T.Nさん 駅から見た景色

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。