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S.Wさん 船と汽車の話

【向こうへ行くときは、どの港から出たんですか?】何回も行き来しとるで、何回もって2回だけやが。最初義勇軍に行くときは敦賀の港。福井県敦賀市。敦賀を出て北朝鮮の、今はまあそんな呼び方やないが、清津から羅津。ほれからみんな満州鉄道に乗ったわけやね。羅津で。ほーんで船が移動揺れてね。熱田丸ちゅうどえらい大きな船やったけど。敦賀を出港するときに、そのころはまんだ港で出るまであの、海にいろいろおるやつが出て来ちゃあ泳いどるやつを見とったら、クラゲがうようようよ~って出て来ちゃあ気持ちよさそうに泳いどる。子どもやわそりゃね、まんだ。ほうやもんやで釣れんかちゅうことになって。ご飯粒、夕飯食べるのまっとって、そいつを持ってきて釣ろうかって。糸にご飯粒を縛り付けて落といたると、ちゃんと咥えて上ってくるけど、1mから2mになってくるとどぼーんって。へっへっへ。そんな楽しみをしてよ。家を捨てて寂しいとも悲しいとも思わん。楽しいことやと思って、遊びながらしよったら、?ほうして、どんなけともいかんうちに、甲板に出とる者みんな船室入れちゅうことで。甲板が海になったようにでーんと荒れるようになった。ほうしたら船が揺れて揺れて揺れたかいて船の中のこういう前やけども、ところどころこう台がとってあって、このくらいの高さの。ほうして通路が割合広くとってあったんやね。ほんでひとしまひとしまに何人やったかあれしたかわからんけど、ほんであれ夜出て次の朝10時ごろに清津に着いたかな。もう酔っちゃって、船がどんなふうにして動いてきたやら何があったことやらさっぱりわからん。何か人の話によると「渡邉はおかあ、おかあ言っとったぞ」って。ほんとに死んだかしらんと思うほど苦しかったんやね。ほんで清津で降りて陸に上がったら、陸地が動いとるんやないか。ふらふらーふらふらーって歩いて。ほんで清津の町をふらふらっと歩いて。ほんで半日くらい歩いて清津を発ったかな。夕方早や羅津へ着いたんや。羅津へ着いたら今度は立派な開拓会館ができて、立派なホテルができて。そこで泊まることになった。ほんでもまだえらいことはえらいしまあどうでもようなって、みんなから離れとった。で便所行くと水洗便所で、こんなことは初めてやでどえらい便所に入ったってよ。ほんで笑ったことやったが、夜が明けるまでちったあ寝たやな。

朝、太陽が昇りかかっとったで何時、時計は持っとらんし、何時っていうことも分からなんだけども。汽車に初めて乗ったわけやけども、満州鉄道に。いやあ、良い汽車でね。別に広いこともなかったが、ここらへんの新幹線と一緒やわね。6人ずつ横一列に乗れる席で、どえらい重車に乗ったみたいやった。汽車の話するとまたいろいろ出てくるけれども、前を見て来よるとレールがさーっと沈んでくの。ほんで通り抜けるとぼこんと跳ね上がるんや。土地が軟らかいもんやでね。おそがいやったよ、脱線するか知らんと思って。そんな感じで、「ああ、珍しいことや珍しいことや」って何やったが、駅から駅までの間がひょっとすると1時間くらい乗って走らないかんとこがあるかもしれん。とにかく一面坡の訓練所に着くまでに、7か所くらい止まっただけやでね。もっとも特急やっちゅうこともあったけれども。ほんで今はそんなことないが、機関車の上には大きな銀がついとって。乗務員が綱引っぱりよる。カーブへ来たり踏切があるとこへ来ると。じゃーんじゃーんじゃーんと。ゆっくりしとるなあと。はっはっは。のんびりと綱引いてじゃーんじゃーん鳴らいて行くんやね。そんなやつが面白かったな。初めてやったもんやで。こっから近いとこで1区間、太田駅くらいまでは完全にあった。やっと乗っとる。ただ、汽車の中が朝鮮半島から満州国へ入ったころにはニンニク臭うてよ。まあ嫌で嫌でかなわなんだが、今はニンニクのにおいそう嫌いではないけどもあのころは嫌やったね。ほうしてまんだ胸に残るのは、あれは豆満江か?なにか川、朝鮮の民族衣装を着て、その高いとこ汽車通って行くわけやわ。今の中国の東北部入るときは。ほんで川が真下に見えるもんやでね。民族衣装がそれはとってもきれいで、こんなようないろいろな濃い色やでね。それを見とると、なーんたらきれいやろ。あれが朝鮮人かよなんてよて。ふっふ。ほんであの何しよるかちゅうと洗濯しよるんや。なんか棒の野球のバットをちょっと短こうしたこんくらいのやつ。あれで石の上でぽんぽんぽんぽん叩いて。それで洗濯終えたものは、何に入れよるそこらへんなにや見えなんだけども入れ物に入れて頭に乗せて、タッタタッタと帰ってきよる。入れ代わり立ち代わりで北朝鮮の住民かなんか知らんが、あれが珍しかった。ほして、汽車のデッキが、この汽車は高いら。1mかデッキがあるわけや乗るんやけども、野原から飛んできてほやほやほやっと乗れるように、低うこんなくらいしかあらへん。ほんで脱線かなんかしてもそうどえらい大きな事故になんかならへんのやな。まず脱線したなんちゅう話はしたことない。ほして、寒さが厳しいもんやで二重窓で、窓開けてもなかなか外の景色が見られない。難儀して開けて原住民に叱られたり。風が入ってくるとあかんでって。風入ってくるてええやんと思って。へへへ。そんなけが珍しかった。

