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A.Nさん 父との最後の昼食

私は太田にいまして、今は蜂屋にいますけども。父親が戦争にいって。第一番にちょっと見ていただきたいのが(写真)これが私です。これがおふくろです。これが、戦死した親父なんです。で、これがおばあさんが当時いましたのでね。これが何年かちゅうとね、昭和18年の11月30日だったと思うんですが、ちょっと日にちは定かでは。でも12月は間違えない。まあそんなときにね。これは出征していく唯一の写真なんです。

私の親父はどうやったかな。3ちょっとくらいやなかったかと思うんです。ほんでおふくろが、27、8やなかったかな。これは、私。小学校の1年生です。そんときになんちゅうですか、まあ「赤紙一枚」というんですか。あの国からね、ようするにあんたは戦争に行って、国を守ってくれということで、戦争に行ったわけです。それがまあ、最後のお別れやったわけです。最初に行ったときは、今、ここ(写真)には見えないんですけど、近所の人やらいろんなたくさんの方がね、「頑張ってこいよ」という歓呼の声というんですか。そういうもんで送られて、最初に祐泉寺にね、?ちゅうのがあるんです。そこへ「これから行ってくる」という誓いを立ててね、太田の駅を出発して。私も岐阜駅まで父親を見送っていって。もちろん小さいときでしたので、叔父さん、親父の弟さんに連れられて。岐阜の駅まで一緒に見送りに行ったことは、覚えてはおるんです。それから、昼飯を岐阜の駅の、今はまあ平和通りですけど昔は凱旋通りって言っておりましたのでね。あそこで最後の昼食を食べたというのが、あのほんとの最後でした。

【お父さんを見送るときは、どんな気持ちでしたか?悲しかったですか?】その時はまだ小学校の1年生でしたもんでね。まあ逆にね、みんな「万歳万歳」って送ってくれるもんでね。まあ嬉しかったちゅうのはむしろ、なんていったらいいね、印象に。悲しいとかそういう気持ちは全くなかったわね。それと裏腹に、おふくろたちはなんていったらいいね、それ以上に悲しかったやらあと思うんです。私は今言ったように一年生ではね、そういう実感全くなかったね。

それでどこへ配属されたかというと、広島県の呉で集合して輸送船に、これ11月に出発しとりますので、12月の初めごろでしたかね。輸送船に乗せられて、目的は海南島というところへ、行く途中でした。船もね、?丸という、家いけばわかるんですけども、そういう船に乗って、どのくらい乗ってたんでしょうね。300人くらい乗ってたんでしょうね、輸送船でしたもんでね。それで途中台湾沖でね、バシー海峡という海の名前ですけど、そこで魚雷でやられて。船をまあ真っ二つに、真っ二つにされて。それで亡くなったということがたまたま、戦友の方が瑞穂市に、今穂積というとこですけどそこにみえて、その方は、助かったんです。船が沈む時は非常に渦巻きができるらしいですね。ほれで、そういう訓練は、まあその戦友の方に聞いたんですけれども、海に万が一そういうふうで沈むととにかく、外へ逃げよ、逃げよということでね、船が沈んだらできるだけ外へ逃げないと、こう渦で吸い込まれると。そういう事で。まあその方はたまたま泳ぎも、ああ、その方もできなんだね、まあとにかく必死で泳いで、船から遠ざかって、その方は助かって、その方が初めて帰ってこられて、うちの親父はそういうふうで亡くなったちゅうことを知りましたのは、戦死の、知ったということはそういう事でした。

R.Mさん 当時と今、どちらが豊かなのか

家んとこは百姓やないもんで、昔の人んたは子どもはみんな袴に着物やったでしょ。大人ももちろんやけど。ほんでそういうものがあって、そういうのでズボン作ったり、おばあさんのコートやなんかで学生服作ってもらって、修学旅行に行ったりなんかした。うん。まあ、ほとんどズボン作ってもらった。袴で。…でも今思うと、あの時代の方が何にもものがないもんで良かったかもしれん。今は何でもあるもんで、お金さえありゃなんでも買えるもんね。あの時分小遣いもらっても買えなんだもん。貰っても買いに行くとこなくて。

