70年前に、隣のお兄が同い年のお兄が兵隊に行くとき。そのときに唄を作る。村長さんが好きやったと。おじいも好きやったよその時分から。唄で覚えがあるで。「征くは南か、東か北か西か桜の散り処」征くとこは西かって、地獄か極楽か進んで行くとこやで。攻めてくは、南方か東方か北方か。全部言っとる。兵隊を桜と言った。大きな桜と唄っとるわ。桜ということは兵隊、人間。若い。咲いていたと。ほんでそれが散りごろかといわした。おじいちゃん、70年前のことちゃんと覚えがあるんやで。そう?自分に?やないけども。
おじいちゃんも役場行ったよ。おじいちゃんは昭和15年の4月から18年の7月まで役場やった。ほれで大分?教えてもらいました。今のおじいちゃんのお父さん。そのおじさんは、?人やった。ほうしていろいろ教えてもらった、坊やで。小学校は?で。ほれから、あと農業へ移った。そうして戦争に負けるまで農業に。当時は産業組合っちゅったけどね、農業へ移って。終戦でまあ百姓やりますか。食べ物作らな生きてけんもんやで。親が年寄になるでな。でおじいちゃんは親のおとっ様は43、おっかさんは41に生まれた末子。一番末子っていうか末。末っ子。
「戦後の生活」タグアーカイブ
K.Oさん 連れ
生きておれるだけの空気を吸っとる。今でもね。こんなもんで吸っとる。まあこういうことで、男は日本中でも少ないの、今現在90越せるのは。男は80代で亡うなってまって、90ゆうとよう越さん、なかなか。おじいんたの同級生でも、おととし12月までに、その前年91ていう年に7人亡うなった。8人おったんやけど。でおじい1人残っただけやった、92の年に。だいたい90は容易に越せんなあと思って。山之上ばっかやないよ。古井も川辺も太田も連れいっくらでもおるでおじいには。福田さんもや。そうやってみるとそれが、おらんようになってまった。おれんかおらんか分からんけどね。戦争と両方で。
別にね、戦争に行かんとっても情報はどえらいことある。当時新聞を見とる。テレビはないでラジオだけ。そのラジオも無い家が多かった。ここへ天皇陛下の玉音放送でテープを持ってきてやっちゃる。今度、皆で聞くようにって。おじいちゃんは、今でも本が好き読むことが。皇室図書出版協会ちゅうとこで、昭和天皇、天皇陛下の本をいろいろ買ったら、録音テープを2つ送ってくれてあったで。ほんでそれがひとつは、終戦の?っていって、まあ負けようさといったときの、天皇陛下のお言葉のね、録音は持ってきたるここへ。みんな忘れちまっとるでいっぺん聞かせようちゅうて。ほんでおじいちゃんの兄弟は戦争で亡うなっちょるで、そこに毎年、昭和60年からおととしまで行きました。おととし末に患ったもんやで行けんようになってまった。ほれでもまあ去年と今年はおじいの子どもが行った。靖国神社は毎年行くで。今度の15日も、子どもは東京へ行きます。美濃加茂で5人かそこら行くやつ。お姉ちゃんはどこや。古井の本郷町。あそこらにはだあれも、おらんなあ。おじいんたの連れでもまあおらんもん古井でも。下古井にひとりおる。
おじいもよっぽど記憶しとるつもりやけども、書いて残いとかんであかんのや。書こうかなーと思っておるだけで、生涯の思い出として。
S.Fさん 就職
…それから市役所にずっと引き続いて、定年が60歳までやもんで、59年の3月31日で退職をして、それからは家でいろいろやっとったけれども。その間いろいろと協力というような、市でいろいろ役職はやらせてもらってきたで、復員して役場へ入って、役場で?して、29年からは町村合併して、市民課やとか、水道課長やとか、農務課長、環境衛生課長、市民課長、退職の時は市民課長で退職したんです。退職してから保護士とか。保護士でだいぶ東中も行ったよ。不良な少年がおってね。校長先生やとか、いろいろ話し合いしたりして。
