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R.Mさん 焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

T.Mさん 家の手伝い

一番は、兄弟多かったやら。やもんでお兄さんもお姉さんもおるし、お兄さん兵隊に行っとるしね。お姉さん家に?とるし。そういう関係でうちらはちょうど中間でね。帰ってくると子守りしなかんでしょ、妹弟おるもんで。そういうのに毎日疲れとったね。そういうの決まっとるんやて。大きい子がみんな仕事して、小さい子が自分の妹と弟を子守りしたりお風呂焚いたりね。昔は風呂焚かなかんもんでね。今やと電気でバーッとやっちゃうけど、ガスも電気もないもんで風呂焚かないかんでしょ。ほんで風呂水汲まないかんでしょ。昔は水道ないもんでバケツで汲んでってバーッと大きな桶に水入れて。そして下で火を焚かないかんの、夕方になると。ほんで子守りしなかんやろ。そういうのを家のお手伝いをやっとった。ずっとね。毎日。ほんでみんなでなかなか遊びに行くような暇はないもんでね。まあ夏休みやと昼に水浴びに行くくらいやね。近所の子と一緒に。五人か四人でね。毎日水浴びに行きよったね。池行ったり小さい川行ったり。その程度であと何にも遊ぶことないしね。農家やもんでヤギを飼っとってね、乳を搾っとったの、家で。夕方になるとちゃんと搾っておったもんでね。わりとええもんやったんよ。そういうのはね。

特にえらかったことはねえ。…何しとったち覚えないもんでね。子守りして風呂沸かしてね。そういうことしとっただけやね。それから蚕を飼っとるもんでね。桑が家で足らんと、太田まで買いにみえるでしょ。そういうのを手伝って車を押しに行きよった。車で買いに行ったもんでね。昔の車やもんで台車って言ってガラガラのやつでしょ。重たいでお父さんが引いていくもんで私ら後ろで着いてって、山之上登ってかないかんもんでね、押して歩いとったね。そういうお手伝いをしよったね。今のようにあんまり学校では遊ばなんだね。遊ぶとこがないし運動場とられちゃうもんでね。戦争が負けてからは結構うちらも、野球やっとったよ。新しい先生が野球好きでね、うちら山之上であのころ加茂郡やなくて美濃加茂市か、加茂郡やわね。加茂郡で優勝したことあるでね。高等二年で。優勝して県大会行ったことあるよ。そういうのもあるね。それがまた、グローブとかああいうのないもんでねたくさん。人のやつを借りて借りてやらないかんもんでね、選手の分はあるけど予備の分はないもんでね。

T.Mさん 辛かったこと

【一番戦争が激しかったとき、辛かったことはなんですか?】一番辛かったことはね、例えば薪を出すときなんかね、私らあの山之上でも南の方やもんで薪なんかほとんど作っとらんとこやら。奥の方んた上手に作っとるもんでね、なれとるの。そういう子んた上手に自分で背板ちゅうやつね。そこにだだだっと並べて、ぴっと棒で押さえてね。四つとか五つとかその子によって違うけど、大きい子が五つくらい持ってく、小さい子は三つくらい持ってくわね。ほんで向こうの子んたは慣れとるもんでね、家でやっとったもんで。上手なんやけど私らはへたくそでしょ。途中で崩れちゃうしね。結構えらいしね。担いで下りてくの。ああいうのは辛いなあと思ったし。

あとはね、岐阜の方の女の子んたたくさん来て共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。食事を。みそ汁とかね。おかずとかご飯とかなんかたくさん炊いてね、そいで一緒にやってくださってね、そういうこともやっとったんやね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。

あとはえらいっちっても農家やもんでね。特別、そういうことはないわなあ。戦争って言っても、辛かったちゅうことは食べ物なんか配給やしあかんってまさに言われるもんで、「そうやそうや」と思ってはおったけども、自分とこ百姓やもんでなんでもあるでしょ。ああいうのを食べとったでね。さつまいもの蔓ね。あれを食べよって言われてね。取って食べとったんよ。蔓を取ってきて軸を。あそこちょっと皮剥いてそれを煮てたの。ああいうのたくさんあるわね、採れてたくさんあるもんでそういうやつを食べたりね。さっき言ったように弁当でも、一日は芋ご飯で芋を持ってけとかそうやったり。昔は今の給食やけど、学校へ父兄が順にまわってね、みそ汁を出してくださった。ご飯は自分で持ってくけど、学校でみそ汁を出してくれとったんやね。大勢一緒に作って出してもらいよったけど、結構ね割とおいしい味噌汁。あったかかったしね、冬なんか。そういうこともやってもらったことあるし。いろいろよ。

