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N.Iさん 小学校教育

私は伊深でずーっと終戦までおりましたもので。出て行かないから、そういう意味で市原さんのような空襲警報とかなんかのどえらい怖い思いをしてないわけですけど。むしろ私は、学校で戦時教育を受けたそのことの方が印象が深いわけやけども。体験したちゅうことは、戦時中ですからやっぱり戦争教育ちゅうか、そういうのをもう徹底されたちゅうことやね。私は市原さんよりちょっとだけ年上やでほんとならあれやけども、命に直接関わるようなそういう体験はしてないわけですね。まず小学校ずっと体験したということになると、飛行機が飛んでくると、「あの飛行機はどういう飛行機やろう」と、そういうことを想像する勉強の一環として当時は、音を出す機械がオルガンしかなかった。私たちの頃は。私は伊深ですから、伊深の小さい小学校で先生が、それらしい音をヴー…っといわして、たとえば大型爆撃機のB29。それの音とか、航空母艦から飛んでくる艦載機って呼ばれたあの飛行機、グラマンっていう飛行機があったと思いますがあの当時。その音と聞き分けるようなそういう勉強を音楽の時間にしたという。こういう音がしたらB29が飛んできて、どこで爆弾落とすや分からんで気を付けていましょうっていうね。艦載機や、まあ小型の戦闘機ですけどグラマン戦闘機って言いましたけどそういう、ちょっと音が違うんやね。だからそういう飛行機の音の聞き分けをまず勉強させられたということ。それから体作りということでは、よくテレビのドラマなんかでやりますが、藁人形を作って竹槍で刺す。そういうのを4年生のころからやりました。ちょうど4年生に、いわゆる徹底した軍師教育がおこなわれたもんで。体育の時間などに、校庭に藁人形が何体も作ってある。村人たちのそういうやつやと。その藁人形使って槍の刺し方を、ただこうやっただけでは刺せへんでって、槍の刺し方を教えてもらったっちゃ、教えられたと言った方がいいかな。そういうようなことを。それから、そのほか体育の中では、剣道とか、ようするに武道というかたちで剣道。柔道は先生いなかったで、まず剣道と、今のこの槍を刺す、銃剣術という。銃に、刀が付いてあるから銃剣というわけ。そういうようなことを、小学校のまもなく4年生から、はいったと。

M.Iさん 学校生活と艦載機

【終戦の時は、春日井にいらっしゃったんですか?】終戦の時は、ちょうど春日井に移ってた。駅の裏んとこに、かつらそうってそこへ移った。だから焼け出されるまで名古屋におるうちは学校へ行くと、警戒警報になる。警戒警報になると、運動場に分団で並んで、分団別で家へ帰ってった。空襲警報が鳴る前に、いっぺん警戒警報ちゅうのが今、敵がこれから攻めてくるよちゅう、予告がある。学校へ行くときは、今のような名札やっぱり付けてるんやけども、名札に住所と血液型が書いてあった。でもし、何かあったときにどこの誰かわかるように、今の何年何組なんのたろうとかそういうんやなしに。そういう名札を付けとる。で鞄と、ランドセルと防空頭巾と、両方持って学校行った。だから学校へ着いたかしらと思ったら、すぐ警戒警報鳴るちゅうことも。ちょっとやっとって、鳴ると。分団別に運動場に並ぶんやけども、あの時分は給食やったもんで、給食のコッペパンちゅうやつをみんな一つずつもらって家に帰った。名古屋城の後ろには練兵隊があったもんで、兵隊さんの駐屯しとるとこがあった。B29が来るとそれを打ち落とすっていって、照明を下から、対象灯ちゅうやつを照らす。で下から大砲を撃つんやけども、高いから届かん。ほうして今度はB29が、対象灯目がけてウワーッと急降下してくる。そういうことの繰り返し。

それから勝川いって終戦になる前に、名古屋の庄内川。お馬さんのえさの草をいっぱい学校持ってかなかん。草を刈ってお馬さんのえさに。えさを学校持ってく。でお茶の実は、飛行機。航空機の燃料になる。で学校に持ってった。庄内川に草刈りに行って、袋詰めて今の線路伝いで戻ってったら、艦載機って言ってね、人目がけて、バリバリバリバリって。だけども、艦載機が来たって僕ら知らなんだ。田んぼでお百姓の人が、「あんた、すぐ隠れなあかん、隠れなあかん」っていって言われて、中央線の途中にちょっとした鉄橋のようなのがあるもんで、その下へ逃げたの。ほんで艦載機が行っちゃって、あそこの、名古屋から艦載機がずーっと来て、だいたい多治見の方へ行く。多治見の中央線を機関銃でもってバリバリバリって。完全に人を狙ってきたの。ほういう体験を。

