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T.Kさん 学徒動員

戦時中だったら、ちょうど私たち6年生卒業する時に、国民学校ね。国民学校6年生の時にあれやったもんでね、で6年生終わって、地元の女学校へ入ったわけ。19年の6月までその女学校で勉強しとったわけね。で戦争が酷くなったもんで、6月で学校がね、解散になっちゃったの。その女学校がね。その前は女学校行っとっても、山を開墾してね。さつまいもとか、それこそ豆やね。豆やなんかを「今日は開墾に行く日やで」って言って、山の方へ行って開墾して、さつまいもとかそういうものをを作ってね、やっとったんです。それでまだ終戦前の19年の6月までその女学校行って。で6月で女学校が、戦いが酷くなったもんでもう、解散になっちゃったんよ。で、みんなそれぞれが軍需工場へ勤めに行かんならんのね。その時にここの腕章に「学徒動員」ちゅう腕章つけて、「神風」と書いたハチマキつけて、6月に「また会いましょうね」って言ってそこでみんな別れて、4つか5つくらいの工場へ分かれて勤めに行ったわけ。地元では、大きいお寺さんがあったもんで、そこへ兵隊さんたちが来て、お寺で寝泊まりしてみえたの。劇場も全部、その軍需工場で仕事をやってみえたし、私たちおった女学校も軍需工場して、兵隊さんたちがそこで仕事をやってみえたの。その年はね。

【工場では何をされていたんですか?】なんかね機械の部品みたいなものをね、作ってたんやね。

N.Iさん 戦場に行きたい

私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。

N.Iさん 小学校教育

私は伊深でずーっと終戦までおりましたもので。出て行かないから、そういう意味で市原さんのような空襲警報とかなんかのどえらい怖い思いをしてないわけですけど。むしろ私は、学校で戦時教育を受けたそのことの方が印象が深いわけやけども。体験したちゅうことは、戦時中ですからやっぱり戦争教育ちゅうか、そういうのをもう徹底されたちゅうことやね。私は市原さんよりちょっとだけ年上やでほんとならあれやけども、命に直接関わるようなそういう体験はしてないわけですね。まず小学校ずっと体験したということになると、飛行機が飛んでくると、「あの飛行機はどういう飛行機やろう」と、そういうことを想像する勉強の一環として当時は、音を出す機械がオルガンしかなかった。私たちの頃は。私は伊深ですから、伊深の小さい小学校で先生が、それらしい音をヴー…っといわして、たとえば大型爆撃機のB29。それの音とか、航空母艦から飛んでくる艦載機って呼ばれたあの飛行機、グラマンっていう飛行機があったと思いますがあの当時。その音と聞き分けるようなそういう勉強を音楽の時間にしたという。こういう音がしたらB29が飛んできて、どこで爆弾落とすや分からんで気を付けていましょうっていうね。艦載機や、まあ小型の戦闘機ですけどグラマン戦闘機って言いましたけどそういう、ちょっと音が違うんやね。だからそういう飛行機の音の聞き分けをまず勉強させられたということ。それから体作りということでは、よくテレビのドラマなんかでやりますが、藁人形を作って竹槍で刺す。そういうのを4年生のころからやりました。ちょうど4年生に、いわゆる徹底した軍師教育がおこなわれたもんで。体育の時間などに、校庭に藁人形が何体も作ってある。村人たちのそういうやつやと。その藁人形使って槍の刺し方を、ただこうやっただけでは刺せへんでって、槍の刺し方を教えてもらったっちゃ、教えられたと言った方がいいかな。そういうようなことを。それから、そのほか体育の中では、剣道とか、ようするに武道というかたちで剣道。柔道は先生いなかったで、まず剣道と、今のこの槍を刺す、銃剣術という。銃に、刀が付いてあるから銃剣というわけ。そういうようなことを、小学校のまもなく4年生から、はいったと。

M.Iさん 学校生活と艦載機

【終戦の時は、春日井にいらっしゃったんですか?】終戦の時は、ちょうど春日井に移ってた。駅の裏んとこに、かつらそうってそこへ移った。だから焼け出されるまで名古屋におるうちは学校へ行くと、警戒警報になる。警戒警報になると、運動場に分団で並んで、分団別で家へ帰ってった。空襲警報が鳴る前に、いっぺん警戒警報ちゅうのが今、敵がこれから攻めてくるよちゅう、予告がある。学校へ行くときは、今のような名札やっぱり付けてるんやけども、名札に住所と血液型が書いてあった。でもし、何かあったときにどこの誰かわかるように、今の何年何組なんのたろうとかそういうんやなしに。そういう名札を付けとる。で鞄と、ランドセルと防空頭巾と、両方持って学校行った。だから学校へ着いたかしらと思ったら、すぐ警戒警報鳴るちゅうことも。ちょっとやっとって、鳴ると。分団別に運動場に並ぶんやけども、あの時分は給食やったもんで、給食のコッペパンちゅうやつをみんな一つずつもらって家に帰った。名古屋城の後ろには練兵隊があったもんで、兵隊さんの駐屯しとるとこがあった。B29が来るとそれを打ち落とすっていって、照明を下から、対象灯ちゅうやつを照らす。で下から大砲を撃つんやけども、高いから届かん。ほうして今度はB29が、対象灯目がけてウワーッと急降下してくる。そういうことの繰り返し。

