かれる人の、祈願を祈るために、百回お百度参りって言って、裸足で奥之院まで行って、石を投げて戻ってくる。それを婦人会の人が、「今夜、お百度参りやでお願いしますね」って言って、そうやってみえるとついて行って、そのお百度参りを戦時中ね、兵隊さんが無事に帰ってこれるようにっていって、お百度参りをしたわけ。あと、千人針っていってね、こういう筆のね、あそこにたんたんたんっと赤い穴開けて、赤の糸でこぶ作って、こういうのにね、千。千作るわけ。ほんで寅年の人は、寅の数だけ千人針作れるの。普通の人は一個だけしか作れんけども、寅年は寅の数だけやもんで、「あ、あそこの家には寅年の人がみえたであそこ行こうかね」って、そういうとこ行って訪ねて、この千人針を作ってね、届けたわけ。皆若い人は特攻隊って言ってね、私の主人もそうやけども、まだ二十歳にならんうちに、特攻隊へ志願してね、予科練へ。行ったわけなんです。

T.Kさん 学徒動員

戦時中だったら、ちょうど私たち6年生卒業する時に、国民学校ね。国民学校6年生の時にあれやったもんでね、で6年生終わって、地元の女学校へ入ったわけ。19年の6月までその女学校で勉強しとったわけね。で戦争が酷くなったもんで、6月で学校がね、解散になっちゃったの。その女学校がね。その前は女学校行っとっても、山を開墾してね。さつまいもとか、それこそ豆やね。豆やなんかを「今日は開墾に行く日やで」って言って、山の方へ行って開墾して、さつまいもとかそういうものをを作ってね、やっとったんです。それでまだ終戦前の19年の6月までその女学校行って。で6月で女学校が、戦いが酷くなったもんでもう、解散になっちゃったんよ。で、みんなそれぞれが軍需工場へ勤めに行かんならんのね。その時にここの腕章に「学徒動員」ちゅう腕章つけて、「神風」と書いたハチマキつけて、6月に「また会いましょうね」って言ってそこでみんな別れて、4つか5つくらいの工場へ分かれて勤めに行ったわけ。地元では、大きいお寺さんがあったもんで、そこへ兵隊さんたちが来て、お寺で寝泊まりしてみえたの。劇場も全部、その軍需工場で仕事をやってみえたし、私たちおった女学校も軍需工場して、兵隊さんたちがそこで仕事をやってみえたの。その年はね。

【工場では何をされていたんですか?】なんかね機械の部品みたいなものをね、作ってたんやね。

S.Wさん 船と汽車の話

【向こうへ行くときは、どの港から出たんですか?】何回も行き来しとるで、何回もって2回だけやが。最初義勇軍に行くときは敦賀の港。福井県敦賀市。敦賀を出て北朝鮮の、今はまあそんな呼び方やないが、清津から羅津。ほれからみんな満州鉄道に乗ったわけやね。羅津で。ほーんで船が移動揺れてね。熱田丸ちゅうどえらい大きな船やったけど。敦賀を出港するときに、そのころはまんだ港で出るまであの、海にいろいろおるやつが出て来ちゃあ泳いどるやつを見とったら、クラゲがうようようよ~って出て来ちゃあ気持ちよさそうに泳いどる。子どもやわそりゃね、まんだ。ほうやもんやで釣れんかちゅうことになって。ご飯粒、夕飯食べるのまっとって、そいつを持ってきて釣ろうかって。糸にご飯粒を縛り付けて落といたると、ちゃんと咥えて上ってくるけど、1mから2mになってくるとどぼーんって。へっへっへ。そんな楽しみをしてよ。家を捨てて寂しいとも悲しいとも思わん。楽しいことやと思って、遊びながらしよったら、?ほうして、どんなけともいかんうちに、甲板に出とる者みんな船室入れちゅうことで。甲板が海になったようにでーんと荒れるようになった。ほうしたら船が揺れて揺れて揺れたかいて船の中のこういう前やけども、ところどころこう台がとってあって、このくらいの高さの。ほうして通路が割合広くとってあったんやね。ほんでひとしまひとしまに何人やったかあれしたかわからんけど、ほんであれ夜出て次の朝10時ごろに清津に着いたかな。もう酔っちゃって、船がどんなふうにして動いてきたやら何があったことやらさっぱりわからん。何か人の話によると「渡邉はおかあ、おかあ言っとったぞ」って。ほんとに死んだかしらんと思うほど苦しかったんやね。ほんで清津で降りて陸に上がったら、陸地が動いとるんやないか。ふらふらーふらふらーって歩いて。ほんで清津の町をふらふらっと歩いて。ほんで半日くらい歩いて清津を発ったかな。夕方早や羅津へ着いたんや。羅津へ着いたら今度は立派な開拓会館ができて、立派なホテルができて。そこで泊まることになった。ほんでもまだえらいことはえらいしまあどうでもようなって、みんなから離れとった。で便所行くと水洗便所で、こんなことは初めてやでどえらい便所に入ったってよ。ほんで笑ったことやったが、夜が明けるまでちったあ寝たやな。

