戦争・平和への想い」タグアーカイブ

S.Wさん 言われるままにやったこと

25日くらい経った8月の、ソ連が開戦したのが9日やったで、8月の7日の日やなかったかな。今度また「体に自信のあるもの、前へ出よ。」って。どっちみちあれやで、死ぬ覚悟でここまで出て来とるやっちゃでええわって。やっぱり一番に飛び出て行った。ほうしよったら、そう大勢ではなかったが、200人くらいの内で20人。ざっとやで30人はおらなんだで、出た。ほんで出たばっかに非道い目にあったとあのときは思ったけれども、これもまあ若いでできたことやけども、辛抱してやったが1週間という間は、後で話すけれども全然寝とらん。寝て歩いた。ほんで酸素ボンベにぶつかった。耳がここが切れて。ほんでも何も手当てしとるわけでもない。なんかここに塗り薬もらって塗ったくらいで、知らんうちに治っちゃったけども。その1週間寝ずにやったことは何かちゅうと、さっきのちょろっと言いかけとった中国の捕虜、300人ざっと300人やで、多いか少ないかはわからん。一兵卒やもんやで、そういうことはぜんぜん関知せんし知るわけもなかったんやね。だから言われるままにやってきたこと。最初の前の日は、捕虜がおるちゅう場面は見て、ずーっと廻って行って。ほんで次の朝早よう起きたら、今のみんな倒れとるんや。「あれ、どういうことやろう」と。言いよったらそのうちにだんだん風の便りか。軍属が集まって、毒殺したっていうんやね。ガス。ガスや。ほんですでにそれ以前にかなりそういう研究が進んどって戦争に負けなんだら私んたもゆくゆくはその仕事をやらんなん。まあそいつはそんなけで終えとくが。それをどうするか。7回8回…9回やったかな。個室やったね。みんな、一つの部屋に1人ずつその捕虜が入って。ほんで、7回までの間で1回2回は、捕虜が入っとらなんだ。みんなそれを、外に投げ出すんやね。窓から。そんなこと、まあご飯が出ても食べれんわ、むごいやら、胸が詰まってまって、ご飯も食べれなんだ。涙流しながら。まんだ、全部死んどりゃええけども、中には目をキョロッキョロッと動かしたり、腕を動かしたり、生きとる者もおる。それもそのまんま放り出しとる。それが2日かかったかな。後は、誰がやったか知らんが、ドラム缶にガソリンが運び込まれて、ガソリンで焼いてまったんやね。ほんでその後殺した死体を焼いとる間に、今度捕虜の収容しとった建物、これ鉄筋コンクリート建ての頑丈な建物で、全部窓は鉄格子で。今のサッシの格子。あれとおんなじ幅くらいで太さが1センチくらいの鉄の棒やね。それでできとる。それを取り外せんなん。そんな取り外しができるような道具もあらせんみんな、酸素ボンベで焼切らんことには取り外せん。おっそろしい仕事で、今度は自分の命が危ない。そいつをみんなで声掛け合って、壊して。その壊したやつをトラックで、ハルピンに、中国語で名前スンダリやなかったかな。松花江ちゅうどえらい大きな河があるんやね。その川岸でほかるやつならええが、舟で今度持ってって中に橋が架けたって、その橋を歩かないかんかった。ほうやって持ってって真ん中の方で沈めるんや。そいつ終わったら今度は、死体がまんだぬれたようなやつもあったけども、肉が付いたような感じやった。それをカマスに詰めて。これはもう真ん中。スンダリのど真ん中に持ってって、捨てる。そんなけが4日ほどかかったかな。その間、昼間は当然、漏れて悪いことやないで働かなんだけれども、屋根下に入って暑い中で日陰に入って、昼寝もできなんだね。いつ何やあるやわからへんで。ほうやって、1週間。まる1週間やったで、そんなやつが4日ほどかかって、あとの3日、そんなけが、戦争に行っとっても殺し合いはあったやろうけども、殺し合い以上に悲惨やと思ったね。

N.Iさん 今思うと怖いけど

【学校に防空壕掘ったのは、中学校の時でしたっけ】中学校行ったときに、まず一年生は防空壕掘りをやらせられた。自分たで。私たちの学校はできたばっかりの私たち3年目の生徒でしたもんで。自分たの防空壕は自分たで掘るんやて。まあそんな大したことやねえ。ただ前から見て、見えな結構やったで。そんくらいのあれでした。直接目の前で爆弾が落ちて見えたとか、そういう体験をやっぱり田舎ですもんでね。同じ今の美濃加茂市でも太田の方はそうやなかったかと思います。そういう体験できた方はいらっしゃらんかもしれんけど。太田だけやったと思います。結局中心やで。ここんとこの人たちはね、ずーっと工業地帯ですから、この近辺では太田だけやったと思います。