T.Mさん 学校生活

ほんで学校へは、白いご飯を持っていけなんだのね。禁止されとって、麦ご飯。例えば1週間に1回か2回ね、ああいう芋ご飯を持って来いって言われたんやね。さつまいもを入れたご飯を持って来いって学校で言われてね。そういうこともあったしね。で家なんか例えば白いご飯がないときは、麦のご飯を取っといて上に被せて持ってきよったの。こうして弁当の中に。先生が見にみえるんやて。「今日は麦ご飯やでみんな麦ご飯持っとるやろ」って。持ってかんと叱られるもんで、2、3日前の麦ご飯をとってね、並べてくと分からへんでしょ。そうして行きよったね。そういうことも覚えとるけどね。けどご飯麦ご飯ばっかの時もご飯家とっとったでねたくさん。ない人もいっぱいおるけども。

それから疎開って言ってね、名古屋とか岐阜とかの方から来とったの。ほんで私たち一クラスで50人、45人くらいか。ほんで疎開した子が来ると60人くらいになったね。15、6人来よったもんね。それで一クラスやったんやね。今やったら半分にしなかんけど、60人もおったら。あのころはそのくらい大勢おったの。それと学校がね、兵隊さんが校舎を半分以上とっちゃって、山之上はね。私山之上やもんでね。山之上ちゅうとこはね、機関砲という鉄砲撃つやつなんかがね、ぱんぱんぱんってやってね、今でも覚えとるけどね、よし今1,2,3,4,5…って言ってね、撃つまねごとしてみえるんやけど全然撃たせえへんけど、撃つまねしてね。大勢兵隊さんおってね。やっとったんですけど。そういう機関砲の部隊がおったんやね。そこで学校とられちゃうもんで、最後の終戦の年など勉強できんようになっちゃうもんでね。近くのお宮さんとかお寺さん借りてね、交替であちこち勉強に行きよったんやよ。今日はこちらで勉強するとか今日はお宮でするとか言って。クラスによって、全部同じ教室でできんもんで。そしてその日に順で変わってやったことあるね。そういうふうに。それから、本がないの。最後は本がないもんでね。謄写版で刷ったやつをね、先生が刷っとったんやと思うけどね、知らんけども。刷ったやつを貰ったんやよ。そういうのを貰って勉強のあれにしとったの、本の代わりに。ほんと薄っぺらいやつやね。本がないもんでそういうやつを順に習っとるときに作ってもらって、それを見て勉強しとったんやね。

それから終戦のちょっと前まで、農家のうちの兵隊さんに行ってみえてお父さんみえんうちで仕事が出来んとこへお手伝いに行きよったの。みなさんで学校で。お手伝いに行って、例えばさつまいもを植えたりね、草取りしたりね。そういうお手伝いをしとったね。そういうのやったしね、まあいろいろやったよ。山で木を切ってね、薪をずっとこんなんして束にして山から担いで降りてね、道路まで出すの。そっからトラックかしらんで持って帰るけど。そこまで出せんもんで出す人がおらんもんでね。男の人が少ないもんで。男性はその仕事やられる。土曜とか日曜はそういうふうに出よっちってね。みんなで一緒に出てって薪をたくさん持ってきて、積みよったね外へ。そういうことやったりね。今思うと考えられんね。

それから他所から疎開してきてみえるでしょ。その他所の知らん子がいっぱい来とったね。まあそういう子とは今全然お付き合いしとらんもんで分からへんもんでね。もう帰ってっちゃったもんで。

【疎開してきた子のことは、どう感じていましたか?】別に嫌だとは思っとらんかったよ、うちらは。仲良うやっとったよ。ほとんど親戚の人たちと一緒にそういう人が見えるもんで。例えばうちのお姉さんが他所へ嫁にして、その子どもさんが疎開してくるやら。やもんでここのお姉さんの子といっしょやもんで、いとこやもんでね。そういう子が泊まり込みでおったもんでね。仲は良かったよ。名古屋とか岐阜で来るとね、他所の子ばっかな気がしてみんなひがみよったけど。そうでもなかったそう変わらへんかったよ。他所から来るとなんかいい子ばっかな気がする、そうやないもんで変わらへんでね。同じ子どもやもんで、一緒に勉強したけどね。

