そんなことやけども、よう聞きに来てくれた。ありがたいわ。聞きに来てくれやあ。おじいちゃんは家に孫がおらんで。嫁さんがないで。おじいが死んだらそれきり。うん。子どもが古井の川合の3丁目に行っとるもんやで、世話になって今生きとるだけ。まあ死んだかもしれんで。うん。ありがとう。
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K.Oさん 国を守る
この負けたときには、前の天皇陛下がね、「朕はどうあろうとも、無辜の国民をこれ以上死なすことできん」と言わしたで。それは広島に新型爆弾落といたやら長崎の事やら、いっぺんに何十万と死んでまっとるや。何にもせん人が。兵隊なら別やよ。で無辜の国民ちゃあ、何にもせん人やら。そういうことを考えてみると、やけどもそれやったら天皇陛下のために死んでまうことやったけども、天皇陛下はそんなことやない。考えたら。まあ?あん時の日本の大将、東条英機かだれか戦争は?っていっとって、はじまらなんだ。天皇陛下が?したで受けたの。そういうことをテレビでやっとらした。昨日NHKのドキュメンタリーとかで。毎晩やっとるわ。8時からか、おじいちゃん10時くらいまで見とるで。そういう事を考えるとありがたい天皇陛下で。日本の国民全部が一致団結して、日本を守っていくちゅうこと。手前勝手なこと言わんように。おじいちゃんはその気持ちは、絶対今でも変わらせん。戦争中やろうと。平和やちゅうことは、戦争があって初めて平和や。うん。そういうことを聞きに来てくれるでありがたい、おじいちゃん話いてやれるで。今の子どもにそれを伝えると思う子どももおらん。ほんでもなんで嫌いやちゅうことや。嫌いやない、大事なことやぞって。おじいちゃんはそう思う。そうやったこうやったって。
K.Oさん 忠君愛国
【戦時中に体験されたこと、気持ちなどは?】戦争の時分の気持ちは、なんにも他ごとないで「忠君愛国」って言って。君に忠義、国を愛する。それに尽きる。昔の日本人はな。ほんで唄でも、「海行かば、水漬く屍山行かば、草生す屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ」という唄を歌って行きよった。それを誰が作らしたということはおじいは知らんけども。そういうことを若いもんに教え込んでしまって、戦争をやったの。で覚えるね唄でも。「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯といでたつ我は」ちゅう。それは大昔、朝鮮から攻めてくる、九州へ。あそこ行って防ぐ兵隊に、、防人や。そういうふうに、唄あった。それは天皇陛下のためということを伝えることばっかで。日本中がそういう気持ちになってまっとったんや。ちょっとも苦にせやならんだ。わしんとこ兵隊で行っても、死ぬものだとしとった。わしは行かなんだけどもな。行けなんだで今残っちょる。今でもこんなえらがっとるちゅうことは、若いときからそういうふうで。えらかった。そんやもんで行けなんだ。
A.Nさん 祈りを込めて
(これは貴重な写真やね。)これはね、ここの市長に最初見せたら、どうもちょっとグッと来たらしいもんで、ほんだもんで?神社へこれを見て初めて行ったらしいです。ほんで、神社へ毎年、今年も来てくれるかということでそれはどうや知らんけどね。これも、1番大事なたからやわね。
で、ここに日章旗があるでしょ。これはね、みんな寄せ書きって言ってね、おたくらでも卒業するときにいろんな友達やいろんな名前書いて進学頑張れよとかいう事を書く。ほれがね、近所の方あるいは親戚、そうした方名前が全部刻まれてね。頑張って行けよとかそういう激励の旗なんです。それから千人針って言って刺繍でね、敵に撃ち勝って来いというそういうのがあるといいんやけどな。ほんとはようわかる。(それぞれの祈りを込めて。)そういうことも、昔は風呂屋さんにたくさんあったわねそういうの。今みたいに個人の風呂はほとんどあらへん。ええとこの人しかあらへんなんだもんで、田舎は別として。うちらの方はお風呂屋さんでね、昔風呂五銭か十銭かしらんで風呂へ入らしてもらって、ほんでそこにそういう寄せ書きするとこがあったもんで。(千人針というのはね、ちょうどこれくらいの丸が千個打ってあって、その丸のとこへ針に糸を通して出して。