言えることは、早う兵隊さんになって戦地へ行って、米軍と戦いたいということはちっとも怖いことやねえ。そういう教育をされとったんやね。で、兵隊に行きゃ死ぬこと当たり前のようなことで。死んだ人のことを軍神、戦の神様なんて言い方しとったでね。亡くなった人の葬式は、村中で。小学校で葬式あって。その後に個人個人の仏式の葬式。そういう教育ちゅうのは非常に怖いなあと。ちょうど今、憲法改正とかいろいろありますけども、やっぱり死ぬということが当たり前だという。戦争に行けんような奴は国賊やて。というような言い方された。例えば一定年齢になると兵隊検査ゆうやつがあったんやね。そしてそれに受かるのは甲種合格と乙種合格。甲種合格は立派な人や。戦争に行っちゃった。軍隊入れるのは乙種合格までという。乙種合格になったら皆にバカにされちゃうぐらいですから言わへんわね。そういうようなものの考え方が徹底されてた。そういうようなことを今思うと怖かった。でもちっとも怖いことやなかった。当たり前で。そういう徹底した軍事教育がなされたということやろうか。【その教育を何も疑問には思わなかった?】うん。そういう教育が全然なされてないから、行くのが当たり前で。そういう教育しかなかったんやね。

M.Iさん 今が一番平和

戦争には行ってないけど、そういう体験。来年から手形信号を、ものすごく絞られて習わないかんと思っとったら、終戦やったんや。海軍やなんか使うでしょ。あれ。それは4年生やなしに、名古屋におるときに。だから、20年の3月に、同じ年に勝川で終戦を聞いたんやね。戦争に行った人は戦争に行った人で。全然体験は違う。

まあ、今が一番平和やでいいわね。

M.Iさん その時を思うと

とにかく炎の中の逃げるちゅうやつは、すごかったね。今国会でもって、自衛隊が戦地行くちゅうの言ってるけども、おそらく自衛隊の人んたも、自分の奥さんや子どもを残して行って、戦争がどうなるや分からんもんで、ちょっとやめようとしとる人がおるね。自衛隊を。自分の家庭ちゅうことを考えて。おじさんは、そういう体験をしてきた。そういう体験をしとるもんでね、今苦しいちゅうやつは、あんまり苦にならない。その時のことを思うと。うん。ものすごく、今平和。ね。今一番いいとき。今戦争しようとすると、戦争で体験あった人は、「なんでこんなに平和で、いいのにそんな」ちゅうね。そういう体験をしてきた。

T.Nさん 日本は強いと思っていた

【周りの人もみんな、戦争に勝つと思っていたんでしょうか?】もうおそらくそうやと思ったよ。うん。大本営発表でもその時分は、まだサイパンが落ちん前は、あんまり「負けとる負けとる負けとる」ちゅう発表が出来んもんで。わが日本軍はどこどこを占領したやなくて、戦っておるとか。そんなような言い方だけで、あそこを占領した、ここを占領したちゅうことは、言ってなかったね。激戦、戦っておる。優勢に戦っておるとか、いうような言葉で話をしとったんやけども、サイパンとか、ニューギニア、ガダルカナルとかが、やられて負けたというようになってからは、ある程度、正直な発表をしよったね。あとは、室戸岬?四国?から、潮岬。和歌山県の南端やね。あそこやとかに、敵機来襲、数十機とか、もう終戦間際になるときは、もう何百機言いよった。何百機が、日本に向かっとるゆって。そんなような状態で、空襲警報になると下級生を、とにかく竹藪に入れたり、学校の帰りやったら、麦畑とかさつまいもの畑とか、そういうとこにこう、隠れさしたりして帰ってきよったんやね。兄貴んたも、満州におったんやけども。満州って、昔韓国があって、ソビエトがあって、中国がある。この辺は昔の地図見ると、この満州の辺も赤いとこあったよ。日本列島があって、韓国があって、ソビエトがあってこの辺に、日本の領土みたいなとこがまずあったんやね。満州っちゅう。でそこへ派遣されて行っとったんやね。で今の地図ではあかんけども、昔の地図はたしかにそういうふうになっとった。もう戦争が厳しくなってきて、そこらへんに日本兵が行ってる兵隊さんは皆、?しだしたんやね。今ゆうフィリピンとかあのへんに、ずーっと。で、中国のほうは、結構に日本は進軍しとったんやね。慰安婦の問題なんか起きるのは、そういうところにある。で満州にしても韓国にしても日本びいきやったもんで、中国もどっちかちゅうとあれやもんで。日本兵は結構、おおちゃくしたっちゅうか、今の言い方で言うとおおちゃく。悪いことをしたのかな。うん。若干ね。まあそんな程度のことしか、おじさんは分からんな。もう日本人そのものとか、僕らにしても、「負ける」ちゅうあれは、全然なかったね。日本は強いっちゅう気持ちがあったもんで。もうサイパンもおちて、あれもおちて、もう日本の領土に、そういう飛行機がくるようになったら、誰でもこれはもう日本はダメやなちゅうことは思うんやけども、その当時は、そんなこと全然思わなんだ。うん。あくまでも、まんだ勝てるっちゅう気持ちしかなかった。