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A.Nさん 空襲

それでさっきも言ったように、戦争が進んできたちゅうのかね、出征してったのが18年で終戦が20年でしたもんで、その間はやっぱりさっきも言ったようにご飯っていったってまともなご飯食べれなかったんです。芋とか代用食とかすいとんとかそういうものばっか食べて生きてきたちゅうことやね。これも、作ったものを食べるだけでしたもんで、自分でとってたべるとか作って食べるとかそういう事じゃないんですもんでね。比較的苦しみは少なかった。ただだんだん怖くなってきたというのはさっきも言ったように、各務原とか岐阜というのは空襲に遭いよったわね。ほいでね、西の空が真っ赤になってね、岐阜も爆撃に遭ってね。それから各務原の飛行場ね。蘇原の駅のあそこらへんはもう酷くやられたと。ほんでここの近くでいうとカヤバ工業もね、焼夷弾が落ちたんです。知っとるかね。(知っとる。ダーッてね。)ねえ。あれはもう、何年やったっけまあその時もね、空が真っ赤でね。(藪へ行ったの。)そうでしょ。藪へ逃げたんや。そうです。逃げるとこがないもんで。ほんで防空壕へ、防空壕っていってもそこらへんの田んぼや畑、田んぼはないですけど。畑やなんかはほとんど防空壕って言ってね、あんなとこそんなん爆弾なんて落とされたら一発でやられることは分かっとっても、そういうものは作りよったんです。ほいで上はなるだけ分からんように、芋を作ったのね。最初そういうカモフラージュはしとったというような覚えはあります。まあそういうときはほんとに苦しかったわね。

S.Wさん 岐阜駅

軍隊から帰ってきてあの頃汽車なんかまともに乗れやせん。窓から飛び込んだり下りたりするようなそんなような混んでまって。ほんでそのようなで、わしらのような体の小さいものは窓からぴょんと入れたで、ほうやって乗り降りしたりね。ほんで1番驚いたのは岐阜の駅。降りたことはええが、あんまり駅を利用したこともなかったけれども、春日に行くときには2,3回は行ったことあるもんやで、ホームへ降りて来たら町はむちゃくちゃに焼け野原ちゅうやつやね。あれになってまっとるし、ホームなんかさっぱりどこへいってまったやらわからへん。駅員に聞いてなにした。がっかりしたあん時は。まあほんとに。

(自分で整理せないかんてもう早や歳になったもんで構いたくないでしょ。ここを若いもんがやるとね。ほんやもんで知らん顔して逃げてまうもんで、よけ何処へしまったかわっからへんようになる。でももう必要ないわ、私が死ぬまではっていうくらいのことやわね。よう聞いてくださったねほんでもね。ほんで上手に話がしたいけれども、まとまった話ができんもんで申し訳ないと思ってね。)

N.Iさん 岐阜空襲と名古屋空襲

戦時中一番怖いなと思ったのは、岐阜の空襲の時。岐阜の空襲の時は、いつも伊深の空の上を、何機飛行機が行ったか分からん。飛んでた。それは爆撃機やなしに、小さいね、グラマン戦闘機やったと思うけど。大きい爆弾やなしに焼夷弾。燃やす。バーンって破裂して壊してしまうんやなしに、爆弾落として火をつけて燃やすという、そういうあれやったと思いますので。その様子見たら、そうかなと思って。あれが、破壊するんやなしに消失させるための空襲やったかなあとね。それが何機も飛んどるもんで、一機や二機やないわけやな。何機来たかそんな覚えもないけども。当然間違って爆弾落とすかも分からんし。そういう怖さは、そのときもあった。一機や二機ならいいけども、それがもう、かなり長いどのくらいの時間やったか。そう思いながらね。でしばらくすると、西の方の空が夕焼けで染まったんや。赤くなって。そのくらい、岐阜の火事はすごかった。同じことが名古屋の空襲のときにも。名古屋の方の空が、伊深から見てもずっと山の方が、あかあかとしとった。そのくらい一斉に燃えたわけやね。名古屋は2回そういうのがあったと思うけどな。

