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T.Nさん・奥さん きれいだと思った

まあ、そういうのは辛かったな。今思うと。でもこの時分は辛いとは思っとらせん。今の感じで言うと、ほんとに辛かったなあと思う。この時分は、もうこれが当たり前やと思っとったもん。うん。勝つためには、兵隊さんの服は作れるということで、一所懸命やっとった。だから、中学くらいちゅうと、早い子やと学童動員ちって、女の人は紡績工場行かないかんかった。うん。働きに行った。家の姉さんら二人とも岐阜?行ったけど、学童動員ちゅうので、紡績工場へ、行かないかん。【そういう工場は、岐阜の空襲の時などはやられなかったんですか?】(やられたんやないかね。紡績工場。)そりゃやられとる。駅の近くやもん。姉さんた行っとったとこは。

【岐阜の空襲は、花火みたいやったってことは、夜?】(夜。それこそ、電球に黒い幕をやって、サイレン鳴るもんで、電球を暗くするためにまずは被せといて。ほんで行くよーって言われて、一緒に付いて行って、行ったんやね。行ったことはいいけど、こっち見たら西の方見たら、いかにもきれいやったで、ものすごい、頭から離れへんわ。あんなの初めて見たもんで。今の岐阜の花火より。ふふ。あのころはね、家がそんな建っとらへんで邪魔ものが無かったで見えたんやね。今はそんなふうやったってそんな分からへんやろ。そう。)あの、1万メートルぐわーって来るんやもんでわかるんやな。そこの山へ登ると、名古屋駅が全部見えるよ。挟間。もう名古屋駅のビルが。天気がええとね。(天気がええと、ツインタワー、あれ見えるよ。)

(今のお嬢さん方は幸せやね。ほんとに。あのころ食べるもんがないもんやで、とにかく、少しでもお金稼がなきゃってことで、私なんかね、なんていうの。学校から帰るとミシン。既製品を、1日に何枚っちって、縫って、またそれを持ってって、でもう1週間に1ぺんか2へんかくらいずつね、うちの母が持ってっては、それをまた、お手伝い。勉強も何も、やったのかやらんのか分からへんかった。高校へ行くていうときも、もう、そんなふうでお金あらへんで、行かんて言っとったんやけども、とにかく試験だけ受けて、行くには行ったんやけども、入学式の次の日からはずーっと休んでまった。なんでっていって、先生わざわざ言って下さって、ほんで月謝が払えんいって。でまあ、ほしたら、先生がね、3か月代わりに出したるって言って。そんな先生簡単に言えないわね。それで、奨学金の手続き。そんなもんあるって知らんかって、奨学金の手続きして行ったんやけども。)【高校行く人の方が少ないんですね?】(うん。少ないとき。中学の先生は、就職なんてなかなか面倒やもんで、自分に都合のいい方にぼってまったんやて。私は就職する就職するって言っとったんやけども。)富加6千人おって、大学行くのなんて一人か二人やもんな。それくらいやった。(そう、少なかったよ。)大学なんか行けやへん。(お父さんたの同級生で大学行ってみえる人って何人みえる?)3人おる。(3人か。それくらいや。結構ね、同級生って多かったんよ。私の同級生でもね、富田村の、また別の駅前ていうとこがあって、そこでかれこれ10人くらいおったで。結構兄弟が多かったし、子どもも多かったし。うん。あの、なんていうの。「産めよ増やせよ」って。)

T.Nさん 駅から見た景色

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。

T.Nさん 「食三衣五住十」

ほんでおじさんは機械が好きやったもんで、今関商工いうけども、昔は関工業高等学校やったんやね。そこへ入って機械の勉強をして、卒業してから名古屋へ行ったら、もうおじさん勤めたところは、brotherミシンがやっとるとこやったもんで南区やったんやね。南区の内田橋ちゅうとこやったんやね。ほうしたらね、もう港区からその辺はあたりもう全然家あらへんのよ。もうほとんど焼け野原で。僕が行ったの25,6年ごろに名古屋行ったらもう焼野原。もうほとんど。だからそのときに、おじさんが二十歳になった祝いのときに、教育長やな。名古屋行った時の。こっちで受けなかったもんで名古屋で受けたときに言われた教育長の言葉は、なんやったっけ。うーんとね、「食三衣五住十」。ちゅう言葉を言わした。これはどういうことかいうと、日本は負けたんやけども、こんな焼野原やけども、君たちが頑張れば、食は三年経てば食べれるようになるよと。着るものは、五年経てば必ず着る物が、着れるようになるよと。ほんで十年経てば、必ず、家が建ちますよと。一生懸命やればやな。うん。日本が負けて沈んどったって、なんにもならんから、こういうことを頭に入れて頑張れば、必ず日本は復興しますよゆって。ほしたらほんとその通りくらいに、十年経ったらぶつぶつぶつぶつと家が建ったりなんかして、復興の兆しがこの時分から表れてきたんやね。僕は幸いにして、そのbrotherミシンの下請けの会社に入ったもんで、あの当時はやっぱりミシンちゅうものはどこの家庭でもやっぱり、なけないかんものやもんで、どんどんどんどん大きくなって、うん。いいとこに就職したなとは思っとった。これが教育長の言葉やった。これよう、いまだに覚えとった。まあ、そういったおじさんの、そういうだけの経緯しか、ちょっとよう分からんな。