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T.Mさん 戦時中の生活

戦時中はどこのうちも白壁やったんや、壁が。敵から見えんように黒う塗ってまったんや。何で塗ったんや。(あれはね、鍋の炭。)炭か、そうか。(それわしも覚えとる。真っ黒に塗ってまって、汚い家になってまったわな。鍋の炭ではうまいこと塗れりゃええけど、今みたいに。もう、まだら。もうむちゃくちゃやった。電気やなんかでもね、今みたいに蛍光灯なんかもちろんありゃへんけども豆電球ね。あそこへね、全部カバーを被せるんです。外へ光が洩れんちゅうことでね。そういう生活やったね。まあ夜なんて言ったら真っ黒けやわね。風呂とかそういうとこでもよほどの家やなけりゃ電気なんて、蝋燭ではなかったかね。)戦時中は防空壕が作ってあった。防空壕が。上にまた土やって、そこの上に芋づるを植えちゃったんや。ふっふっふ。(あったあった。)まあいろいろあった、その当時あんま覚えないけどもね。(そうやね。小学校の中にも防空壕が作ったったね。太田の小学校やなんか。運動場に。)そうやな。そうやった。(ほいで、今芋づるの話されたけど、運動場も芋ばっかやった。植えたったわね。運動場いっぱい芋を。もちろん生徒が食ったんやろうけどね。そういうことも覚えてます。)うちは19年に行って、20年の3月やったでな。(そうかそうか。20年の。19年の何月かしらん?)それが全然覚えないのよ。たまに見やあただけで覚えないもん親の顔。でも3人子どもおったでな。

K.Hさん ニュース映画

私がね、ちょうど中学3年を卒業した年の4月に、私は北朝鮮に行ったの。でなぜかというとそのころは、もう若い者は大東亜協栄、いわゆる中国も満州もそれから東南アジアも、アメリカとかイギリスとかフランスの植民地になって、みなそれで貧しい暮らしをしとるから、そういう人たちを自分で働いたら自分の利益になるような国にしようじゃないかとゆうことで若い者は満州行きなさいとか。そういう時代やったもんやで、その時のちょうど高等科2年の時に、あんたらは考えられんかもわからんけど、昔は映画を見るなんちゅうことはね、太田には映画館は無かったし岐阜まで行かな映画は見られなんだの。そういう時代やったから、夏休みにね、私は伊深村が1年に2回か3回学校の運動場にこう幕をして、映画会があったの。それはもう村中誰が来て見ても無料で。もう2時間か3時間の映画。そのときにニュース映画ちゅうのをね、20分か30分くらいやったかな。あのそういう今、こういうふうで侵略したわこれ落としたわちゅうふうに。ある鉄鋼会社が、大きな鉄の鉱石の山があると。その中に、一か所は製鉄工場で使うのがある。その当時の製鉄工事は35%以上鉄分が含まれてないと。高炉と言って、直径7,8メートルで高さは十何メートルのところへ鉄鉱石と、コークスって知っとる?コークスいったらね、石炭に熱を当てるとそのガスが出るんや。そのガスを昔はその都市ガスとして、一般の町の人が東京とか大阪の人がガスの栓をひねるとそのガスが出ると。そのガスは石炭を、700度800度の、熱するとガスだけ出る。煙だけ出した後に残ったのが炭やわね。ちょうど炭を作るのと同じ原理で残ったコークスと言う黒いパンみたいにあの、スポンジみたいに穴がいっぱい開いた塊があるんや。それを混ぜて、鉄鉱石というのは鉄の酸素と結合したの。だから酸素をコークスという炭素で、入れると燃えて炭酸ガスが出る。そうすると鉄が残るという。まあそういう原理でしとったんやけども、それが35%以下のものでは使いもんにならんと。だからそれをどうしたら使いもんにできるかということをいろいろ考えて、それを細かく粉にしてそれを水に溶かして。その水に発泡剤って言って今では洗剤入れるとすぐ泡が出るわね。そういう泡のできるものを入れて下から空気を送ると、ぶくぶくっと泡ができると。その泡の表面に鉄鉱石が集まるということを発見して。全体の中の3分の1、3分の2以上は石や。石の塊やわね。石の粉の中に20%から25%の鉄鉱石があるんやけども。泡さえ集めたら40%50%の鉄分が集まるということを発見して、それを製鉄工場でしますというのを、そのニュース映画で見たんや。

A.Nさん 学校

ついでに見といてもらいたいのが、これが太田の小学校。今は鉄筋できちっとなってますけどね。これは私たちが1年生の時の写真です。要するに入学式やわね。ほんでこの頭の禿げた方はヒダっちゅう校長先生でね。この女の先生。この先生が怖かったんです。そんなこと言っちゃいかんけど、もうほんとにね、ものすごい怖かったんです。言うこと聞かなんだらビンタやられとったでね、いっくら小さい子でも。今やったら一発にそんなことやったら先生クビになってまうもんでやらんけどね。ビンタくらいはもうしょっちゅうでした。怖かったですね。まあ今これちょっと見てみるに、半分は亡くなったね。やっぱり。今はだいたい80歳近いでね。半分くらいは亡くなりました。この女の子も今ちょっと思い出せんけどね。おかっぱでね。昔は、まあ今そんなことはないけどシラミを湧かいたりね、ほいでGDTを頭の上からかぶせるんです。だーっと。シラミが湧いとるもんでね、そのくらい不潔、不衛生なの。シラミっていってもちょっとわからんでしょ。はっはっは。そういうこともあったし。真っ裸にされてね、粉をまくんです。シラミがおるちゅうと、熱には弱いらしいもんでね、着とるものを湯の中へ浸けてね、それで退治をしとったんです。そういう苦しいこともありましたね。(だにとか蚤。蚤は、ちょっと大きいか。)蚤はちょっと大きいね。シラミなんて言ったらほんとにね、このくらいの。