朝、太陽が昇りかかっとったで何時、時計は持っとらんし、何時っていうことも分からなんだけども。汽車に初めて乗ったわけやけども、満州鉄道に。いやあ、良い汽車でね。別に広いこともなかったが、ここらへんの新幹線と一緒やわね。6人ずつ横一列に乗れる席で、どえらい重車に乗ったみたいやった。汽車の話するとまたいろいろ出てくるけれども、前を見て来よるとレールがさーっと沈んでくの。ほんで通り抜けるとぼこんと跳ね上がるんや。土地が軟らかいもんやでね。おそがいやったよ、脱線するか知らんと思って。そんな感じで、「ああ、珍しいことや珍しいことや」って何やったが、駅から駅までの間がひょっとすると1時間くらい乗って走らないかんとこがあるかもしれん。とにかく一面坡の訓練所に着くまでに、7か所くらい止まっただけやでね。もっとも特急やっちゅうこともあったけれども。ほんで今はそんなことないが、機関車の上には大きな銀がついとって。乗務員が綱引っぱりよる。カーブへ来たり踏切があるとこへ来ると。じゃーんじゃーんじゃーんと。ゆっくりしとるなあと。はっはっは。のんびりと綱引いてじゃーんじゃーん鳴らいて行くんやね。そんなやつが面白かったな。初めてやったもんやで。こっから近いとこで1区間、太田駅くらいまでは完全にあった。やっと乗っとる。ただ、汽車の中が朝鮮半島から満州国へ入ったころにはニンニク臭うてよ。まあ嫌で嫌でかなわなんだが、今はニンニクのにおいそう嫌いではないけどもあのころは嫌やったね。ほうしてまんだ胸に残るのは、あれは豆満江か?なにか川、朝鮮の民族衣装を着て、その高いとこ汽車通って行くわけやわ。今の中国の東北部入るときは。ほんで川が真下に見えるもんやでね。民族衣装がそれはとってもきれいで、こんなようないろいろな濃い色やでね。それを見とると、なーんたらきれいやろ。あれが朝鮮人かよなんてよて。ふっふ。ほんであの何しよるかちゅうと洗濯しよるんや。なんか棒の野球のバットをちょっと短こうしたこんくらいのやつ。あれで石の上でぽんぽんぽんぽん叩いて。それで洗濯終えたものは、何に入れよるそこらへんなにや見えなんだけども入れ物に入れて頭に乗せて、タッタタッタと帰ってきよる。入れ代わり立ち代わりで北朝鮮の住民かなんか知らんが、あれが珍しかった。ほして、汽車のデッキが、この汽車は高いら。1mかデッキがあるわけや乗るんやけども、野原から飛んできてほやほやほやっと乗れるように、低うこんなくらいしかあらへん。ほんで脱線かなんかしてもそうどえらい大きな事故になんかならへんのやな。まず脱線したなんちゅう話はしたことない。ほして、寒さが厳しいもんやで二重窓で、窓開けてもなかなか外の景色が見られない。難儀して開けて原住民に叱られたり。風が入ってくるとあかんでって。風入ってくるてええやんと思って。へへへ。そんなけが珍しかった。

S.Wさん 今思うこと

こういう大東亜戦争で犠牲になったものの気持ちをもうちょっと察してくれな敵わんな。大事な青春時代を、国の為の国策やなんか。そんなふうにして酷い目に遭わされてよ。1か月の日当が、義勇隊のうちは3円や。1か月3円やよ。1年経って36円や。そんな報酬でさ。軍事訓練が多かったとは言いながら、畑はいくらでもはえとれちゅうんやで、あっちの土地はよう肥とって無肥料でなんでも採れるやっちゃで。だいぶ野菜も穀物も、採りよったんやね。生産しよった。そういうやつの金がだいぶ入っとってもいいような気がしたんやけども、微々たるもんやった。