S.Wさん 関東軍

でまあそういうようなことで、5年間まではおらなんだが、開拓に関係したことはまる4年。ほしてちょうど終戦の年、1945年の5月に、「関東軍へ入隊せよ」ちゅうことではじめて、軍人ということになったわけじゃけども。その軍人の期間はわずか2か月と半分。2か月半やったね。ほんで直接戦争に携わったわけではないけども、戦争以上に、なんちゅうかな、悲惨な状態の中でその2か月を過ごしたということ。その入ったことろが、一時、昭和の終りから平成の初めにかけて日本中で話題になったとこやけども。何をやったかちゅうと、率直に言うちゅうと、中国の捕虜を殺したちゅうことやね。ほんで殺すことは直接携わらなんだけども、今の捕虜の収容所の爆破やとか、捕虜の死体の…始末。そういったことをやったわけやな。ほんでこれ話があちこちするかもしれんが、ソ連が日本を侵攻するちゅうなにをはじめたのは、まず1番に今の中国の東北部満州の、日本がはいっとる、まだそのころそんなに大変な人数ではなかった。私んたが行った時が第四次。義勇隊で言うと、第四次やで。あと十三次くらいまで出てきたと思うけども。

こんなやつ見てもらっても、わからんな。まんだ大事なあれがあったけども、家を立て替えたときにいらんいらんてみんな、大勢で片づけたもんで大事なもんみんな捨てがってまって。母親がしまっておいてくれた手紙までちゃーんと、そのころ建てたのが平成元年やったで、それまでは大事に家でしまっといたら、誰か手伝いに来てくれた人か知らんが、「こんな古い手紙みたいなのええやら」って、どうも燃やいてまった。こんな大袋にいっぱいしまっとったのに、それが一番大事なあれになった。写真も何にも大変向こうで撮ったけども、また兵役終わったら帰ってきて開拓の仕事ができるやろうちゅうことで。みんなしまっといたんやね。そやもんで写真はあらせんわ、証拠になる手紙、「せっかく母がっとっといてくれたやつやで」って言って『重用』と袋に入れてしまっといたのに、燃やしちゃってあらへん。そんでがっかりしちゃってよ。いろいろ文章書くことが好きで、死ぬまでには何とか書き残したいと思って、そうやつを大事にしまっといたんやけど、ぜんぜんもうあらへんのやで。ほんと記憶だけで話さないかんようになってまったね。

S.Wさん 満蒙開拓青少年義勇軍

兵隊は、わずか2ヶ月ちょっとかなあ。5月6月7月8月、やで2か月半。けれどそのうちに、誰も経験せんことを経験してきたわけ。

今の中学3年生。今は中国東北部やけども、元の名は満州国ちゅうの。これは日本の政策で、どえらいあっちの方へ兵とかやって進めて。侵略やったんやね、今から考えてみると。ほんでそれにえらい興味を持った。家出てかなかんちゅうこと何にもなかったけども、行ってみとうなって。今で言うと何かなあ、中学1年や。その時に志願をしたんや。でそれからその次の年に予備訓練。今の加茂農林高校やったな。あそこで宿泊訓練を受けて、学校の勉強どころやなかったけど。昔は尋常高等科1年が、中学1年や。高等科2年が中学2年やね。ほんで大体は、現在の中学2年になれば卒業ちゅうことになったけど。金のあるものや頭のいいものは、みんな高等科3年て。あとは中等学校行くとか、職を見つけるとかそういう時代やったもんでね、私は、満州の大平野へ行って働いて、ちいと名をあげて親たちを呼んで、第二の故郷を創るという。そういう気持ちで出て行ったんやね。うん。その満蒙開拓少年義勇軍に三年間。これはそういう規則があって。三年間たてば、各個人一人に30町歩の畑が無償でもらえて、そこで1代過ごしてもらう。そういう約束やったけど、何にもならなんだちゅうことやけど。そんなで満州へ出てったんやね。土地がもらえるどころか、やったことはみんな軍人の訓練と同じように、まるきり兵隊そのものやったんやね。それが3年間。ほんで3年過ぎて、入植する土地が決まって、6月に入植して、初めてくわを手にすることができたちゅうことや。そのうちに3年間に1度、故郷に帰れるちゅうことで、家に帰ってきて1ヶ月ほど遊んで、帰ってったわけやけど。その年、高等科2年。内地の人たちよりも1年か2年早めに軍隊へ入らなかん。で喜んどったのは、甲種合格にはならなんだ。身長が足らなんで。わずか1m53で、人に笑われるような小さい男やったもんで。乙種ちゅうので。この乙種ちゅうのは、軍隊で言うと2番目の段階やね。1番が甲種合格。乙種は2番目。ほんで3番目になると丙種。そのあとはまあ軍人になれん。病気を持っとるとか肢体が不自由とかそういう人たちやったね。