【名古屋の時は、(伊深の上を)飛んでいかなかったんですか?】名古屋の時は、飛ばない。名古屋の方は大きい爆撃機で。今の自衛隊の飛行練習はうちの上よう通る。やっぱり、飛行機の飛びやすい場所かなと思ってみたりするけども。とにかく岐阜の空襲のときは、うちの真上とは言わんけど、どの辺飛んだか真っ暗ですから。飛行機は小さい明かりをつけてるけども。そんな外へ出て見とるのに叱られちまうような状況ですから、家の中で。今の中学1年生のときでした。【防空壕ではなく、家の中に逃げた?】うん。自分の家にはそんな避難小屋も何にもないですから、家ん中に。まあ伊深のような田舎ではそうです。中には山際に家のある人では、家の裏に横穴を掘って避難小屋にしたという話を聞いたことはありますけど、まあ伊深にはあんまりそういう家はなかったですね。家がずっと並んどるわけやないもんで。

T.Nさん・奥さん きれいだと思った

まあ、そういうのは辛かったな。今思うと。でもこの時分は辛いとは思っとらせん。今の感じで言うと、ほんとに辛かったなあと思う。この時分は、もうこれが当たり前やと思っとったもん。うん。勝つためには、兵隊さんの服は作れるということで、一所懸命やっとった。だから、中学くらいちゅうと、早い子やと学童動員ちって、女の人は紡績工場行かないかんかった。うん。働きに行った。家の姉さんら二人とも岐阜?行ったけど、学童動員ちゅうので、紡績工場へ、行かないかん。【そういう工場は、岐阜の空襲の時などはやられなかったんですか?】(やられたんやないかね。紡績工場。)そりゃやられとる。駅の近くやもん。姉さんた行っとったとこは。

【岐阜の空襲は、花火みたいやったってことは、夜?】(夜。それこそ、電球に黒い幕をやって、サイレン鳴るもんで、電球を暗くするためにまずは被せといて。ほんで行くよーって言われて、一緒に付いて行って、行ったんやね。行ったことはいいけど、こっち見たら西の方見たら、いかにもきれいやったで、ものすごい、頭から離れへんわ。あんなの初めて見たもんで。今の岐阜の花火より。ふふ。あのころはね、家がそんな建っとらへんで邪魔ものが無かったで見えたんやね。今はそんなふうやったってそんな分からへんやろ。そう。)あの、1万メートルぐわーって来るんやもんでわかるんやな。そこの山へ登ると、名古屋駅が全部見えるよ。挟間。もう名古屋駅のビルが。天気がええとね。(天気がええと、ツインタワー、あれ見えるよ。)

(今のお嬢さん方は幸せやね。ほんとに。あのころ食べるもんがないもんやで、とにかく、少しでもお金稼がなきゃってことで、私なんかね、なんていうの。学校から帰るとミシン。既製品を、1日に何枚っちって、縫って、またそれを持ってって、でもう1週間に1ぺんか2へんかくらいずつね、うちの母が持ってっては、それをまた、お手伝い。勉強も何も、やったのかやらんのか分からへんかった。高校へ行くていうときも、もう、そんなふうでお金あらへんで、行かんて言っとったんやけども、とにかく試験だけ受けて、行くには行ったんやけども、入学式の次の日からはずーっと休んでまった。なんでっていって、先生わざわざ言って下さって、ほんで月謝が払えんいって。でまあ、ほしたら、先生がね、3か月代わりに出したるって言って。そんな先生簡単に言えないわね。それで、奨学金の手続き。そんなもんあるって知らんかって、奨学金の手続きして行ったんやけども。)【高校行く人の方が少ないんですね?】(うん。少ないとき。中学の先生は、就職なんてなかなか面倒やもんで、自分に都合のいい方にぼってまったんやて。私は就職する就職するって言っとったんやけども。)富加6千人おって、大学行くのなんて一人か二人やもんな。それくらいやった。(そう、少なかったよ。)大学なんか行けやへん。(お父さんたの同級生で大学行ってみえる人って何人みえる?)3人おる。(3人か。それくらいや。結構ね、同級生って多かったんよ。私の同級生でもね、富田村の、また別の駅前ていうとこがあって、そこでかれこれ10人くらいおったで。結構兄弟が多かったし、子どもも多かったし。うん。あの、なんていうの。「産めよ増やせよ」って。)

T.Nさん 岐阜空襲

それから岐阜の時はおじさん全然知らんかった。もう岐阜の空襲はほとんど近くやもんで、(防空壕で、ぼおっとして見とったら、ものすごいきれいなの。小さいころやで、小学校あがったばっかやもんで。ほんでもう花火見とるよりきれいやってね。戦争っていう何やあらへん。)あのね、焼夷弾をばかばかばかばか落とすもんで、すごいあれやった。