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T.Nさん レイテ島の戦いと兄

で、段々段々段々と、戦争もたけなわになってきて、初めのうちと大本営発表も全然変わってきたの。サイパンがやられ、ニューギニアも占領されて。その時分に兄貴んたは、釜山から、満州におったもんで、満州寒いもんでほんでこういう格好しとったんやね。で、もう戦争の終る頃に釜山から、今度フィリピンに、レイテ島の方へ向かって行ったんやね。で早そのころは、サイパンもおちてまって、もうほとんど死ににいったようなもんやね。レイテ島なんか。もう行くなんて。ここがレイテ島ね。これフィリピンでレイテ島。でサイパンはこの辺なんやね。ここへ行って、そのレイテ島へ。うちの兄貴んたはそんな激しい戦争の中やったんやけども、一応上陸したよっていって手紙がきたんや。レイテ島に上陸しましたよっていって手紙が来たんやけども、結局着いただけのことであって、もう、ここのあれもものすごい激戦地やったもんで、結局上陸しただけやけども結局やられてまったんやね。全部。もうこの時分は、みんなサイパンもやられ、もうほとんど、ほとんどこの辺に少しくらい日本人がおっただけやねえの。そんな状態でもう、先はほとんど見えてまって、これはね、もう19年の終りやな。20年に近いころやね。もう戦争が終わるすぐ。で、戦争済んでから遺骨が入ったのを、送ってきたんやね。うちの親父が、それを遺骨を、開いたんやね。ほしたら何が入っとったかいうとね、石が入っとっただけ。石が。その石やったって、どこの石かわからへん。でもまさかレイテ島の石やあらへん。その時分骨も拾えんやろ。ほんで親父は怒ってそりゃその遺骨をバーンと畳の上ぶつけてね、その憤りは僕らでも怖かった。横におっても。それくらいあの、悲しんどったわ。それからもう、間もなくして戦争が終結してまったんやけども。

T.Nさん 兄の入隊

おじさんの兄さんは、18年やと思ったよ。18年に入隊して、ここのもうちょっと向こうの町内なんやけども、そこからお宮さんへ行って参って、町内の人が旗を持って、「勝ってくるぞと勇ましく、誓って家を出たからにゃ、手柄立てずに帰られよか進軍ラッパを聞くたびに、瞼に浮かぶ、母の顔」そう言いながら、兵隊さんにこうやって、旗を持って、送り出したんやね。これは日本全国どこでもそうやったと思うよ。こんな歌聞いたことないやろ。【お兄さんおいくつの時の出兵なんですか。】20歳で亡くなっとるで、レイテ島で20歳になっとったよ。…ちょっと待ってよ。24歳やったか。24歳か。2年やもんで、22に早もう行ったかな。でその時に奥さんが送った言葉に、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」こういう刺繍したやつを兄さんに送ったんやね。戦争行くときに。敷島のって日本は、昔から敷島のって言ってそういう名称もあったやな。とか山桜花って言うのは、やっぱり日本の桜やということで。そういうことで、頑張ってくれという意味のあれやろうなあ。この言葉は、本居宣長の言葉なんやな。「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」っていうのを。それを送って、送り出したんやね。