K.Hさん 兄が眠る場所
これが、今のそれに書いたる平成20年に行った時の、私の兄が死んだとこだけども、向こうでは3年経ったら、ここへ埋めてあってあることが分かっとってもそこを畑にしようが道路にしようが建物建てようが、よろしいということになっとる。宗教的にね。だから私の兄の亡くなったというところも、家の倉庫になっとる。(それはどこへ行ってもそうやね。フィリピンでもそうやったで。)
A.Nさん 追悼
結局、1番最初に言ったように赤紙一枚。ようするにはがき一枚でね、あんたはここへ、戦争へ行ってきなさいと、国で指令をしてくれたわけやでね。それで行って、戦いで敗れて戦死したわけですけどね。今、国で追悼式とか、市でも今度10月2日に追悼式が。市もやってくれるんです。ほれから県は、あの岐阜で10月の23日やったかな。それもやってくださる。ほいで国では、8月15日。もうじききますけど、私も行ってくるんですけど東京の武道館でね、追悼式をやってくれるんです。言ってみれば、我々は当たり前の事やと思っとるわけですけれど、まあそれに対していろいろな反対派もあるわけですけれど。出発するときの誓いとしてはね、やはり「俺たちは、靖国神社で会おう」ということで。亡くなったら靖国神社でという気持ちで出征していったわけです。その靖国神社は、今は総理もいろいろな反対があって、内外の反対もあって行ってはいけないということでね、我々遺族では、とにかくそんなこと言わずにとにかく、総理が国の代表としてひとつ、行って参ってくれるのが本当じゃないかということでお願いしとるけど、なかなか内外の反対でよう行かれないということは、非常に我々は残念ですけどそれで、日本武道館で、別のとこで追悼式をやるというかたちを今は取っておるんです。
まあだいたい、大体って言ってもそりゃまあ話しよるといろんなことが浮かんでくるもんでね。さっき言った、空襲で逃げ回ったこと、防空壕でもとにかく空襲警報が鳴るとすぐ防空壕へ入るのがひとつの鉄則でしたもんでね。途中で食べ物ないと、桑いちごを食べたりね。桑いちごっていって、桑にいちごがね、小さないちごができるんです。(今は桑があらへんわ。)ああ、桑があらへんか。あれも食べた覚えがあります。あんなもん食べれたもんやないですよ。(食べるもん何にもないでな。)何にもなかったんやでね。芋っちゃあ蔓まで食っちゃうんやでね。ほれから、甲羅キビって。(あのころはキュウリが食べもんやったね。)ほんとやて。キュウリとかそういうもんはね。比較的すぐ成りよるもんでね。
R.M子さん 終戦と進学
ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。
今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。
T.Mさん 単位制
そうすると単位制やったもんでね、農業やりたい人は農業科の単位とらないかん。で国語とか数学とかあの体育とかって決まったやつは、全部やらないかんもんね。その他に、自由時間ちゅうんかね、単位を余分なとこで、例えば1週間5単位、って決まっとるね。国語数学5単位とらな。理科も社会も体育もやって言ってとるでしょ。その残りの時間いろんな授業やれたの。例えば商業科の簿記なんかやりたい人は簿記のやってもらってもええし、農業やりたい人は農業のとこやってもええし。例えば普通科の人やともっと他の勉強をね、同じような国語の勉強をもっといいやつやるとかね。そういうふうにずっと分かれてやっとった。ほんでも時間が1時間1時間違うんやて。自分で選択性やもんで、そんで先生がなんかバランスとってくださってね、教室も毎日変わったね。ホームルームはABCでちゃんと朝ホームルームの部屋行ってみなさんで一緒に。