これに糸をくるくるっと巻いてまたすると、こういうまるん中に糸がこんなんなったのができるわけよ。ほんでそれを例えばあなたにお願いするというと、じゃあこの出征する丹羽さんのお父さんが元気で働いてくださるように、という願いを込めてすると。そういう祈りを込めて千人の人がこういうのをしたと。それを丹羽さんのお父さんが体に巻いて行った。みんなが祈りを込めて。)そうそう。まあそれは、実物を見ると一番ええんやけどね。(まあないわねえ。)実物は岐阜の神社にあったかなかったかそれはしらんけどね。(例えば丹羽さんのうちに置いておれば残っとればあれやけども、お父さんが巻いて戦地へ持ってってまったから)体に巻いてね。(で向こうで死んでしまえば)それでしまいやわね。そういった、祈りを込めたちゅう。今は死にに、会社でも海外出張やなんかはそんなことしいへんしね。意味が全然違うでね。そういう点はね、昔の人は偉いもんやったと思ってね。そういうことで助け合ったということやね。ただ、死んでくるじゃないぞと。いう願いを込めて。
A.Nさん 日本が勝つと思っていた
【当時は、日本が戦争に勝つと思っていましたか?】そうそうそう。そうやなけりゃそりゃ、父親たち出征してけへなんだでね。そらそういうつもりで誰もいけやへんでね。やっぱり何とかして勝利して、やっぱり「祖国の為」ということと、家族のためやわね。そういう気持ちで、出征して行ったと思いますよ。それはもう、まぎれもないことやと思います。(先週、つっちゃん来たときさ、うちのおふくろ役場におったやな。でも悲しい顔も何にもしなんだと。「そうか」ちゅうの。)そうやね、もう覚悟決めてらしたんやな。うちは亡くなった祐泉寺のおっさま。あの人が通知をもって来らしたの。ほんで話はまるきり別になるけど、元町の提灯屋さん。あそこは3人亡くなっちゃったんやでね。ひとりは戦艦大和で亡くなって。であとふたりは、中国かどっかしらんで亡くなってね。ほいで祐泉寺のおっさまござるとまあほんっとひやっとしよったで。みんなその亡くなったちゅう知らせばっかを。一軒でね、兄弟が沢山あるとこは3人くらい亡くなってみえる人がおる。まあ戦艦大和で亡くなってみえるで頭のええ人やわな。普通じゃ乗れへんでね。案外戦艦大和、蜂屋にも一人おらっせるでね。亡くなってみえる人が。
A.Nさん 沖縄戦について
あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。
だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。
A.Nさん 追悼
結局、1番最初に言ったように赤紙一枚。ようするにはがき一枚でね、あんたはここへ、戦争へ行ってきなさいと、国で指令をしてくれたわけやでね。それで行って、戦いで敗れて戦死したわけですけどね。今、国で追悼式とか、市でも今度10月2日に追悼式が。市もやってくれるんです。ほれから県は、あの岐阜で10月の23日やったかな。それもやってくださる。ほいで国では、8月15日。もうじききますけど、私も行ってくるんですけど東京の武道館でね、追悼式をやってくれるんです。言ってみれば、我々は当たり前の事やと思っとるわけですけれど、まあそれに対していろいろな反対派もあるわけですけれど。出発するときの誓いとしてはね、やはり「俺たちは、靖国神社で会おう」ということで。亡くなったら靖国神社でという気持ちで出征していったわけです。その靖国神社は、今は総理もいろいろな反対があって、内外の反対もあって行ってはいけないということでね、我々遺族では、とにかくそんなこと言わずにとにかく、総理が国の代表としてひとつ、行って参ってくれるのが本当じゃないかということでお願いしとるけど、なかなか内外の反対でよう行かれないということは、非常に我々は残念ですけどそれで、日本武道館で、別のとこで追悼式をやるというかたちを今は取っておるんです。
まあだいたい、大体って言ってもそりゃまあ話しよるといろんなことが浮かんでくるもんでね。さっき言った、空襲で逃げ回ったこと、防空壕でもとにかく空襲警報が鳴るとすぐ防空壕へ入るのがひとつの鉄則でしたもんでね。途中で食べ物ないと、桑いちごを食べたりね。桑いちごっていって、桑にいちごがね、小さないちごができるんです。(今は桑があらへんわ。)ああ、桑があらへんか。あれも食べた覚えがあります。あんなもん食べれたもんやないですよ。(食べるもん何にもないでな。)何にもなかったんやでね。芋っちゃあ蔓まで食っちゃうんやでね。ほれから、甲羅キビって。(あのころはキュウリが食べもんやったね。)ほんとやて。キュウリとかそういうもんはね。比較的すぐ成りよるもんでね。