それから勝川いって終戦になる前に、名古屋の庄内川。お馬さんのえさの草をいっぱい学校持ってかなかん。草を刈ってお馬さんのえさに。えさを学校持ってく。でお茶の実は、飛行機。航空機の燃料になる。で学校に持ってった。庄内川に草刈りに行って、袋詰めて今の線路伝いで戻ってったら、艦載機って言ってね、人目がけて、バリバリバリバリって。だけども、艦載機が来たって僕ら知らなんだ。田んぼでお百姓の人が、「あんた、すぐ隠れなあかん、隠れなあかん」っていって言われて、中央線の途中にちょっとした鉄橋のようなのがあるもんで、その下へ逃げたの。ほんで艦載機が行っちゃって、あそこの、名古屋から艦載機がずーっと来て、だいたい多治見の方へ行く。多治見の中央線を機関銃でもってバリバリバリって。完全に人を狙ってきたの。ほういう体験を。

【馬は、何の馬ですか?】兵隊さんの馬。軍隊で兵隊さんが使っとる馬のエサを。お茶の実は飛行機の油を。搾って燃料にしとったんやね。それをみんな拾って持って行っとった。そういう体験をした。

ちょうど自分の家から今の名古屋城まで逃げるのは、3キロくらいあるかなあ。そんなけのとこで。でもう逃げたとこに行ったら、みんな町内会の人が「逃げてきた」ちって、市原さんとこのじいさんて…(沈黙)……びっくりされた。そうやって連れて行ったもんで。だからその時分が一番、苦しい時代やったね。

T.Nさん さつまいもと子どもたち

で、それで段々段々と、厳しくなってきて、18年頃からかな。サイパンが落ちた、ニューギニアで占領された、っていって、玉砕ちゅうのか。全部死んだ、死んだ、死んだちゅう話聞くようになってから、もう厳しくなって。こういう遊びもできなんだね。で、何をやったかちゅうと、さっきみたいに桑の木の皮をむいたり、どんぐりを拾いに行ったり、お母さんたは豆ひろいに行ったの?(いや、お茶のほぼ。)お茶ぼぼか。お茶ぼぼ取りに行ったり、そういうことを、やって。(そういうのを戦争中にやって、戦争が終わったら今度芋。芋ほりやら畑の耕しやら。)おじさんたは駅があって、ちょっと街やけども、富加でもほとんど百姓の人たちんたは山とかあるもんで。学校終わってどんぐり拾いに行ったって、どんぐりどこにあるや分からへんやら。ちょびっとしか持ってこれへんやら。ほうすると、帽子いっぱい持ってくるやら。そういうときに、「お前なんや」っていうのが、いじめやったんや。いじめって言っちゃおかしいけど。そう言って、「なんでよけ拾ってこんのや」ってやるもんで、うん。やられよった。

T.Nさん・奥さん 桑の皮むきとどんぐり拾い

一番大事なこと忘れとった。おじさんたの5,6年時分は、こういう軍服を作るために、桑の木の皮むきをした。学校へ行って、勉強するんやねえ。各部落のお百姓さんのとこ行って、竹をこういうふうに挟んでね、縄でカンカンに縛って。竹を2本ね、ここを縄で2本だけ縛って、ここへ桑の木を入れてこちらにぐっと締めてね、締めれるように縄をこっちも巻いて。こうやってしごくと、皮だけになるの。桑の木の皮だけ残っちゃってね。それを何するかいうと、その繊維を送って、そういう軍服を実際作ったんやと思うんやけども。生地にするために皮向きに行きよった。(私らの、小学校1年生くらいの時は、お茶のほぼ。この花になる、芽になる種やね。あれをいっぱい拾い集めて供出したんやね。で何にするかゆったら、飛行機の油がないで、そういうのをたくさん集めよということでね、子どもんたがね、そこら中のお茶畑行って拾い集めて。)どんぐりもそうよ。どんぐりも拾ってね、それを出しよったの。どんぐりも飛行機の油になる。(とにかく油がないでっていって。飛行機の油がないでっていって。そういうことは、やったね。)だからおじさんたはね、もう5,6年なんていったらね、勉強全然しとらへん。ほとんどこういうことやら、あの竹槍持ったり、石を投げたり、そんなことばっかして。