自分体験したことがええことならええけれども。惨めな中国人をあんな目に遭わせちゃってよ。どうせ殺すんやったらそのまま釈放したればよかった、生かして。というようなそういう憤慨するっちゅうか、まあ心が収まりつかんで。そういう経験しとると。(だから日本人もそうやって痛めてきたんやね。あの返しが来ると思うんよ。ほうやけどそん時の思いはどうにもならなんだっていうでね。やらんならんかったもんで。大変やったらしいよ。)死体を焼くときでも、みんな「ええにおいがする、ええにおいがする」って言いよったけども、俺はちょっともええにおいせん。そういうのに携わっとらんものはなんやろなんやろって知らずにおる。(こんなことしてええんかしらと思ったってね。そういう話はようくしたけれど聞いたけど。15歳から行って青春時代は何にもないもんで。)そういうことで、安全保障制度はええかげんにして、日本を今迄通り平和にしてほしいちゅうことは、思うね。一番、そういうことは強く思う。

この開拓の政策でもそうやけども、なんやかんや言っとる上の。昔は特に軍閥主義やったであれやけども、一部の者に引っぱられてまったっていうこと。でこんな大きな戦争になっちゃったやね。勝ちゃええけど負けてまった。(負けた悔しさは何ともいえんわね。もう勝つばっかと思ってね。みんな一生懸命に満州広げようと思って、一生懸命やったんやて。そういう気持ちはわかるよ。ほんとに。そうやけども情けないことにね。日本は負けてまってということやで。まあ仕方がないことやで。それこそ知らん人はこんなん嘘かしらと思うようなことやね。ほんとにね、悲しかったと思うよ。)ほんで義勇隊生活ちゅうやつは、あの苦しい中も楽しいことがたいへんあったもんやで。気の弱い、トンコン(屯墾)病ちゅうやつにね、トンコン病ちゅうやつはご存じないかもしれんが、家に帰りとうてしょうがない病気なんやわ。そうそうホームシック。そういう病気になって帰った者も大勢おるんやね。

S.Wさん 奥さんの兄

(15歳の時に思い切ってみんな有志のものは行くちゅうことになって、ちょうど私の兄もね、一緒やったの。旦那と。一緒に行って、戦争終わって逃げて来よるうちに、腸チフスちゅう病気になってまって、ほんでやっぱり入院して。『死亡』のとこにあるんやけど。水が飲みたいけど飲んだらいかんって。まあ逃げてくるもんで飲みたいだけやわね。病気やから。でどうやっても飲まずにおれなんだで飲んだらそれが最後。そのまま倒れて亡くなっちゃったわね。そういう話を聞いて、ああほんとやったなあと思ってね。)

S.Wさん 岐阜駅

軍隊から帰ってきてあの頃汽車なんかまともに乗れやせん。窓から飛び込んだり下りたりするようなそんなような混んでまって。ほんでそのようなで、わしらのような体の小さいものは窓からぴょんと入れたで、ほうやって乗り降りしたりね。ほんで1番驚いたのは岐阜の駅。降りたことはええが、あんまり駅を利用したこともなかったけれども、春日に行くときには2,3回は行ったことあるもんやで、ホームへ降りて来たら町はむちゃくちゃに焼け野原ちゅうやつやね。あれになってまっとるし、ホームなんかさっぱりどこへいってまったやらわからへん。駅員に聞いてなにした。がっかりしたあん時は。まあほんとに。

(自分で整理せないかんてもう早や歳になったもんで構いたくないでしょ。ここを若いもんがやるとね。ほんやもんで知らん顔して逃げてまうもんで、よけ何処へしまったかわっからへんようになる。でももう必要ないわ、私が死ぬまではっていうくらいのことやわね。よう聞いてくださったねほんでもね。ほんで上手に話がしたいけれども、まとまった話ができんもんで申し訳ないと思ってね。)

S.Wさん 奥さんのお話

私んたも家におるときは戦時中やったよ。ちょうど卒業する時にはあれやったもんで。さつまいもを学校、勉強そのものやないもんでね、もう薪背負いから、さつまいも作って主食で食べてね、そういう生活をしてきとったんや。ほんでお嫁入りしてもらうときには、お米が配給で。私の在所はお百姓が沢山やったもんで、そのお米を物々交換して塩を貰ったりお砂糖貰ったりして、物々交換して食べとった。そうやけど配給でしょ。お米もこのくらいしかもらえへんし、ほんで麦こんくらい入れてお米こんくらい入れてご飯炊いとった。ほんでこういう夏の暑い日は腐っちゃってね。そんなような生活してきたもんで、まあ戦争終わってからでも苦しい目にあって来とるでねみんな。なかなか自由なあれがなかったよ。配給やったね。ほんとにお米がないのが残念ね。そういうことになると。まあ辛い思いしたなって思う。