美濃太田駅機銃掃射」タグアーカイブ

S.Fさん 訓練、そして終戦

次の日からは、部隊法やらいろいろそういうことを、終戦までやったわけやけども。まあどこの誰やら分からん人んたと一緒に訓練やって。その当時はまんだ戦争もね、南方の方でやっておったもんで、僕らの時分には、まあどっこも外国へは行けなんだ。いうことで内地におった。ほんで僕らがおるとこのすぐ西側に、三方原っちゅう飛行場があるの。それが、8月か9月やったかな。頃に、アメリカの艦載機が来て、その飛行場を爆撃やるわけよね。機銃掃射で、べべべべべべーっと。弾を撃って、ほんで、そこには飛行機やとかいろいろが陰に隠れてあるもんで、そこをやるわけやね。ほんでさーっと編隊を組んでは、行く。そういうやつを繰り返す。で僕は、ちょうどそん時部隊本部から、?をもらって、ちょうど、その飛行場のすぐこちら側まで出張しとったんや。ほんでそういうとこを見たと。ほんでその当時はね、ちょうど太田も機銃掃射あってね。太田の駅の機関庫ってあってね、駅員の人が亡くなったよ、打たれてね。ほんで亡くなった。何人亡くなったちゅうことは分からんけども、僕らの友達の弟んたも駅に就職しとって、ほんで亡くなったっちゅうことを後から聞いたんですけども。

それから終戦は、部隊で聞いたんやね。ラジオ持ってきて、重要な発表があるで全部?より、ちゅうことで聞いとったら、天皇陛下の玉音がやらしたんやね。ほんで聞いとって、ああ日本は負けたんかということで。まあこれからは、戦争も何もやることないなと思ってね。終わって、部隊やなにかもそこで解散をするようにっちゅうことで、解散はどのくらい後やったか知らんけども、話があった。

えらかったのは食事やね。当時なかなか食事が無いもんで、ご飯も大豆の入ったご飯ね。それを食べるちゅうとね、大豆がしっかり煮えておらんもんで、がりがりがりがり。ほうすると胃にひびいて下痢をした。下痢をしても休むわけにいかんもんで、一生懸命無理してやっとったわけよね。

腹が減って腹が減ってしようないし。馬が何頭おったかな。12、3頭おったかな。それにはえさもやらなんし、手入れもせなかんしちゅうことでね、当番は別に決めて順番を。大豆がすやとかいろいろわらに混ぜてやるわけでしょ。自分たは腹が減るもんでね。その馬にやる大豆をを持ってきて食べるの。食べるちゅうとまあ下痢しちゃうし、腹が壊れちまう。そうやけども、腹が減ってしゃあないもんでそういうことやったの。それから、すぐ公民館のようなところに小隊ごとに集まってそれぞれ分散したもんで、誰がどこにおるちゅうことは、僕らは一番初年兵やったもんでね、誰がどこにおったやら全然分からへん。まあ30人か、初年兵はそんくらいおったかなあ。ほんで腹減るもんで、すぐ民家は百姓やってみえる人らやもんでね、そこへ腹が減ってそこの家へ行って、「腹が減る」とかそういうこと言うもんでね、じゃがいもとか、いろいろ煮てね、「食べよ食べよ」と言ってくれたことがある。そのくらい腹が減りよった。

A.Nさん 沖縄戦について

あとはそうやね、あそこに、沖縄にあるわね。沖縄に、沖縄戦でね、あの、まだ去年行ってきたんだわなあ。三品さんが行ってきてくれたんやけどね。沖縄のね、?の丘って言ってね、あの、平和の礎って言ってあのそこにね、そこのとこに平和祈念堂っていってね、あそこいくと、沖縄戦はほんとに激しかったよ。我々の苦労とは全然比べ物にならないね。今その?丘はね、畳一畳に対して何千発という爆撃をくらったとこなんです。ほいで草木が20年は生えなんだね。ジャングルみたいなとこでしたけどね。20年生えなんだでね。今はもうきれいに整備されてほんとの霊園になってますけどね。そのくらい酷くやられたんですね。ほんでそこでもなおかつ、日本軍、要するに兵隊やなくて民間の方がかなりやられたらしいもんでね。バズーカ砲でやられたり、あのみんな、さっきの話やないけども、防空壕とか壕っていって穴の中に皆潜るんです。まあそりゃ助かるためにはね。ほんでそこで生活したりいろんなもうことをやるんですけど。沖縄の地ではね、そういうとこで、日本政府がきちっと作ってくれたわけですけれどね。まあ今年も、6月の23日があそこ玉砕された日ですのでね、そんときに、総理大臣も行って追悼式をやっとるんですけどね。まあいってみれば、当たり前と言えば当たり前ですけども毎年やってみえます。今度また高校か、沖縄行かなんこともあるかと思うんですけども、まあそこへ、正式の巡拝っていってね、一番沖縄の先っぽなんですけどね、もう何メートルなっておるんですけども。あの、沖縄の悲劇はほんとにね、我々の苦労とはまるで違うでね。ほんとに、生死を境にしたというのはまさにその時やと。まだまだ私んたは恵まれとって、まだこうして生きとる。

