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A.Nさん 空襲

それでさっきも言ったように、戦争が進んできたちゅうのかね、出征してったのが18年で終戦が20年でしたもんで、その間はやっぱりさっきも言ったようにご飯っていったってまともなご飯食べれなかったんです。芋とか代用食とかすいとんとかそういうものばっか食べて生きてきたちゅうことやね。これも、作ったものを食べるだけでしたもんで、自分でとってたべるとか作って食べるとかそういう事じゃないんですもんでね。比較的苦しみは少なかった。ただだんだん怖くなってきたというのはさっきも言ったように、各務原とか岐阜というのは空襲に遭いよったわね。ほいでね、西の空が真っ赤になってね、岐阜も爆撃に遭ってね。それから各務原の飛行場ね。蘇原の駅のあそこらへんはもう酷くやられたと。ほんでここの近くでいうとカヤバ工業もね、焼夷弾が落ちたんです。知っとるかね。(知っとる。ダーッてね。)ねえ。あれはもう、何年やったっけまあその時もね、空が真っ赤でね。(藪へ行ったの。)そうでしょ。藪へ逃げたんや。そうです。逃げるとこがないもんで。ほんで防空壕へ、防空壕っていってもそこらへんの田んぼや畑、田んぼはないですけど。畑やなんかはほとんど防空壕って言ってね、あんなとこそんなん爆弾なんて落とされたら一発でやられることは分かっとっても、そういうものは作りよったんです。ほいで上はなるだけ分からんように、芋を作ったのね。最初そういうカモフラージュはしとったというような覚えはあります。まあそういうときはほんとに苦しかったわね。

A.Nさん 戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。

R.Mさん 当時と今、どちらが豊かなのか

家んとこは百姓やないもんで、昔の人んたは子どもはみんな袴に着物やったでしょ。大人ももちろんやけど。ほんでそういうものがあって、そういうのでズボン作ったり、おばあさんのコートやなんかで学生服作ってもらって、修学旅行に行ったりなんかした。うん。まあ、ほとんどズボン作ってもらった。袴で。…でも今思うと、あの時代の方が何にもものがないもんで良かったかもしれん。今は何でもあるもんで、お金さえありゃなんでも買えるもんね。あの時分小遣いもらっても買えなんだもん。貰っても買いに行くとこなくて。

R.Mさん 本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

R.M子さん 終戦と進学

ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。

今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。

R.Mさん 勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

R.Mさん 焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

T.Mさん 戦争について

【「日本は駄目かもしれん」というのは、周りの人も同じことを言っていましたか?】戦争のこと?そうやね、そりゃ戦争はやっぱりやったあかんよね。みんなが犠牲になるでね。みんなが犠牲になって、みんな不幸になるで。もう日本は70年来戦争はやらんってきとるで、やってもらわん方がいいて思っとるわね、私らも。それが割と反対する人が少ないでしょ。どっちでもええ人がいっぱいおらへん?そんなような気がするね。私ら見とると。まあそりゃ年やもんで、あんまり前出てかへんでね。言わんけど、もっと若かったらね、また「反対」って言って、なんか叫んでやりたいような気がするけど、ね。不幸の人いっぱいおるでね戦争では。

T.Mさん B29

【B29が来たときは、山之上の上も飛んで行ったんですか?】うん、高いとこをね。もう昼来よったよ、B29が。空襲警報ちゅうともう来よったけど。この辺は落とさんけど名古屋、あっち行くと落とすんやね、結局爆弾を。高いとこを線を引いてね、シャーッと線を引いて通ってくね。両方でプロペラが4個あってね。ダーッてそうやって編隊になって行くもんでね、おそがい、おそろしいやね。あんなの下におったらだめやと思うもんでね。高いとこ行きよったんやね。8月のほんと終戦の間際は、艦載機が来たね。戦闘機がバーッと来て、このへんやったんやね。そん時に私らはもうあかんと思ったんやでね。こんな田舎の方まで飛行機が来ては駄目やなと思っておったけど。ほうしたら天皇陛下のあれがあってね。日本は負けたちゅうことで。早速もう学校の兵隊さんも解散しちゃったでね。

あれは機械の部品ね。ああいうのを運んだよ。俺ら学校でお手伝いでね。兵隊さんの車が来てようけ部品を持ってくるの。わからんけど部品をね。鉄の重たいやつとかいろんなやつをね。そういうのを農家のうちの広いとこがある家に預けよったの、一次的に。そういうのを運ぶのを子どもがやっとったの。持てる範囲で。

T.Mさん 玉音放送

【終戦の玉音放送は何処で聞きましたか?】うちは在所で、ラジオでね。何か知らんけど、なんか負けたってね。玉音聞いたで家で。あんま沢山なかったもんでラジオはね。たまにちょっとあったけど。家で聞いたそれは。なんか、今でも覚えとるけど節がね、なんか変わった録音って聞いたね。普通の録音やないみたやね。ほんやもんでねちょとへんな節やて。なんかとんちんかんっていうことは無いけどなんちゅうやな。へんな人やなへんな人やなって思いよった。節がええふうにしゃべりよるのに聞こえなんだもんねなんか。負けてまってね、どうなることやと思っとったけど。