ほんでおじさんは機械が好きやったもんで、今関商工いうけども、昔は関工業高等学校やったんやね。そこへ入って機械の勉強をして、卒業してから名古屋へ行ったら、もうおじさん勤めたところは、brotherミシンがやっとるとこやったもんで南区やったんやね。南区の内田橋ちゅうとこやったんやね。ほうしたらね、もう港区からその辺はあたりもう全然家あらへんのよ。もうほとんど焼け野原で。僕が行ったの25,6年ごろに名古屋行ったらもう焼野原。もうほとんど。だからそのときに、おじさんが二十歳になった祝いのときに、教育長やな。名古屋行った時の。こっちで受けなかったもんで名古屋で受けたときに言われた教育長の言葉は、なんやったっけ。うーんとね、「食三衣五住十」。ちゅう言葉を言わした。これはどういうことかいうと、日本は負けたんやけども、こんな焼野原やけども、君たちが頑張れば、食は三年経てば食べれるようになるよと。着るものは、五年経てば必ず着る物が、着れるようになるよと。ほんで十年経てば、必ず、家が建ちますよと。一生懸命やればやな。うん。日本が負けて沈んどったって、なんにもならんから、こういうことを頭に入れて頑張れば、必ず日本は復興しますよゆって。ほしたらほんとその通りくらいに、十年経ったらぶつぶつぶつぶつと家が建ったりなんかして、復興の兆しがこの時分から表れてきたんやね。僕は幸いにして、そのbrotherミシンの下請けの会社に入ったもんで、あの当時はやっぱりミシンちゅうものはどこの家庭でもやっぱり、なけないかんものやもんで、どんどんどんどん大きくなって、うん。いいとこに就職したなとは思っとった。これが教育長の言葉やった。これよう、いまだに覚えとった。まあ、そういったおじさんの、そういうだけの経緯しか、ちょっとよう分からんな。