空襲警報とか警戒警報とかいうのは、初めのうちはそんなになかったけども、やっぱりあの美濃加茂市というか、当時美濃加茂市やない、伊深村やったもんでね。伊深の山の中ですからそんなになかったが、でも夜になると、警戒警報発せられると、明かりをまず消す。家の中の明かりを消しちゃうという。消さずに家の中で、シートで電気をカバーして。でもほんとその電気を消しただけで、そうゆうような生活を強いられたわけやね。それはまあ日常生活での、決まりやね。で空襲警報で何したという。学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。あまり記憶にないですけれども。昔は太田は機関車の集積するとこやったもんで。蒸気機関車が何台も集まってきて、高山線と越美南線の機関車が全部今日はこの機関車を持ってくとそういうような車庫があったの。そこへ、時期ははっきり覚えておりませんけども終戦の間際にきたときに、終戦の前の年やったと思うけども、その車庫に止まってる機関車に、飛行機からボボボボーンと機銃掃射って飛行機で上から撃ったという。