S.Wさん 教員の道へ

ほんで軍人は軍属まで、家族が亡くなるまで面倒見てもらえたけど、義勇隊は全然見てもらえん。たった5年間5千やったか、5万円の金だけもらって、あとは何にも援助はあらへんなんだで。まんだほかの死んだ者は軍属扱いになるか。おりゃ、死にゃあ良かったと思った。(ほんでもね、命からがら逃げてきて今生きとるでね)ほんでも命からがら逃げては来なんだけど。楽に逃げてきたで。ほんでここの地元の母校やけども、校長がどえらい熱心な人でね、学校の先生のお手伝いに来てくれんかっていって。その時が22歳の頃やな。22歳の時に来て、24年まで引きずった。「あかん。学校も出とらんし学問もさげとらんで、先生なんかになれる資格なんかないで駄目や」って断り続けてきたが、2年、もう忘れるころになったら来て。「頼む、頼む」て。ちょうど教員も不足しとる頃やでね。とうとうこっちが根負けしたというか、そのころちょうど静岡に富士川農学校ちゅうとこがあって、そこ入ることをあれして。試験を受けんでも履歴であの入校さしてやるちゅうて。入校の案内が早や来とったわけやね。ほんでそれ見たら、「そんなとこ行かんでいい。俺が農産学校の方もあるし、農業の細かいことなにもかもあるで見してやるで、勉強しや良い。」「先生やったら勉強できんやら」って言ったら、「いやいや、俺が認めるでええ」って。ちゃんとやってもいいって。とうとう負けて1年間だけやりますって。ほんで1年間過ぎたころ面白いっつったら面白い。学校面白くてかなわん。まあ黙ってやるかって。ほうしてやるんやったら免許証がない。免許証とるためにはどうしやええって。講習や通信教育や、そういうものがあるでそういう学校へ臨時で2,3か月はいけるで学校へ行くとか、そういうことをしやええって。そんでできることからやりゃええっていって、あの講習は夏休み全部休まずに、毎日土日は除いて講習に、ほぼの学校であったもんやでね、そんで150単位くらい講習で単位を取って。あとは、玉川大学の通信教育。これがえらかったわ。自動車の運転も素人やし、おそがいながらも名古屋の明和高校やったか。明和高校やな。あそこへ試験受けに。その試験が全部とんとんで通りゃええけども、1回や2回はちゃんと不合格や。これまた取り直しにいかんならん。まあそうこうするうちに、昭和24年に学校に入って、25年には臨時免許もらえて。27年に仮免許状を取ることができた。ほして昭和35年。35歳にして初めて、小学校教諭2級の免許状、それが取れたんや。ほんでまんだ足らんでって言って単位が。ほんでまた通信教育。そんで42歳。ちょうど親父の死んだ歳やな。42歳で初めて、1級の免許状を取ることができた。ほんでまあやれやれ、まだそりゃ中学とか高校あるで取れって。ほうしたらまあおじさん取れなんだけどね。そういうことがあったおかげに、なんとかもう、今はこんなにのんびりと暮らしができるくらいやで。