R.Mさん 本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

R.M子さん 終戦と進学

ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。

今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。

R.Mさん 勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

R.Mさん 焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

T.Mさん 戦争について

【「日本は駄目かもしれん」というのは、周りの人も同じことを言っていましたか?】戦争のこと?そうやね、そりゃ戦争はやっぱりやったあかんよね。みんなが犠牲になるでね。みんなが犠牲になって、みんな不幸になるで。もう日本は70年来戦争はやらんってきとるで、やってもらわん方がいいて思っとるわね、私らも。それが割と反対する人が少ないでしょ。どっちでもええ人がいっぱいおらへん?そんなような気がするね。私ら見とると。まあそりゃ年やもんで、あんまり前出てかへんでね。言わんけど、もっと若かったらね、また「反対」って言って、なんか叫んでやりたいような気がするけど、ね。不幸の人いっぱいおるでね戦争では。

T.Mさん B29

【B29が来たときは、山之上の上も飛んで行ったんですか?】うん、高いとこをね。もう昼来よったよ、B29が。空襲警報ちゅうともう来よったけど。この辺は落とさんけど名古屋、あっち行くと落とすんやね、結局爆弾を。高いとこを線を引いてね、シャーッと線を引いて通ってくね。両方でプロペラが4個あってね。ダーッてそうやって編隊になって行くもんでね、おそがい、おそろしいやね。あんなの下におったらだめやと思うもんでね。高いとこ行きよったんやね。8月のほんと終戦の間際は、艦載機が来たね。戦闘機がバーッと来て、このへんやったんやね。そん時に私らはもうあかんと思ったんやでね。こんな田舎の方まで飛行機が来ては駄目やなと思っておったけど。ほうしたら天皇陛下のあれがあってね。日本は負けたちゅうことで。早速もう学校の兵隊さんも解散しちゃったでね。

あれは機械の部品ね。ああいうのを運んだよ。俺ら学校でお手伝いでね。兵隊さんの車が来てようけ部品を持ってくるの。わからんけど部品をね。鉄の重たいやつとかいろんなやつをね。そういうのを農家のうちの広いとこがある家に預けよったの、一次的に。そういうのを運ぶのを子どもがやっとったの。持てる範囲で。

T.Mさん 玉音放送

【終戦の玉音放送は何処で聞きましたか?】うちは在所で、ラジオでね。何か知らんけど、なんか負けたってね。玉音聞いたで家で。あんま沢山なかったもんでラジオはね。たまにちょっとあったけど。家で聞いたそれは。なんか、今でも覚えとるけど節がね、なんか変わった録音って聞いたね。普通の録音やないみたやね。ほんやもんでねちょとへんな節やて。なんかとんちんかんっていうことは無いけどなんちゅうやな。へんな人やなへんな人やなって思いよった。節がええふうにしゃべりよるのに聞こえなんだもんねなんか。負けてまってね、どうなることやと思っとったけど。

T.Mさん 単位制

そうすると単位制やったもんでね、農業やりたい人は農業科の単位とらないかん。で国語とか数学とかあの体育とかって決まったやつは、全部やらないかんもんね。その他に、自由時間ちゅうんかね、単位を余分なとこで、例えば1週間5単位、って決まっとるね。国語数学5単位とらな。理科も社会も体育もやって言ってとるでしょ。その残りの時間いろんな授業やれたの。例えば商業科の簿記なんかやりたい人は簿記のやってもらってもええし、農業やりたい人は農業のとこやってもええし。例えば普通科の人やともっと他の勉強をね、同じような国語の勉強をもっといいやつやるとかね。そういうふうにずっと分かれてやっとった。ほんでも時間が1時間1時間違うんやて。自分で選択性やもんで、そんで先生がなんかバランスとってくださってね、教室も毎日変わったね。ホームルームはABCでちゃんと朝ホームルームの部屋行ってみなさんで一緒に。ホームルーム終わると、早や1時間目からどうぞ自分でって。例えば同じとこの部屋の子でも、国語は一緒、体育はここで一緒とか数学は一緒とかってあるけど。バラバラになって行きよったんやね。なんかちょっとへんやったね。そういう変則的な学校になっとったね、加茂高が。ほんで加茂高出るときに、単位の取った人は単位のやつをもらえて、取らん人は加茂高等学校の普通科やったの、全員。うちら百姓やっとったもんでね、農業のやつ取らないかんって言って農業とっとたやら。そんやもんでうちら農業科卒業。単位を取ったもんで。卒業になったんや。授業はみんな一緒にやっとたんやね、ずーっと。農業の授業だけは違う。農業科の子と一緒にやっとったけど。普通のはみんな一緒に普通科の子たちとやっとったの。ほんで友達が大勢いるわけ。国語の時間行くとあっちの子と一緒で、体育はこっちの子と一緒でって。ほんで学校中の子、同じ学年の子はよう知っとるわね。みんな知ってるわ、あちこちいくもんで。