T.Mさん 戦時中の生活

私はね、戦争中は小学校の3年4年5年…そのころやね。6年までかな。そのころまで、ずーっと戦争やっとったね。終戦の時に今の中学1年生やったね、8月に。ほんやもんで小学校の時の体験っていうとね、どういうことがあるやら、生活か学校か。例えば生活、家やと、私は百姓の生まれやもんでね。農家やもんでね、お父さんお母さんが農家やったもんでね。食べるもんは米作っとるでしょ。別に全然、供出はするけど百姓沢山やっとるもんで食べ物はそんな苦にならなかったのね。制限受けなんだの。食べ物は良かったけど、例えば学校行くとなると、服とかズボンとかそういうのは無いわけやら。それと履くもんがないもんでね、もう3年生4年生ごろから草履を作って履いたんよ。自分で草履を作ってね。おじいさんおばあさんに教えてもらってね。藁を綯って縄みたいに綯って。両方でつないで。前でこうやって足に掛けといてね。学校へずーっとはいてったんやよ。履くもんないもんでね。買うもんないし履くもんないもんで。そういうことをやっておったのね。ほんとそれ終戦ちょっと前1、2年くらいかな。そういうことずっとやっとったでしょ。みんなそうやわね。全員が学校行く人みんなないもんでね。服なんかないでしょ。昔はお蚕があって桑の木があったね。桑の木の棒を切ったやつを皮をむいて、それを供出で出しよったの。それで服を作ってもらうの。幸い家はお蚕を飼っとったもんでね、おばあさんが織物をちゃんと織ってね、それで服作ってもらった家で。そういう覚えがあるね。ほやけど、そんな桑の木なんか出して作った服は、全部クラスへ来てね、抽選やの。抽選でしか買えんもんでね。1年に1着2着やと抽選やもんでね。なかなか当たらへんの。みんなが。当たらへんもんでなかなか貰えなんだ。そういう覚えがあるね。

それと例えば、仕事がね、みんなああいう子ども達がおってね、食べるもんが少ないもんで、大豆を道路の両端に穴掘って蒔いて、そんでそれを収穫して上で出しよったんやよ。教室っちゅうかね。みんなで作って出しよったの。普通の道路あるでしょ。あのころは舗装してないもんでね、じゃりじゃりの道ばっかやもんで、その1番端の草生えるとこね。あそこんとこに穴掘ってね、豆をかすかにつまいて、それに燃やいた灰ともみ殻両方混ぜたやつを、上へぱっぱっと肥代わりに、生えてきてそれで大きくなれるようにやってね、ほんでみんなで収穫して学校へ出しとったんやよ。そういうことやっとったんやね、子どもでも。

T.Kさん 辛かったこと

【戦時中辛かったことは何ですか?】辛かったことはね、毎日それこそご飯なんかなかったもんで、大豆のね、配給ってのがあったもんで大豆のご飯。大豆のご飯とかさつまいものご飯とか。ご飯って言ったってお雑炊やわね。そういうのを、戦時中は食べとったの。じゃがいも入れてね。ほんと米はどこにあるか分からんくらいの、そういう食べ物やったんやて。お米の配給制度になって、赤ちゃんから2歳まで、5歳から7歳までって、4段階に仕切って、一日のお米のいただける量が決まってたんやわ。で私たちは、そのとき終戦後に役場に入ったのね。役場に入って、その配給係っちゅうのをやってたんやて。そのときにやっぱしそういうお米とか赤ちゃんにはミルクの配給とかね。そういう配給制度が、終戦後あったわけ。お米も15日分くらいやったね、ひと月にお米が来る日は。あとは、それこそ大豆とかさつまいもとかじゃがいもとか入れてご飯食べるちゅうだけで、お米は15日分しか配給がなかったんよ。