【馬は、何の馬ですか?】兵隊さんの馬。軍隊で兵隊さんが使っとる馬のエサを。お茶の実は飛行機の油を。搾って燃料にしとったんやね。それをみんな拾って持って行っとった。そういう体験をした。

ちょうど自分の家から今の名古屋城まで逃げるのは、3キロくらいあるかなあ。そんなけのとこで。でもう逃げたとこに行ったら、みんな町内会の人が「逃げてきた」ちって、市原さんとこのじいさんて…(沈黙)……びっくりされた。そうやって連れて行ったもんで。だからその時分が一番、苦しい時代やったね。

T.Nさん さつまいもと子どもたち

で、それで段々段々と、厳しくなってきて、18年頃からかな。サイパンが落ちた、ニューギニアで占領された、っていって、玉砕ちゅうのか。全部死んだ、死んだ、死んだちゅう話聞くようになってから、もう厳しくなって。こういう遊びもできなんだね。で、何をやったかちゅうと、さっきみたいに桑の木の皮をむいたり、どんぐりを拾いに行ったり、お母さんたは豆ひろいに行ったの?(いや、お茶のほぼ。)お茶ぼぼか。お茶ぼぼ取りに行ったり、そういうことを、やって。(そういうのを戦争中にやって、戦争が終わったら今度芋。芋ほりやら畑の耕しやら。)おじさんたは駅があって、ちょっと街やけども、富加でもほとんど百姓の人たちんたは山とかあるもんで。学校終わってどんぐり拾いに行ったって、どんぐりどこにあるや分からへんやら。ちょびっとしか持ってこれへんやら。ほうすると、帽子いっぱい持ってくるやら。そういうときに、「お前なんや」っていうのが、いじめやったんや。いじめって言っちゃおかしいけど。そう言って、「なんでよけ拾ってこんのや」ってやるもんで、うん。やられよった。

T.Nさん 野球するときも

それくらいやもんでおじさんたは、もう5、6年ちゅうのは、空襲警報ないときは、子ども同士で遊びたいわな。で遊ぶやら。で英語が使えんの。今やちゅうと、「アウトー、セーフ」って言ってやるやら。おじさんたそんな英語みたいなの使っちゃあかんちゅうの。でならなんて言ったかゆうと、しっかり覚えないけど、あの時分やったら「だめー」って言ったりやな。「だめー」うん。おそらくストライクボールでも、「悪いー」「良いー」って言ったんやねえ?しっかり覚えないけども。英語は使っちゃいかなんだ。ほんで駅に桜の木がいーっぱいに植えったったもんで、でここらへんからコロコロベースって言って、ゴムボールポーンってやって、それをぼーんとやって、ほんで、この木に行く、この木に行く、この木に行く、っていって、遊んどったわ。ん?ベース言っちゃあかんわな。とにかく、英語は一切ご法度やったんやね。ほやもんで、「打ったー、投げたー、取ったー」そういうふうやった。そういって遊んどった。これは、16年、17年ごろや。まだ戦争が激しくないもんで。まだこの時分は、まだ日本がどこどこへ進軍して、あの勝利したとか、そういう放送ばっかやった。

T.Nさん・奥さん 桑の皮むきとどんぐり拾い

一番大事なこと忘れとった。おじさんたの5,6年時分は、こういう軍服を作るために、桑の木の皮むきをした。学校へ行って、勉強するんやねえ。各部落のお百姓さんのとこ行って、竹をこういうふうに挟んでね、縄でカンカンに縛って。竹を2本ね、ここを縄で2本だけ縛って、ここへ桑の木を入れてこちらにぐっと締めてね、締めれるように縄をこっちも巻いて。こうやってしごくと、皮だけになるの。桑の木の皮だけ残っちゃってね。それを何するかいうと、その繊維を送って、そういう軍服を実際作ったんやと思うんやけども。生地にするために皮向きに行きよった。(私らの、小学校1年生くらいの時は、お茶のほぼ。この花になる、芽になる種やね。あれをいっぱい拾い集めて供出したんやね。で何にするかゆったら、飛行機の油がないで、そういうのをたくさん集めよということでね、子どもんたがね、そこら中のお茶畑行って拾い集めて。)どんぐりもそうよ。どんぐりも拾ってね、それを出しよったの。どんぐりも飛行機の油になる。(とにかく油がないでっていって。飛行機の油がないでっていって。そういうことは、やったね。)だからおじさんたはね、もう5,6年なんていったらね、勉強全然しとらへん。ほとんどこういうことやら、あの竹槍持ったり、石を投げたり、そんなことばっかして。

