N.Iさん 戦場に行きたい

私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。