ホームルーム終わると、早や1時間目からどうぞ自分でって。例えば同じとこの部屋の子でも、国語は一緒、体育はここで一緒とか数学は一緒とかってあるけど。バラバラになって行きよったんやね。なんかちょっとへんやったね。そういう変則的な学校になっとったね、加茂高が。ほんで加茂高出るときに、単位の取った人は単位のやつをもらえて、取らん人は加茂高等学校の普通科やったの、全員。うちら百姓やっとったもんでね、農業のやつ取らないかんって言って農業とっとたやら。そんやもんでうちら農業科卒業。単位を取ったもんで。卒業になったんや。授業はみんな一緒にやっとたんやね、ずーっと。農業の授業だけは違う。農業科の子と一緒にやっとったけど。普通のはみんな一緒に普通科の子たちとやっとったの。ほんで友達が大勢いるわけ。国語の時間行くとあっちの子と一緒で、体育はこっちの子と一緒でって。ほんで学校中の子、同じ学年の子はよう知っとるわね。みんな知ってるわ、あちこちいくもんで。
T.Mさん 進学
中学校はね、6年生出ると高等科ちゅうのがあったの。で山之上の高等2年卒業して、それから私たち近くやもんで加茂農林ね。あそこが、昔加茂農林学校あったでしょ。あそこへ入ったわけ。1年生で。入った年に学区制になって、中学3年生になったの私たち。それで3年生になるわけやら。高等2年で加茂農林に入って、1年生済ましたら、加茂農林の中学3年生の免許証貰ったんやよ。賞状もらったの。うちらのクラスというかあの年のクラスがおらんもんねそんな加茂農林の中学3年あらへんもんでね昔は。ほんでその翌年に学区制で、加茂高等学校ができたわけ。加茂農林が無くなって加茂高等学校になったんや。ほんで加茂高等学校で3年で卒業したの。あれ加茂農林高等学校が加茂高校やな。学区制で変わったもんでね。それから途中から加茂高分かれてったんやもんねまた。できたんやよ。私んた卒業してから。初め加茂農林しかなかったけどなあ。その前は、加茂農林は女子の専門やったもんね。女子もあったもんでね、男子と女子と両方あって一緒に授業しとらなんだけどあって、合併したとき加茂農林の2年生になるときに高等学校ができたもんで、加茂高等学校の1年生で入ったやら。そん時に一緒になったんや。女子の人も加茂農林の人も、例えば岐阜とか多治見とか関とかってあるでしょ。そっちの学校行っとる人とか全部帰ってきて一緒に加茂高でやってたんや。全部普通科の人はこっち帰ってきてもらわないかん。例えば特殊な学校の人は入れたけど、ほとんどみなさんみえたんやよ。ほんで一緒にうちら、友達がたくさんおる。クラスも増えたしね。ほんで加茂高で卒業しとるけどね。ちょっとややこしいね。それから、また加茂農林ができたんやね。ほんやもんで私らは学校の免許は、国民学校やでね、初めは尋常高等小学校やったら。小学校入った1年、2年ごろは。3年ごろから国民学校になったの。で国民学校の初等科の6年生出たわけやら。国民学校出たわけやね。それから今度高等科ちゅうやつがあって、そこへ入ったんやねみんな。ほんで6年生で、普通の中学校行く人は中学へ行ったんやね。あちこち行ったんやけど、ほんで2年経って、もう1年経って高等科ってでて、加茂農林は高等科出たら入れたもんでね。ほんで加茂高等科出てから加茂農林へ3年行かしてもらって1年目入って、1年終わったとこで学区制ちゅうやつになって、ほして全部私らは加茂農林の中学卒業生やちゅうことになって。ほんで編入で加茂高へ入れたんや。ほんでその時に皆さんが他所からずーっときて一緒になって。クラスもほんと増えて、加茂高も。6クラスくらいあったんやよ。
S.Wさん 岐阜駅