T.Nさん・奥さん 戦後とアメリカ兵

それからまあ、段々段々と時が過ぎて。今の富加駅の前は加茂野駅になっとったの。そこの前に、こういう集積所っちゅうとこになっとってね、そこなにがこれ入れたったっていうと、日本の剣道の防具とか、銃剣術のとか、そういうのが入れてあったんやね。で、結構アメリカ人が、そういう戦争の道具がいれてあったもんで、アメリカ人が来るの早かった。ここへ来るの。で、ずっと大きな車で来てね、調べて歩いとったね。(わしらはね、チョコレートもらったり、ガムもらったり)早かったよ来たのは。終戦直後のほんと早い時。もうそういうとこよーく知っとるんやね。軍隊で使う銃剣術やると防具がいるやら。そういう防具とか、まあなんちゅうかな、毛布とか、そういうものが入れてあったんやないの。たくさん。そやもんで、調査に来たんやね。早かったよ来たのは。(学校の校庭にね、アメリカの飛行機がいっぺん降りたことがあるよ。)学校にもちょっと入れたったね。(私らはさほど深刻やないやら。小さいもんで。やもんで、チョコレートくれるしね、いい人やなと。でもあのころは英語が喋れんかったもんで、野球でも、それこそピッチャーやキャッチャーなんて言葉使えんし)

T.Nさん 予科練へのあこがれ

僕らはただ低学年の誘導したりなんかして。うちの親戚の若井っていうのがね、ちょうど予科練に入ったんや。7つボタンで。ちょっと暇なときあったのかしらんけども学校へ来たんやね。で学校で来てみんなで、生徒全部のとこで集めて挨拶してくれた時に、7つボタンでかっこよかったもんで、おじさんも、憧れてまって、「よし、俺も7つボタンに行くぞ」言って、要するに予科練ちゅうんやね。でそれに俺はなら絶対行くよっていって。でもう2年、戦争が続いておれば、おじさんたも、当然行っとる。もう18,9で飛行機乗って死んどる人はたくさんおるんやでね。で、今いくつ?14やな。18歳って言ったら4年やら。そんなころにはもう兵隊に行った人があるんやね。おじさんもそれで憧れて、おじさんたの時は今みたいに6・3・3制やないもんで、6年で高校行きよったんやでね。そんな時分やったもんで、6年生卒業したらもう早やそういう予科練の訓練を受けることもできるんや。そんな時分やもんで。やけども終戦になってまったもんで行かなんだけども。すごく憧れて、「よし、俺も予科練行くぞ」っていって、もう2年も戦争が続いとんならおじさんの命はあったのか無かったのか分からんわ。それくらい切羽詰まった状態やったんやね。日本はね。

T.Nさん 学校生活

で、段々段々と戦争が激しくなってきて。おじさんはそん時5年生6年生やったもんで。戦争が激しくなってくるとラジオから、「大本営発表」ちゅうふうにまず出てくるんやな。陸軍の方から。「敵機、B29が、潮岬南方洋上に、数十機」とかいうふうに放送されるもんで。ほして、やがて2時間か3時間してくると、空襲警報言って、愛知県とか岐阜県とかに、サイレンが鳴る。ほうすると、僕らはちょうど学校の帰りやちゅうと、低学年を、ちょうど通学路に山があったもんで、その山に避難するとかさせとったんやね。ほしたらね、カラスヘビって言ってね、山にヘビがおって、真っ黒のヘビ。それがぺぺぺぺーっと木をつたっていったもんで怖かったもんで、今度下級生を道路の反対側の麦畑の方へ下級生移して、麦畑に皆伏せさして、空襲警報が解除になるとじゃあって言って、家に帰させよったんやね。で学校で空襲警報なると、5,6年の人みんな低学年の生徒を、竹藪。竹藪ちゅうのは、根がいっぱい張って結構丈夫いもんでそういうとこへ、皆さんを避難させる。そういう誘導役なんかを上級生はやってたんやね。普段空襲警報でないときは、上級生の僕らはほとんど勉強してなかったんやな。先生に連れられて川へ行って、対岸の方へ石を投げるの。みんなしてずーっと並んで。それはなぜかゆうと、敵が攻めて来たらその石を投げるということをやってたんやね。でも今思うとそんなん向こうが鉄砲撃ってくんのに石投げなんてやったってそんなもん追いつかへんのやけども、それでもやっぱりその時分は、もう一騎団結しとったもんで、それが、敵に向かってやればいいっていうもうそういう信念しかなかったもんで。でそれをとにかく一生懸命、石投げとかを練習したりして。学校へ帰ると、竹槍っていって、竹で槍にしたのを、藁人形に向かってやーっと進んでだーってやって。5,6年のうちはもう空襲警報鳴る以外はそうやって練習しとったの。