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N.Iさん 今思うと怖いけど

【学校に防空壕掘ったのは、中学校の時でしたっけ】中学校行ったときに、まず一年生は防空壕掘りをやらせられた。自分たで。私たちの学校はできたばっかりの私たち3年目の生徒でしたもんで。自分たの防空壕は自分たで掘るんやて。まあそんな大したことやねえ。ただ前から見て、見えな結構やったで。そんくらいのあれでした。直接目の前で爆弾が落ちて見えたとか、そういう体験をやっぱり田舎ですもんでね。同じ今の美濃加茂市でも太田の方はそうやなかったかと思います。そういう体験できた方はいらっしゃらんかもしれんけど。太田だけやったと思います。結局中心やで。ここんとこの人たちはね、ずーっと工業地帯ですから、この近辺では太田だけやったと思います。

言えることは、早う兵隊さんになって戦地へ行って、米軍と戦いたいということはちっとも怖いことやねえ。そういう教育をされとったんやね。で、兵隊に行きゃ死ぬこと当たり前のようなことで。死んだ人のことを軍神、戦の神様なんて言い方しとったでね。亡くなった人の葬式は、村中で。小学校で葬式あって。その後に個人個人の仏式の葬式。そういう教育ちゅうのは非常に怖いなあと。ちょうど今、憲法改正とかいろいろありますけども、やっぱり死ぬということが当たり前だという。戦争に行けんような奴は国賊やて。というような言い方された。例えば一定年齢になると兵隊検査ゆうやつがあったんやね。そしてそれに受かるのは甲種合格と乙種合格。甲種合格は立派な人や。戦争に行っちゃった。軍隊入れるのは乙種合格までという。乙種合格になったら皆にバカにされちゃうぐらいですから言わへんわね。そういうようなものの考え方が徹底されてた。そういうようなことを今思うと怖かった。でもちっとも怖いことやなかった。当たり前で。そういう徹底した軍事教育がなされたということやろうか。【その教育を何も疑問には思わなかった?】うん。そういう教育が全然なされてないから、行くのが当たり前で。そういう教育しかなかったんやね。

M.Iさん 物々交換

【お米10日分というのは、家族分ですか?】そうです。一人当たり、そういうふうに分けていく。配給としては、一人が10日分しかない。まあその時の需要によっていろいろものは変わるけんどね。川辺の畑があるところでも、百姓の子んたはみんな学校の弁当に、さつまいもを持って来とった。家んとこでお米があっても。お米があるとこは、名古屋に。名古屋に買い出しにみえるもんで、お金なんていつまでも続かへんもんで、着物やなんか持って、物々交換。着物とお米と換えるとか、かぼちゃと換えてくとか。

M.Iさん 避難後の生活

ほれから今度は、春日井市へ。春日井市の勝川町へ行って、そちらの町営の住宅に住むようになった。そこで8月15日の、終戦を迎えた。だから、終戦を迎えたのは、結局3年生の時なんやね。3年生の時にそこで終戦。今度そこ行くと、春日井市やと焚きもんがないもんで。今度は自分たが生活に焚きもんがいるもんで。常光寺。勝川から入ってたら常光寺あるわね。そこへ、大きい袋を持って松ぼっくりを拾いに行った。それが焚きもんなんやけども。で松ぼっくり一升あると、お米が一升炊けると。ていうのは、松ぼっくりは中に種が入っとるころにだから、火力が強いんや。火力が強いもんでそのくらい。一升あれば、ご飯が一升炊ける。子どもながらに、拾いに。でお百姓さんのとこなんか焚きもんもあらへんもんで。お百姓さんのひとは、桑の木の枝とか小麦作っとる、その殻。そういうのを燃やして、焚きもんをしていたんや。勝川の近所でね。昔は米穀通帳ちゅう、米の配給を受ける。米穀通帳を持ってって配給を受けるんやけども。1か月のうちで、お米は10日。…(沈黙)……で、さつまいものかす。あれとかね。で、小麦を10日分。そういうふうに分けていった。そんで、芋乾燥したやつをご飯に混ぜて食べたのね。ご飯の中入れて炊くと、ご飯は黒いご飯やったね。芋で黒くなっちゃうの。そういう生活をしたんやね。生活をしたのが、23年までしたんかな。その間食べるもんもないから、いろいろ昔は田んぼで蓮華やなんか作っとったわね。蓮華は採ってきて、お浸しにしたんや。で食べたり。今のこういう道にも食べれる草が。そういうのを採って来て食べたり。23年に、おじいさんが川辺やったもんで田んぼや畑が残っとる。でそれからの食事をあれしながら、川辺に越してきた。そういう体験をしてきた。

T.Nさん 戦後の食事

【戦後特に大変だったことはなんですか?】(戦後の大変だったことは、結局食糧がないもんで、他所の畑から失敬してきて)芋づるの、葉っぱを取ってって、食べたり、みそ汁ん中入れて食べたり。うどん粉を練ってみそ汁ん中入れて、団子汁とかってそういうのを食べたり。(代用食やね。お米もないもんで、なんでも粉のものは全部集めてきて、練って、団子にしとった。芋でも、澱粉工場ってあったんやな。そこでなんか澱粉、ジャガイモの澱粉やない、芋の澱粉をもらってきて、それこそ粉にしたり、それを食料にしてやっとったし、ほれから、私が一番いつも言うのは、山に生えとるこのクサギちゅうのが、あるんやね。こんな大きな葉っぱの。あれを、いつもその団子の汁とかなんかの、あのお米のすこーし入ったとこへ、どっさり入れて。食べるんやね。あれが嫌で嫌で。芋づる食べとるよりも嫌やったの。でもあれ、昨日かしらんテレビでやっとったけど、結構いいらしいんやね。栄養があって。いいんやけども、そのころはもう嫌で嫌で仕方なかった。うん。味が。)

まあ戦地のことは分からんな。どんなふうやったか。学童疎開もないし、戦中、戦後の生活…。まあ辛かったのは、やっぱり勉強ができなかったということと、お百姓さんの手伝いとか、桑の木の皮むきとか、どんぐり拾いとか、竹槍持って人形をつついたりして。そんな練習ばっか。だからおじさん今82歳やけども、こんな丈夫いんや。【そういうことは、お母さんたちは、やってない?】(やってない、うん。まだそれこそ、どんぐり拾いが精一杯やったころ。)

T.Nさん 駅から見た景色

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。

T.Nさん 隣組

その時分は町内ではね、今「絆」っていうけど昔はね、一軒一軒にどこの家もこの防火用水を作らないかんかった。ドラム缶とか、水桶とか。で、もし焼夷弾が落ちたら、これを皆さんが、バケツも用意してあるもんで手渡しで、その町内の落ちたとこへ、消さないかんちゅうことで、各家庭でこういう防火用水ちゅうやつを必ず作らないかなんだ。そのときに、「向こう三軒両隣」ちゅうのを、昔はよく言ってたの。それと同時に、「とんとんとんからりと隣組廻してちょうだい回覧板教えられたり教えたり」って言って、いろんな、戦争の避難とかやるのを、町内ごとにこうやって連絡しあって、待機しとったんやね。で、いざ、このへんでも空襲警報で敵機が来るようやったら、皆さんと一緒に逃げて、団結して、戦おうっちゅうような気持ちでやっとった。こうやって、お互いに助け合おうちゅう気持ちで頑張っとったんやね。