T.Nさん・奥さん 雪駄の思い出

「皇国の荒廃この一戦にあり。」日本の国のことやな。日本の国が発展するのも、廃墟になるのも、この一戦にありということを、山本さんは言ったんやね。で、どちらにしても一層努力せないかんよっちゅうことを。おじさんたも結構、石投げをしたり竹槍持って。お母さんは1年か2年か。(小学校、やない、国民学校の1年やね。)上がったくらいやな。国民学校やで。上がったくらいや。(上がったばっかしで、終戦。)おじさん知らんもんで。

(みんな、大きい人に連れてってもらって逃げたはいいけどね。折角新しい草履を買ってもらったんやわ。どこで買ったんか分からんけどね。それを、逃げるときにこんな溝の中に落としてまって。ほんでもう拾いに行く、帰るってこともせんのや。怖くて。ほんでそのまんま来て、「ああ、もったいないことしたな、もったいないことしたな」って。あのころは配給でしかもらえんかったね。履物なんかね。でそれをどこでどういうふうに手に入れてもらったか知らんけど、藁草履やない普通の雪駄みたいな。ああいうのを。結局そこで新しいのを落としてまって。)

T.Nさん 予科練へのあこがれ

僕らはただ低学年の誘導したりなんかして。うちの親戚の若井っていうのがね、ちょうど予科練に入ったんや。7つボタンで。ちょっと暇なときあったのかしらんけども学校へ来たんやね。で学校で来てみんなで、生徒全部のとこで集めて挨拶してくれた時に、7つボタンでかっこよかったもんで、おじさんも、憧れてまって、「よし、俺も7つボタンに行くぞ」言って、要するに予科練ちゅうんやね。でそれに俺はなら絶対行くよっていって。でもう2年、戦争が続いておれば、おじさんたも、当然行っとる。もう18,9で飛行機乗って死んどる人はたくさんおるんやでね。で、今いくつ?14やな。18歳って言ったら4年やら。そんなころにはもう兵隊に行った人があるんやね。おじさんもそれで憧れて、おじさんたの時は今みたいに6・3・3制やないもんで、6年で高校行きよったんやでね。そんな時分やったもんで、6年生卒業したらもう早やそういう予科練の訓練を受けることもできるんや。そんな時分やもんで。やけども終戦になってまったもんで行かなんだけども。すごく憧れて、「よし、俺も予科練行くぞ」っていって、もう2年も戦争が続いとんならおじさんの命はあったのか無かったのか分からんわ。それくらい切羽詰まった状態やったんやね。日本はね。

T.Nさん 学校生活

で、段々段々と戦争が激しくなってきて。おじさんはそん時5年生6年生やったもんで。戦争が激しくなってくるとラジオから、「大本営発表」ちゅうふうにまず出てくるんやな。陸軍の方から。「敵機、B29が、潮岬南方洋上に、数十機」とかいうふうに放送されるもんで。ほして、やがて2時間か3時間してくると、空襲警報言って、愛知県とか岐阜県とかに、サイレンが鳴る。ほうすると、僕らはちょうど学校の帰りやちゅうと、低学年を、ちょうど通学路に山があったもんで、その山に避難するとかさせとったんやね。ほしたらね、カラスヘビって言ってね、山にヘビがおって、真っ黒のヘビ。それがぺぺぺぺーっと木をつたっていったもんで怖かったもんで、今度下級生を道路の反対側の麦畑の方へ下級生移して、麦畑に皆伏せさして、空襲警報が解除になるとじゃあって言って、家に帰させよったんやね。で学校で空襲警報なると、5,6年の人みんな低学年の生徒を、竹藪。竹藪ちゅうのは、根がいっぱい張って結構丈夫いもんでそういうとこへ、皆さんを避難させる。そういう誘導役なんかを上級生はやってたんやね。普段空襲警報でないときは、上級生の僕らはほとんど勉強してなかったんやな。先生に連れられて川へ行って、対岸の方へ石を投げるの。みんなしてずーっと並んで。それはなぜかゆうと、敵が攻めて来たらその石を投げるということをやってたんやね。でも今思うとそんなん向こうが鉄砲撃ってくんのに石投げなんてやったってそんなもん追いつかへんのやけども、それでもやっぱりその時分は、もう一騎団結しとったもんで、それが、敵に向かってやればいいっていうもうそういう信念しかなかったもんで。でそれをとにかく一生懸命、石投げとかを練習したりして。学校へ帰ると、竹槍っていって、竹で槍にしたのを、藁人形に向かってやーっと進んでだーってやって。5,6年のうちはもう空襲警報鳴る以外はそうやって練習しとったの。