軍隊から帰ってきてあの頃汽車なんかまともに乗れやせん。窓から飛び込んだり下りたりするようなそんなような混んでまって。ほんでそのようなで、わしらのような体の小さいものは窓からぴょんと入れたで、ほうやって乗り降りしたりね。ほんで1番驚いたのは岐阜の駅。降りたことはええが、あんまり駅を利用したこともなかったけれども、春日に行くときには2,3回は行ったことあるもんやで、ホームへ降りて来たら町はむちゃくちゃに焼け野原ちゅうやつやね。あれになってまっとるし、ホームなんかさっぱりどこへいってまったやらわからへん。駅員に聞いてなにした。がっかりしたあん時は。まあほんとに。
(自分で整理せないかんてもう早や歳になったもんで構いたくないでしょ。ここを若いもんがやるとね。ほんやもんで知らん顔して逃げてまうもんで、よけ何処へしまったかわっからへんようになる。でももう必要ないわ、私が死ぬまではっていうくらいのことやわね。よう聞いてくださったねほんでもね。ほんで上手に話がしたいけれども、まとまった話ができんもんで申し訳ないと思ってね。)
S.Wさん 教員の道へ
ほんで軍人は軍属まで、家族が亡くなるまで面倒見てもらえたけど、義勇隊は全然見てもらえん。たった5年間5千やったか、5万円の金だけもらって、あとは何にも援助はあらへんなんだで。まんだほかの死んだ者は軍属扱いになるか。おりゃ、死にゃあ良かったと思った。(ほんでもね、命からがら逃げてきて今生きとるでね)ほんでも命からがら逃げては来なんだけど。楽に逃げてきたで。ほんでここの地元の母校やけども、校長がどえらい熱心な人でね、学校の先生のお手伝いに来てくれんかっていって。その時が22歳の頃やな。22歳の時に来て、24年まで引きずった。「あかん。学校も出とらんし学問もさげとらんで、先生なんかになれる資格なんかないで駄目や」って断り続けてきたが、2年、もう忘れるころになったら来て。「頼む、頼む」て。ちょうど教員も不足しとる頃やでね。とうとうこっちが根負けしたというか、そのころちょうど静岡に富士川農学校ちゅうとこがあって、そこ入ることをあれして。試験を受けんでも履歴であの入校さしてやるちゅうて。入校の案内が早や来とったわけやね。ほんでそれ見たら、「そんなとこ行かんでいい。俺が農産学校の方もあるし、農業の細かいことなにもかもあるで見してやるで、勉強しや良い。」「先生やったら勉強できんやら」って言ったら、「いやいや、俺が認めるでええ」って。ちゃんとやってもいいって。とうとう負けて1年間だけやりますって。ほんで1年間過ぎたころ面白いっつったら面白い。学校面白くてかなわん。まあ黙ってやるかって。ほうしてやるんやったら免許証がない。免許証とるためにはどうしやええって。講習や通信教育や、そういうものがあるでそういう学校へ臨時で2,3か月はいけるで学校へ行くとか、そういうことをしやええって。そんでできることからやりゃええっていって、あの講習は夏休み全部休まずに、毎日土日は除いて講習に、ほぼの学校であったもんやでね、そんで150単位くらい講習で単位を取って。あとは、玉川大学の通信教育。これがえらかったわ。自動車の運転も素人やし、おそがいながらも名古屋の明和高校やったか。明和高校やな。あそこへ試験受けに。その試験が全部とんとんで通りゃええけども、1回や2回はちゃんと不合格や。これまた取り直しにいかんならん。まあそうこうするうちに、昭和24年に学校に入って、25年には臨時免許もらえて。27年に仮免許状を取ることができた。ほして昭和35年。35歳にして初めて、小学校教諭2級の免許状、それが取れたんや。ほんでまんだ足らんでって言って単位が。ほんでまた通信教育。そんで42歳。ちょうど親父の死んだ歳やな。42歳で初めて、1級の免許状を取ることができた。ほんでまあやれやれ、まだそりゃ中学とか高校あるで取れって。ほうしたらまあおじさん取れなんだけどね。そういうことがあったおかげに、なんとかもう、今はこんなにのんびりと暮らしができるくらいやで。