【一番戦争が激しかったとき、辛かったことはなんですか?】一番辛かったことはね、例えば薪を出すときなんかね、私らあの山之上でも南の方やもんで薪なんかほとんど作っとらんとこやら。奥の方んた上手に作っとるもんでね、なれとるの。そういう子んた上手に自分で背板ちゅうやつね。そこにだだだっと並べて、ぴっと棒で押さえてね。四つとか五つとかその子によって違うけど、大きい子が五つくらい持ってく、小さい子は三つくらい持ってくわね。ほんで向こうの子んたは慣れとるもんでね、家でやっとったもんで。上手なんやけど私らはへたくそでしょ。途中で崩れちゃうしね。結構えらいしね。担いで下りてくの。ああいうのは辛いなあと思ったし。
あとはね、岐阜の方の女の子んたたくさん来て共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。食事を。みそ汁とかね。おかずとかご飯とかなんかたくさん炊いてね、そいで一緒にやってくださってね、そういうこともやっとったんやね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。
あとはえらいっちっても農家やもんでね。特別、そういうことはないわなあ。戦争って言っても、辛かったちゅうことは食べ物なんか配給やしあかんってまさに言われるもんで、「そうやそうや」と思ってはおったけども、自分とこ百姓やもんでなんでもあるでしょ。ああいうのを食べとったでね。さつまいもの蔓ね。あれを食べよって言われてね。取って食べとったんよ。蔓を取ってきて軸を。あそこちょっと皮剥いてそれを煮てたの。ああいうのたくさんあるわね、採れてたくさんあるもんでそういうやつを食べたりね。さっき言ったように弁当でも、一日は芋ご飯で芋を持ってけとかそうやったり。昔は今の給食やけど、学校へ父兄が順にまわってね、みそ汁を出してくださった。ご飯は自分で持ってくけど、学校でみそ汁を出してくれとったんやね。大勢一緒に作って出してもらいよったけど、結構ね割とおいしい味噌汁。あったかかったしね、冬なんか。そういうこともやってもらったことあるし。いろいろよ。