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K.Hさん シラミと南京虫

その当時蚤はいっぱいおったけれども、私ら子どものころにはシラミなんておらなんだ。南京虫とかおった。私が初めて知ったのは、釜山まで行って汽車に乗って、今のソウルに行くまでの間ね。もう1時間くらい経ったらね、こういうところがかゆい、ここがかゆい。足首のとこがかゆい。ほんで南京虫に食われるとね、ちょうどこのくらいの爪くらいの大きさ。赤くなってもう痒うて痒うてしゃあないの。それが汽車の座席の隙間にそれがおるの。客が入れ替わり立ち代わりするでしょ。あれは食べ物は人間の血やから。で入れ替わり立ち代わり食べ物が乗るから。そこで血を吸ってまたそこで繁殖してくと。そのころはね、簡単にシラミとか南京虫を殺す薬がないから。私らはその北朝鮮へ行って寮生活をして、シラミ退治はもうとにかくシャツから服を茹でると。湯を沸かして湯の中入れたらシラミは、卵は死ぬと。だけどそのまま10日たってまたその風呂場行ったらね、みんな風呂場でシャツを棚へ入れて風呂入る。前の人がシラミの付いたシャツを入れとるからシラミが3匹か4匹落ちとる。そいつへ私がシャツを入れるもんだからそいつにくっついて着ると。だから3日もしたらまたシラミがおるというようなそういうことをね、もうシャツとシラミと南京虫には、ほんとに泣かされた。ところがね、慣れるとそんなに痒くなくなる。(免疫性ができるでな。)そう、免疫ができるで。(だけどそれも、今はそんなこと何しよう思ってもほんとに辛い経験やわね。辛かった経験やったわね。ほんとにね。)南京虫ていったらね、長さがだいたい5センチくらい。それを潰すと、あの緑色のカメムシを潰すと臭いやら。ああいうにおいがするんや。(まあそんなことかまっておれなんだでね。)それと、今みたいにそういう薬が無かったもんで(DDTとかいっとったよな。)薬が無かったの。(今でもあるでしょ、ああいう薬は。)だいたいDDTは人間の体に有害やったんやね。(それを平気でかけよったんやでね。うん。これでも、病気もせずによう生きたなあと。)私らが北朝鮮から南朝鮮に来てから、日本の引き上げ船に乗るときに、船にダダッと階段で乗ると2人消毒専門の人がおって、頭から白い粉をシュシュッとここにシュッシュ、ここにもシュッシュ、それからズボンにもシュッシュと。その人間に有害だというDDTという粉薬をね、ふっかけられたの。頭からふっかける、シャツのここへ入れる、ズボンのバンドの中へ入れるね。みんなシラミを持っとるで。そのシラミはいろんな病気を持ってくると。だからそれを日本へ入れさせないために船の時からもう全部乗った途端に薬をふっかけられて。(ほんでまたこのシラミちゅうのは縫い目縫い目に食いつくらしいんやね。例えばこういう縫い目とかそういうとこに。ひっついてね、頭捕まえたとこへなかなかとれんの。)わきの下のこういうところへおる。だからいろいろ想像してもここがかゆいから見るとここに3匹くらいおる。シラミもね、一応大きいときは長さが5ミリくらいあったかな。

K.Hさん 終戦

その後、戦争が終わるということで、8月15日の玉音放送というのがあったわね。あったけれども、私らのところへは遠いで15日の12時には、「特別な放送があるから全員消灯をやめて放送を聞け」ということで、私らは聞いたけれども、なんせ東京で発送した電波が海渡って北朝鮮まで届いて、その当時は全部有線だったから線でそれぞれの工場ににして皆が聞いたんだから、がーがーがーざーざーざーという雑音で、もう聞いとった皆もなにがなんだかはっきり分からんと。けれども、一応どうもこの話の様子からすると、いよいよこれで戦争が終わったみたいやということやった。だから私らその放送は聞いたけれども、何にも実際はわからなかった。そういうことで、終戦をどうしようかということでいろいろ迷っているうちに、8月の17日あたりに満州で秘密につくってたあの北朝鮮の金何とかちゅうのが代表におるわね。その人のおじいさんの金日成というのが満州で自分たちの共産党の集団をつくってその人たちが、私らのとこへ来た。それから8月の18日に、ロシアの兵隊が長さ4メートルあるようなおっきな戦車で、私らのとこへきた。と同時に、馬車にジュースを作る罐を積んでね、馬車でことこととひきながら、一人が兵隊が後ろから薪を抱えとって罐へくべてって、ジュースを作りながら来る。そういうのともう一体はパン焼き釜があって、大きなちょうどこの机位の釜でね、ここで火を入れるここで煙が出るというふうでパンを焼きながら、それが馬車でひっぱってくるわけやね。そういうので来たりとかね。それからもう兵隊が私らの部屋へ来て、まあ部屋におるわね。もう銃をつきつけて、「動くな」と。言っておって、もう机を探す、体触る、押入れを探す。時計と万年筆とみな持ってった。その分はねそういうことがね。まあ2千人くらい日本の従業員がおって、その人たちのそれぞれのあの社宅ちゅうのがね、工場の前にざーっと並んどった。その家も1軒1軒行って時計と万年筆そういうものを持っていくということをしたと。