【配給は、終戦前はなかったんですか?】いつごろからやったやろうねえ。私が終戦後、役場入ってから配給の係になったもんで、あれやろ。その前からもあったんやろうねえ。今月は、10日分しか米の配給がないよって言っとったことがあるでね。10日から、今月は15日分お米の配給があるよって。あとは自分たちでね、補って。まだずっと田舎の方へ持ってって、着るものと、お百姓さんのとこ行って、お米とかそういうのと交換してもらってきてね、食べとったんやて。

T.Kさん 親戚が疎開に

【金山には、疎開してきた子どもたちはいましたか?】金山は疎開はなしでね、他からね。私んとこの実家なんか2世帯。東京から私んとこのうちにね、住んでたわ。みんなどこの家もそういうふうにして、自分とこの親戚の人が疎開してきてみえたんよ。うん。ちょっと私たちのすぐ隣村なんかお寺へ、名古屋から学生がね、3年生以上の人がお寺へ学徒の疎開でお寺さんへ来てみえたんやけども。私たちのお寺さんは、兵隊さんがそこで寝泊まりしてやってみえたもんで、子どものあれやなかったんやけどもね。(親戚は)若い衆は東京に残して、おじいさんおばあさんを私んとこのうちの方にね、預けに来てみえたんです。

T.Kさん おしゃれよりも

【当時はどんな服装でしたか?】服装は、それこそもんぺって言ったね。もんぺ姿やったね。おしゃれしたいっていう気持ちは無かったね。終戦まで、私たちの年齢の人はお嫁に行くときにもんぺ姿でお嫁に行きなさった人いくらでもいたよ。

「勝つまでは欲しがりません。」って言ってね。「勝つまでは欲しがりません」っていう、いつもそういうことを言われとったね。で何にも、欲しいったってものがあらへんで。欲しいものが、食べる物がないでしょ。で「勝つまでは欲しがりません」って言っとったけども。食べる物もなかったからね。

T.Kさん お百度参りと千人針

各家庭にはね、戦闘機が爆弾落とすって言って、蔵も全部黒く塗っちゃって。分からないように塗っちゃったの、黒く。ほんで家にある金物。火鉢とかね、お寺の鐘つき堂の鐘ね。あれとかみんなその時分は供出しんなかったの。あるものをみんな出してくれって言って、お寺の鐘から、自分とこの家やったら、金の火鉢やとかね、そういうものあったもんで、全部出しちゃって。金物何にもないように。なんか軍の方へ出しちゃったんです。戦時中その女学校行っとる時に、お百度参りってね、戦争に行かれる人の、祈願を祈るために、百回お百度参りって言って、裸足で奥之院まで行って、石を投げて戻ってくる。それを婦人会の人が、「今夜、お百度参りやでお願いしますね」って言って、そうやってみえるとついて行って、そのお百度参りを戦時中ね、兵隊さんが無事に帰ってこれるようにっていって、お百度参りをしたわけ。あと、千人針っていってね、こういう筆のね、あそこにたんたんたんっと赤い穴開けて、赤の糸でこぶ作って、こういうのにね、千。千作るわけ。ほんで寅年の人は、寅の数だけ千人針作れるの。普通の人は一個だけしか作れんけども、寅年は寅の数だけやもんで、「あ、あそこの家には寅年の人がみえたであそこ行こうかね」って、そういうとこ行って訪ねて、この千人針を作ってね、届けたわけ。皆若い人は特攻隊って言ってね、私の主人もそうやけども、まだ二十歳にならんうちに、特攻隊へ志願してね、予科練へ。行ったわけなんです。

S.Wさん 奥さんのお話

私んたも家におるときは戦時中やったよ。ちょうど卒業する時にはあれやったもんで。さつまいもを学校、勉強そのものやないもんでね、もう薪背負いから、さつまいも作って主食で食べてね、そういう生活をしてきとったんや。ほんでお嫁入りしてもらうときには、お米が配給で。私の在所はお百姓が沢山やったもんで、そのお米を物々交換して塩を貰ったりお砂糖貰ったりして、物々交換して食べとった。そうやけど配給でしょ。お米もこのくらいしかもらえへんし、ほんで麦こんくらい入れてお米こんくらい入れてご飯炊いとった。ほんでこういう夏の暑い日は腐っちゃってね。そんなような生活してきたもんで、まあ戦争終わってからでも苦しい目にあって来とるでねみんな。なかなか自由なあれがなかったよ。配給やったね。ほんとにお米がないのが残念ね。そういうことになると。まあ辛い思いしたなって思う。