美濃加茂市について

戦時中の美濃加茂市の様子、被害、現在の市の平和活動について紹介します

産業

明治時代ごろから農業の副業として養蚕が盛んに行われており、市街地の多い太田町、水田が比較的多い伊深村を除いて、全戸数の50~80%が蚕を飼育していました。

郡是製糸美濃工場をはじめとした製糸工場もありました。

今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製糸工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。

R.Mさんの体験談より

ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)

T.Mさん、R.Mさんの体験談より

想い出の記 ーー繭出し   美濃加茂市 岸一次
大正の末から昭和の初め頃は養蚕が盛んで繭の収穫は農家最大の財源であった。春、夏、秋、晩秋の四期を一家総がかりで働き、繭を古井の郡是製糸工場へ運んだ。蜂屋からは当時山道で坂を越え、上古井までは上り道なので私達子どもは大八車の阿呆引きをして行ったものである。それが帰りは実に楽しかった。空になった繭かごの中で、だちんをたべながら父の挽く車に揺られて帰った想い出は今も忘れられない。

絵・文 髙橋余一 『美濃生活絵巻「下」』より

農家の子どもたちにとって、養蚕以外の農作業も生活の一部でした。

ほとんどが農家だった下米田では小学生とはいえども計算された労働力であった。農作業のすべてを人力に頼っていたこともあって、農繁期は学校から帰ると。すぐ田畑へ出て家族総出で働いた。体力をつけるためにスポーツをするといったことは全くなく、体力は働くことで意識しないで自然に身についた。

渡辺均 著 『忘れ残りの記(1)子どもの生活 今・昔』より

岐阜の方の女の子んたたくさん来てね、共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。みそ汁とかねおかずとかご飯とかたくさん炊いてね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。変わった岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。

T.Mさんの体験談より

交通

渡し船

木曽川や飛騨川では水運が行われていましたが、昭和12年の川辺発電所の建設、昭和14年の木曽川今渡ダム建設の影響で観光としての川下りが中心になりました。戦時中は中断されていました。

想い出の記 ーー太田の渡し  美濃加茂市 松永優
太田の渡しの最盛期は、昭和二十年戦後だったと思う。土田村(現在の可児市土田)に軍需工場ができ、多くの人が通勤に利用したからである。今は中濃大橋が架かり、渡船場の辺りは、護岸堤防の厚いコンクリートを見るだけとなり殺風景になったが、夏の夕方など静かな川面を眺めていると、涼しい風が吹き渡り、渡し船が往復する度に、鋼索を走る滑車の‘‘ジャー‘‘という音が聞えてくる光景を、はっきりと思い出す。

絵・文 髙橋余一 『美濃生活絵巻「下」』より

化石林公園から撮影した木曽川

想い出の記 ーー渡し船   美濃加茂市 大杉涼月
川合町の木曽川に渡船場が明治後期から昭和の初期にかけて行われていた。当時は古井村川合と言い、川合の渡しとして、旧太田橋もなく、現在のように川合大橋も勿論なく、可児へ渡るに、太田の渡船場と並んで唯一の交通機関だった。…略…

絵・文 髙橋余一 『美濃生活絵巻「下」』より

鉄道

鉄道敷設の土木工事に市域の農民も参加し、大正10年に旧国鉄美濃太田駅、11年に古井駅、12年に加茂野駅が開業しました。

開業した当時は現在の美濃太田駅前通りはありませんでした。

昭和7年に美濃太田駅機関庫が駅西北に設置され、昭和9年には美濃太田・北濃間が開通しました。この越美南線は昭和61年から長良川鉄道に変わりました。

友達つれて長良鉄道、今でいうと越美南線やけども、富加駅でホームのはしっくれに座って、名古屋空襲されとるのを見とったのね。

T.Nさんの体験談より

※正しくは現在が長良川鉄道


戦時中の被害

空襲

昭和20年7月13日、古井本郷町の京町地区、田畑地区、森山町と下米田町小山地区、西脇地区に合わせて70発余りの焼夷弾が投下されました。古井に当時あった製糸工場を狙ったのではないかと伝えられており、民家や公民館など約10戸が焼けましたが死者はいませんでした。

下米田町小山地区と西脇地区では一面が火の海になり、軒下に置いてあった石臼が焼夷弾により粉々に砕け散るなどの被害がありました。

美濃太田駅 機銃掃射

昭和20年8月14日正午ごろ、美濃太田駅が艦載機による機銃掃射を受け、機関士2人が死亡、2人が負傷する被害がありました。当時美濃太田駅にあった機関庫が狙われたのではないかと言われています。

美濃加茂の太田駅。あそこもね、機関庫っていうのがあるわけね。列車の修理する車庫みたいなとこがあるの。でそこをめがけて艦載機がね、僕らそこで駅で見とったら、その目の前をうわーっといってね、ほんで太田をバババババーって2回も繰り返して。日本の戦闘機と一緒やもんで、ガソリンたんと積んどらんもんで、2回くらい撃って、そのまんまびゃーっと帰ってったけどね、そんときは、1機だけ来ただけ。バリバリバリっちゅう音まで聞こえたよ。駅で僕らが5年生の時に聞いとった。それくらい来て、まあそれでも、なんちゅうの。自分たでは、日本は負けるなんてそんな気持ちはなかったな。うん。ただ、すごいなっていう感じやったわ。

T.Nさんの体験談より

学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。

N.Iさんの体験談より

8月のほんと終戦の間際は、艦載機が来たね。戦闘機がバーッと来て、このへんやったんやね。そん時に私らはもうあかんと思ったんやでね。こんな田舎の方まで飛行機が来ては駄目やなと思っておったけど。

T.Mさんの体験談より

今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。…中略…ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。

A.Nさんの体験談より

美濃加茂市立古井小学校には、昭和16年に作られ、当時の高山線、太多線、越美南線を走っていた「C58280」という機関車が昭和44年に貸与され、保存されています。機銃掃射の際に弾丸を受けており、現在もその跡が確認できるそうです。

C58280

現在の平和活動について

平和都市宣言

美濃加茂市は平成元年3月25日に平和都市宣言を制定しています。

平和を希求する都市

私たちすべての市民は、人類共通の願いである核兵器廃絶が一日も早く実現され、戦争のない恒久平和が達成されることを心から希求する。
この願いを込めて、世界のすべての人々との交流をすすめ、相互理解を深め、世界の平和を訴えるものである。

平和事業

青少年ピースフォーラムへの参加

平成16年から広島市や長崎市へ中学生を派遣しています。
長崎市が平成5年から毎年行っている「青少年ピースフォーラム」に参加し、被爆体験者の講話や爆心地付近の被爆建造物の見学、平和祈念式典への参列などをしています。
令和4年度は市内及び富加町内の西中学校、東中学校、美濃加茂中学校、双葉中学校から8人が派遣されました。

平和への道標

美濃加茂市遺族会会長のA.Nさんによると、令和元年から市の協力を受け、太田町の裕泉寺境内や清水町の古井神社境内など市内各所に「平和への道標」として忠魂碑や英霊碑が建立されています。

しかし美濃加茂市遺族会は高齢化が進み、体の不調などで退会される方が目立つようになり弱体化という問題を抱えています。

参考文献等

・高橋余一. 美濃生活絵巻「下」. 1990.
・渡辺均. 忘れ残りの記(1)子どもの生活 今・昔.
・美濃加茂市教育委員会編.市民のための美濃加茂の歴史. 1995.
・美濃加茂市ホームページ https://www.city.minokamo.gifu.jp/shimin/