私らはね、昭和20年8月の22日ごろにね、北朝鮮の一般の人たちが集団で私らの会社のね、寮に食堂があるでしょ。食堂の隣に倉庫がある。その食堂と倉庫をね、集団で目が暗いうちに、わーわーわーわーという声がしたもんでびっくりしたら、食堂と倉庫にものすごい大勢の人が来て、ガラス戸をぶちやって倉庫の中入ってって米を抱えて行くやつがある、鍋を抱えていくやつ、それからどんぶりを抱えていくやつね。だから21日ごろから、私ら寮に300人くらいそのおったんやけども、それが今まで工場勤めとるから朝晩の食事を作っとったんやけども、それがもう出なくなったの。自分で加工して自分で食いなさいと。それでもうはたと困ったの。でもうしょうがないからそこに闇市場があって、そこへシャツいっぱい持ってくと、向こうではね、1升というと5合で1升というの。大豆を5合枡に山盛り盛って、このシャツはいいシャツやから大豆を2杯くれると。そういうものと換えて食べると。それから、冬になってもう11月12月になって池が凍ったら池の中に鮒がおったわ。鮒とドジョウ。ドジョウいっても日本におるドジョウはこんな長いけど向こうのドジョウはこんな太くて短いの。そういうドジョウを食べて、ナラやクヌギのもとにこう細長いふんを出しとるテッポウムシっておるわね。こんな虫なんよ。それを、私ら子どもの頃にはおやつ代わりに、父親が山仕事に行って割木を割るときにそういう虫が出てくるでしょ。その虫を弁当箱入れて持ってかえってきて、で私らそれを囲炉裏で焼いて食ったという。それの成虫が、こんな黒いカミキリムシという。それも子どもの頃にはおやつとして焼いてくっとった覚えがある。向こうへ行ったらね、池の中にこんなくらいの大きいゲンゴロウがいっぱいおったの。鮒やドジョウは食ったけどゲンゴロウは誰も食ったという経験がないし、ゲンゴロウはちょっと変なにおいがするんよ。ところが、皆腹減ってるし、私も腹減ってるし。「待てよ、俺は子どものときにカミキリムシを焼いて食った。だから変なにおいはするけれども、ゲンゴロウも、もしも焼いて食ったら食べれるかもしれん」と。ほんでちょっと捕まえて持ってきて焼いて食ってみたら、結構カミキリムシみたいに香ばしくておいしかったと。ほんで友達に「おい、お前ら笑うけれども食ってみたら結構、俺子どものころにカミキリムシを焼いて食ったのと同じようにおいしいぞ」と言ってやったら、食べた人が「うん、これはうまいな」ということで、次の日からもうゲンゴロウをこんなもん取ってきて、ゲンゴロウまで焼いて食ったと。それからもう毎日が?でね。今日1枚ズボン今日1枚シャツというふうで。12月からは、仕事があって仕事に行くと、給料の代わりに1日に500gトウモロコシとか大豆とか、皮の付いたまんまの粟とかね。そんなものを、給料代わりに持って帰っとったと。いうことなんや。

K.Hさん 朝鮮へ

その次の年の3月に、そこの会社の従業員を募集する人が来て、そのころはそういういろんな会社から私のうちはこういう事をしてますという募集に来た。その時にその人がそういったもんだから、私行きますって言ったんや。私はその当時ちょうど高等科2年、今の中学2年。昔は高等科2年生までしかなかったから。2年の時にうちの親父らが行けと言ったんで、兄貴も加茂農林行っとった。だから受験したけれどもね、ここが悪いもんだから落第した。落第したのはね東は加茂郡の白川町、西は岐阜市、北は美濃市、南は土岐からね、特修科って言うその科があって、そこね。今で言うなら高校で落第したやつばっかりが集まって。家で遊んどっても来年学校受けるのに勉強できやへんから、学校へ来て1年勉強して、もう一ぺん加茂農林を受けるという。そこへ行っとった時にそういう事があったもんだから、その年の3月また高校の受験をするという、加茂農林もう一ぺん行くというはずやったけどやめて、そういうことをやりよった。蜂屋の学校で同じ同級生の私の他に3人行く人がおって、4人行くということは決めて、岐阜県中で22人一緒に北朝鮮行ったの。朝10時何分か11時何分かの岐阜の駅で汽車に乗って、その日の晩下関へ着いた。ほんで下関から釜山へ行く、還付連絡船ちゅうのがあったでね、それに乗ると次の日の朝もう釜山へ着くと。釜山へ着いたらその日の夕方、現在のソウル。そこへ着いて、旅館で泊まるかなんかして次の日の朝汽車に乗って、現在の北朝鮮へ着いたと。私らがそこへ着いたのはもう夕方暗くなってから。ほんで朝起きたらね、もうびっくりしたのは、4月の10日に家を出たんだから,4月の10日いったらもう、今は温暖化で4月の初めに桜の花咲くんだけど、私ら子どもの頃には4月の7、8日から10日ごろにかけて桜の花が咲きよった。それが向こうへ着いて起きたらもう朝寒い寒いって、外出たら一面に霜が出とる。で桜の花が咲くのが5月の10日ごろ。ちょうど家と比べると1か月遅い。それくらい、もう北の方だという事やね。

【その製鉄会社で作っていたもの】普通の鉄とは違って、特殊鋼という鋼をつくる。その材料をつくるとこへ配属された。