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S.Fさん 戦後

終戦になって、軍隊は解散しとったもんでな。それぞれまあ行けちゅうことで。てんでわれわれちりぢりばらばらで、来たわけやけれども、僕の場合は初年兵やったけれども、ちょうど進駐軍がね、兵器を日本国から引き受けなかん。引き渡すわけやね。僕らの部隊でも何人とおったもんで、そっから兵器を浜松の師範学校へ輸送してね。そこで引き渡すということで、僕らの隊はね。兵器をどこどこへ、何月いつかに集結しときなさいって部隊から命令が出てね。僕らは兵器を浜松の師範学校までね、トラックでやって並べて、アメリカさんに受け渡すという仕事でね。初年兵でおって、終戦をした後僕らは残留で残って。他は返されちょったけど、僕らはどのくらい残ったか知らんけど20人か30人残ったのかどうや。夜は泊まって不寝番でね。兵器がどっかへ盗まれたりなんやしたらあれやもんで、不寝やったりいろいろして。片道やっておったわけやね。で、その兵器渡すときはまあ僕ら関係ないもんで、すぐ家へ来ちゃったけれども。終戦になって戻ってきてまた山之上の役場へ就職したんです。

S.Fさん 訓練、そして終戦

次の日からは、部隊法やらいろいろそういうことを、終戦までやったわけやけども。まあどこの誰やら分からん人んたと一緒に訓練やって。その当時はまんだ戦争もね、南方の方でやっておったもんで、僕らの時分には、まあどっこも外国へは行けなんだ。いうことで内地におった。ほんで僕らがおるとこのすぐ西側に、三方原っちゅう飛行場があるの。それが、8月か9月やったかな。頃に、アメリカの艦載機が来て、その飛行場を爆撃やるわけよね。機銃掃射で、べべべべべべーっと。弾を撃って、ほんで、そこには飛行機やとかいろいろが陰に隠れてあるもんで、そこをやるわけやね。ほんでさーっと編隊を組んでは、行く。そういうやつを繰り返す。で僕は、ちょうどそん時部隊本部から、?をもらって、ちょうど、その飛行場のすぐこちら側まで出張しとったんや。ほんでそういうとこを見たと。ほんでその当時はね、ちょうど太田も機銃掃射あってね。太田の駅の機関庫ってあってね、駅員の人が亡くなったよ、打たれてね。ほんで亡くなった。何人亡くなったちゅうことは分からんけども、僕らの友達の弟んたも駅に就職しとって、ほんで亡くなったっちゅうことを後から聞いたんですけども。

それから終戦は、部隊で聞いたんやね。ラジオ持ってきて、重要な発表があるで全部?より、ちゅうことで聞いとったら、天皇陛下の玉音がやらしたんやね。ほんで聞いとって、ああ日本は負けたんかということで。まあこれからは、戦争も何もやることないなと思ってね。終わって、部隊やなにかもそこで解散をするようにっちゅうことで、解散はどのくらい後やったか知らんけども、話があった。

えらかったのは食事やね。当時なかなか食事が無いもんで、ご飯も大豆の入ったご飯ね。それを食べるちゅうとね、大豆がしっかり煮えておらんもんで、がりがりがりがり。ほうすると胃にひびいて下痢をした。下痢をしても休むわけにいかんもんで、一生懸命無理してやっとったわけよね。

腹が減って腹が減ってしようないし。馬が何頭おったかな。12、3頭おったかな。それにはえさもやらなんし、手入れもせなかんしちゅうことでね、当番は別に決めて順番を。大豆がすやとかいろいろわらに混ぜてやるわけでしょ。自分たは腹が減るもんでね。その馬にやる大豆をを持ってきて食べるの。食べるちゅうとまあ下痢しちゃうし、腹が壊れちまう。そうやけども、腹が減ってしゃあないもんでそういうことやったの。それから、すぐ公民館のようなところに小隊ごとに集まってそれぞれ分散したもんで、誰がどこにおるちゅうことは、僕らは一番初年兵やったもんでね、誰がどこにおったやら全然分からへん。まあ30人か、初年兵はそんくらいおったかなあ。ほんで腹減るもんで、すぐ民家は百姓やってみえる人らやもんでね、そこへ腹が減ってそこの家へ行って、「腹が減る」とかそういうこと言うもんでね、じゃがいもとか、いろいろ煮てね、「食べよ食べよ」と言ってくれたことがある。そのくらい腹が減りよった。

S.Fさん 古井から掛川へ

ほんで私の部隊は古井まで行って、その時分は青年やったもんでね、青年の人んたと一緒にお勤めしとったもんでね、古井から青年の人が2、3人一緒に汽車に乗って、岐阜まで送っていただいて。ほんで岐阜からはまあ?もんで、三重県の久居まで行って、23日に入隊したということで。全然知らん人んたと兵隊さん一緒になったね。そこで部隊編成をして、私は歩兵の連隊砲っていう、小銃やなしに大砲やね。口径が7.5cm。弾飛んでいくとこやね。そこが7センチ5ミリのこういうね。それを引っ張ったりね、いろいろする。馬も…何匹やったか。覚えないけどもおるわ。僕たちは、ごこく?ってやつ知っとる?三重県の久居で部隊編成をして、少年兵教育っちゅうものを三月やって、それから移動やっちゅってね、その兵器やとかいろいろ持って汽車に乗って、どこへ行くのか知らんと思って、夜移動やったもんでね。全然どこやなんや知らんもんでわからへんやら。で、ほしたら夜中に着いた。どこや知らんと思って行ったら豊橋から、二俣線ちゅう汽車に乗って、着いたとこやね、あそこは掛川ちゅう駅があるけどそこまでの中間、静岡県で降りて。部隊本部は無かったもんで、中学校の教室を開けてもらってそこ入ったね。僕らはそれぞれ小隊ごとに分かれて、小隊っちゅうとだいたい20人か30人くらいやないかな覚えないけども。公民館あるでしょ、部落の。そういうとこへ収容されたんや。