R.Mさん 当時と今、どちらが豊かなのか
家んとこは百姓やないもんで、昔の人んたは子どもはみんな袴に着物やったでしょ。大人ももちろんやけど。ほんでそういうものがあって、そういうのでズボン作ったり、おばあさんのコートやなんかで学生服作ってもらって、修学旅行に行ったりなんかした。うん。まあ、ほとんどズボン作ってもらった。袴で。…でも今思うと、あの時代の方が何にもものがないもんで良かったかもしれん。今は何でもあるもんで、お金さえありゃなんでも買えるもんね。あの時分小遣いもらっても買えなんだもん。貰っても買いに行くとこなくて。
T.Mさん 戦争について
【「日本は駄目かもしれん」というのは、周りの人も同じことを言っていましたか?】戦争のこと?そうやね、そりゃ戦争はやっぱりやったあかんよね。みんなが犠牲になるでね。みんなが犠牲になって、みんな不幸になるで。もう日本は70年来戦争はやらんってきとるで、やってもらわん方がいいて思っとるわね、私らも。それが割と反対する人が少ないでしょ。どっちでもええ人がいっぱいおらへん?そんなような気がするね。私ら見とると。まあそりゃ年やもんで、あんまり前出てかへんでね。言わんけど、もっと若かったらね、また「反対」って言って、なんか叫んでやりたいような気がするけど、ね。不幸の人いっぱいおるでね戦争では。
S.Wさん 今思うこと
こういう大東亜戦争で犠牲になったものの気持ちをもうちょっと察してくれな敵わんな。大事な青春時代を、国の為の国策やなんか。そんなふうにして酷い目に遭わされてよ。1か月の日当が、義勇隊のうちは3円や。1か月3円やよ。1年経って36円や。そんな報酬でさ。軍事訓練が多かったとは言いながら、畑はいくらでもはえとれちゅうんやで、あっちの土地はよう肥とって無肥料でなんでも採れるやっちゃで。だいぶ野菜も穀物も、採りよったんやね。生産しよった。そういうやつの金がだいぶ入っとってもいいような気がしたんやけども、微々たるもんやった。
自分体験したことがええことならええけれども。惨めな中国人をあんな目に遭わせちゃってよ。どうせ殺すんやったらそのまま釈放したればよかった、生かして。というようなそういう憤慨するっちゅうか、まあ心が収まりつかんで。そういう経験しとると。(だから日本人もそうやって痛めてきたんやね。あの返しが来ると思うんよ。ほうやけどそん時の思いはどうにもならなんだっていうでね。やらんならんかったもんで。大変やったらしいよ。)死体を焼くときでも、みんな「ええにおいがする、ええにおいがする」って言いよったけども、俺はちょっともええにおいせん。そういうのに携わっとらんものはなんやろなんやろって知らずにおる。(こんなことしてええんかしらと思ったってね。そういう話はようくしたけれど聞いたけど。15歳から行って青春時代は何にもないもんで。)そういうことで、安全保障制度はええかげんにして、日本を今迄通り平和にしてほしいちゅうことは、思うね。一番、そういうことは強く思う。
この開拓の政策でもそうやけども、なんやかんや言っとる上の。昔は特に軍閥主義やったであれやけども、一部の者に引っぱられてまったっていうこと。でこんな大きな戦争になっちゃったやね。勝ちゃええけど負けてまった。(負けた悔しさは何ともいえんわね。もう勝つばっかと思ってね。みんな一生懸命に満州広げようと思って、一生懸命やったんやて。そういう気持ちはわかるよ。ほんとに。そうやけども情けないことにね。日本は負けてまってということやで。まあ仕方がないことやで。それこそ知らん人はこんなん嘘かしらと思うようなことやね。ほんとにね、悲しかったと思うよ。)ほんで義勇隊生活ちゅうやつは、あの苦しい中も楽しいことがたいへんあったもんやで。気の弱い、トンコン(屯墾)病ちゅうやつにね、トンコン病ちゅうやつはご存じないかもしれんが、家に帰りとうてしょうがない病気なんやわ。そうそうホームシック。そういう病気になって帰った者も大勢おるんやね。