だけどもさっきも言ったように、太田の駅ももう寸前で、やられるとこでしたのでね。もう、1週間か2週間戦争が続いとったらおそらく、太田の駅もやられとったんでしょうね。太田の駅は、いろいろ高山線の東海線、それから越美南線と太多線。今は長良鉄道いうんですけどね。その拠点でしたもんでやっぱりここ狙うはずやったらしいです。それで、艦載機で機関庫が狙われたんやでね。流れ弾で穴が開いたやつはそんままにしとったわな。ほんとにあと2週間続いとったら、太田の町は焼け野原になっとったかもわからん。(あそこで列車を回転しよったんやら。)そうそう。列車をね。あそこ機関庫ですのでね。列車の向きを反対にして。(機関車をバックするわけにいかんもんだから、例えば岐阜からくるときは、先頭の機関車が、あの引っ張ってくるでしょ。それをぐるっと廻さん限りは、いつもこちらが頭だとすると、このまんま岐阜へ、汽車ひっぱって来るならバックせなならんでしょ。だから機関車を、ぐるっと回転されるとこがあったの。回転して、ほんでこっち向きにするとこっちが先頭でしょ。だから客車を引っ張って岐阜へ行くと。そういうところがあったんです。ちょうど今のね、みんなが乗るホームのななめ北西のところにそのおっきなぐるっと回転させるとこがあった。)(裏から見えたな。)(裏に道路が今でもあるわね。駅の方の線路のすぐ南側に線路が。その道路から見えるとこにあった。)太田の駅は拠点やったもんでね。

A.Nさん 戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。

R.Mさん 焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

T.Mさん 空襲

あとは、一番最後の8月の今頃やね。この辺もしょっちゅう空襲があってね。名古屋の方も空襲やったね。岐阜県もばーんとサイレン鳴って、名古屋の方の焼夷弾が落ちてね、燃えるとこの、赤いやつがばーっと燃えるとこだけ、見えたね。山之上高いでしょ。赤くなってね。「あ、今日は名古屋が燃えとるな」って言って見とったけどね。直接飛行機は来ん、B29が高いとこ行くだけで。まあ、「これ日本負けるかな」と思ったね、その時は。あとほんとに、終戦の8月の10日ごろになるとこの辺も艦載機が来たよ。ダーッと来てね。太田の駅でも亡くなったもんね、駅の人が。汽車のとこへバババババーっと撃ってね亡くなった人が。広見でもね、たくさんのドラム缶に鉄砲で撃ってね、もう油がバーッと燃えて火が出て燃えよったけどね。それも覚えがあるんです。それから爆弾の落ちた不発弾がね、山之上の古井の天狗山のこっちらへんね。あそこにもちょっとおったんやね。みなさん言っとったし。私たちは大きい川がないもんでね、池へ水浴びに行きよったんやね今頃ちょうどね。ほうすると艦載機がビョーっと来てね、ブオーンってこの太田の辺をバリバリバリとやってみえてびゅーっと私ら山へ隠れよったけどね。おそがいもんで。ほんと人が見えるくらいやったよ。人がちょっと見えるんやね、飛行機でね。もうこうなると「日本はあかんな」と思っとったね。それまでは絶対勝つって言っとったけど。そういう体験があるね。恐ろしかったねそういうときは。どこ狙っとるや分からんもんね。あとは直接何にもしとらんもんでね、うちらは。そういったこととか、道路に豆蒔いたとか、そういういろいろ。なんといっても小さいでね子ども達。私らも分からんでね。学校行っても運動会なんか無かったもんねその時は。その戦争前はね。

N.Iさん 美濃太田襲撃

空襲警報とか警戒警報とかいうのは、初めのうちはそんなになかったけども、やっぱりあの美濃加茂市というか、当時美濃加茂市やない、伊深村やったもんでね。伊深の山の中ですからそんなになかったが、でも夜になると、警戒警報発せられると、明かりをまず消す。家の中の明かりを消しちゃうという。消さずに家の中で、シートで電気をカバーして。でもほんとその電気を消しただけで、そうゆうような生活を強いられたわけやね。それはまあ日常生活での、決まりやね。で空襲警報で何したという。学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。あまり記憶にないですけれども。昔は太田は機関車の集積するとこやったもんで。蒸気機関車が何台も集まってきて、高山線と越美南線の機関車が全部今日はこの機関車を持ってくとそういうような車庫があったの。そこへ、時期ははっきり覚えておりませんけども終戦の間際にきたときに、終戦の前の年やったと思うけども、その車庫に止まってる機関車に、飛行機からボボボボーンと機銃掃射って飛行機で上から撃ったという。

T.Nさん 駅から見た景色

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。

T.Nさん 美濃太田駅

ほんで、段々段々と時が経って、美濃加茂の太田駅。あそこもね、機関庫っていうのがあるわけね。列車の修理する車庫みたいなとこがあるの。でそこをめがけて艦載機っていってね、船から飛び立ってきたの。その艦載機がね、僕らそこで駅で見とったら、その目の前をうわーっといってね、ほんで太田をバババババーって2回も繰り返して。日本の戦闘機と一緒やもんで、ガソリンたんと積んどらんもんで、2回くらい撃って、そのまんまびゃーっと帰ってったけどね、そんときは、1機だけ来ただけ。バリバリバリっちゅう音まで聞こえたよ。駅で僕らが5年生の時に聞いとった。それくらい来て、まあそれでも、なんちゅうの。自分たでは、日本は負けるなんてそんな気持ちはなかったな。うん。ただ、すごいなっていう感じやったわ。