S.Fさん 赤紙

僕らの上の兵隊さんはね、召集兵って知っとるか。何月いつかに入隊すべしっていう、赤紙が来るわけ。その赤紙が来ることも、僕は役場で宿直やなんかやるでしょ。そういう電話がくるの。召集令状が来たで取りに来いっちゅうて。判持ってね、取りに。どこへ行った覚えないが、古井の駐在所やなかったか知らんと思うけども、行ってもらってくる。判を押してもらってきてね、その兵隊さんのとこへ持っていくの。持ってって。「こういうふうで赤紙がきたで、ご苦労様ですけども、何日には入隊してください」とお願いをして、出てくんやね。それは兵隊に今まで行ってきた星のある人ね。そういう人んた、日にちある限り、ちゃんと間に合うように行かれるわけですけども。それから行くときには、まあ出陣ちゃうか、村の人がね、太田の駅まで古井の駅まで見送りをして下れる、一緒に行って下れる。古井駅行って、そしてまあこういうふうで行くんだという挨拶をしてね、古井から汽車に乗って、それぞれの司令される部隊に、行くわけやおね。

S.Fさん 入隊

私は大正5年1月生まれで、山之上町です。小学校は昭和7年に入って6年おって、中学ちゅうか昔やで高等1年、高等2年。ほんで加茂農林。僕らは戦争中やったもんで12月に卒業して、家は百姓やもんでね。農業を1年。ほんで19年の1月から、山之上の役場へ来てくれっちゅう話で、行って。徴兵検査が19年の秋にあって、僕らは繰り上げ徴集って言ってね、普通21なって、徴兵検査受けるんや。それが僕らの級のもう一つ上の組から1年繰り上げになったの。やもんで、早く徴兵検査やってね。ほんで昭和20年ね、終戦の年の。兵隊に行くのは、4月の23日入隊。僕らは山之上の西洞っちゅうとこにおって、23日に行くときは、皆さんに挨拶して古井の駅まで送ってもらってね、ほんで汽車に乗って岐阜へ行って。その時には、岐阜市あたりは空襲もなんにも受けておらんで普通の町であったけども。それから三重県の久居ちゅうとこが、自衛隊があるね。そこに入隊をしたんです、23日に。そこに3か月おって、それから部隊を移動をしたもんで。

S.Wさん 関東軍

でまあそういうようなことで、5年間まではおらなんだが、開拓に関係したことはまる4年。ほしてちょうど終戦の年、1945年の5月に、「関東軍へ入隊せよ」ちゅうことではじめて、軍人ということになったわけじゃけども。その軍人の期間はわずか2か月と半分。2か月半やったね。ほんで直接戦争に携わったわけではないけども、戦争以上に、なんちゅうかな、悲惨な状態の中でその2か月を過ごしたということ。その入ったことろが、一時、昭和の終りから平成の初めにかけて日本中で話題になったとこやけども。何をやったかちゅうと、率直に言うちゅうと、中国の捕虜を殺したちゅうことやね。ほんで殺すことは直接携わらなんだけども、今の捕虜の収容所の爆破やとか、捕虜の死体の…始末。そういったことをやったわけやな。ほんでこれ話があちこちするかもしれんが、ソ連が日本を侵攻するちゅうなにをはじめたのは、まず1番に今の中国の東北部満州の、日本がはいっとる、まだそのころそんなに大変な人数ではなかった。私んたが行った時が第四次。義勇隊で言うと、第四次やで。あと十三次くらいまで出てきたと思うけども。

こんなやつ見てもらっても、わからんな。まんだ大事なあれがあったけども、家を立て替えたときにいらんいらんてみんな、大勢で片づけたもんで大事なもんみんな捨てがってまって。母親がしまっておいてくれた手紙までちゃーんと、そのころ建てたのが平成元年やったで、それまでは大事に家でしまっといたら、誰か手伝いに来てくれた人か知らんが、「こんな古い手紙みたいなのええやら」って、どうも燃やいてまった。こんな大袋にいっぱいしまっとったのに、それが一番大事なあれになった。写真も何にも大変向こうで撮ったけども、また兵役終わったら帰ってきて開拓の仕事ができるやろうちゅうことで。みんなしまっといたんやね。そやもんで写真はあらせんわ、証拠になる手紙、「せっかく母がっとっといてくれたやつやで」って言って『重用』と袋に入れてしまっといたのに、燃やしちゃってあらへん。そんでがっかりしちゃってよ。いろいろ文章書くことが好きで、死ぬまでには何とか書き残したいと思って、そうやつを大事にしまっといたんやけど、ぜんぜんもうあらへんのやで。ほんと記憶だけで話さないかんようになってまったね。