A.Nさん 戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。

R.Mさん 本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

R.M子さん 終戦と進学

ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。

今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。

R.Mさん 勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

T.Mさん 家の手伝い

一番は、兄弟多かったやら。やもんでお兄さんもお姉さんもおるし、お兄さん兵隊に行っとるしね。お姉さん家に?とるし。そういう関係でうちらはちょうど中間でね。帰ってくると子守りしなかんでしょ、妹弟おるもんで。そういうのに毎日疲れとったね。そういうの決まっとるんやて。大きい子がみんな仕事して、小さい子が自分の妹と弟を子守りしたりお風呂焚いたりね。昔は風呂焚かなかんもんでね。今やと電気でバーッとやっちゃうけど、ガスも電気もないもんで風呂焚かないかんでしょ。ほんで風呂水汲まないかんでしょ。昔は水道ないもんでバケツで汲んでってバーッと大きな桶に水入れて。そして下で火を焚かないかんの、夕方になると。ほんで子守りしなかんやろ。そういうのを家のお手伝いをやっとった。ずっとね。毎日。ほんでみんなでなかなか遊びに行くような暇はないもんでね。まあ夏休みやと昼に水浴びに行くくらいやね。近所の子と一緒に。五人か四人でね。毎日水浴びに行きよったね。池行ったり小さい川行ったり。その程度であと何にも遊ぶことないしね。農家やもんでヤギを飼っとってね、乳を搾っとったの、家で。夕方になるとちゃんと搾っておったもんでね。わりとええもんやったんよ。そういうのはね。

特にえらかったことはねえ。…何しとったち覚えないもんでね。子守りして風呂沸かしてね。そういうことしとっただけやね。それから蚕を飼っとるもんでね。桑が家で足らんと、太田まで買いにみえるでしょ。そういうのを手伝って車を押しに行きよった。車で買いに行ったもんでね。昔の車やもんで台車って言ってガラガラのやつでしょ。重たいでお父さんが引いていくもんで私ら後ろで着いてって、山之上登ってかないかんもんでね、押して歩いとったね。そういうお手伝いをしよったね。今のようにあんまり学校では遊ばなんだね。遊ぶとこがないし運動場とられちゃうもんでね。戦争が負けてからは結構うちらも、野球やっとったよ。新しい先生が野球好きでね、うちら山之上であのころ加茂郡やなくて美濃加茂市か、加茂郡やわね。加茂郡で優勝したことあるでね。高等二年で。優勝して県大会行ったことあるよ。そういうのもあるね。それがまた、グローブとかああいうのないもんでねたくさん。人のやつを借りて借りてやらないかんもんでね、選手の分はあるけど予備の分はないもんでね。

T.Mさん 学校生活

ほんで学校へは、白いご飯を持っていけなんだのね。禁止されとって、麦ご飯。例えば1週間に1回か2回ね、ああいう芋ご飯を持って来いって言われたんやね。さつまいもを入れたご飯を持って来いって学校で言われてね。そういうこともあったしね。で家なんか例えば白いご飯がないときは、麦のご飯を取っといて上に被せて持ってきよったの。こうして弁当の中に。先生が見にみえるんやて。「今日は麦ご飯やでみんな麦ご飯持っとるやろ」って。持ってかんと叱られるもんで、2、3日前の麦ご飯をとってね、並べてくと分からへんでしょ。そうして行きよったね。そういうことも覚えとるけどね。けどご飯麦ご飯ばっかの時もご飯家とっとったでねたくさん。ない人もいっぱいおるけども。

それから疎開って言ってね、名古屋とか岐阜とかの方から来とったの。ほんで私たち一クラスで50人、45人くらいか。ほんで疎開した子が来ると60人くらいになったね。15、6人来よったもんね。それで一クラスやったんやね。今やったら半分にしなかんけど、60人もおったら。あのころはそのくらい大勢おったの。それと学校がね、兵隊さんが校舎を半分以上とっちゃって、山之上はね。私山之上やもんでね。山之上ちゅうとこはね、機関砲という鉄砲撃つやつなんかがね、ぱんぱんぱんってやってね、今でも覚えとるけどね、よし今1,2,3,4,5…って言ってね、撃つまねごとしてみえるんやけど全然撃たせえへんけど、撃つまねしてね。大勢兵隊さんおってね。やっとったんですけど。そういう機関砲の部隊がおったんやね。そこで学校とられちゃうもんで、最後の終戦の年など勉強できんようになっちゃうもんでね。近くのお宮さんとかお寺さん借りてね、交替であちこち勉強に行きよったんやよ。今日はこちらで勉強するとか今日はお宮でするとか言って。クラスによって、全部同じ教室でできんもんで。そしてその日に順で変わってやったことあるね。そういうふうに。それから、本がないの。最後は本がないもんでね。謄写版で刷ったやつをね、先生が刷っとったんやと思うけどね、知らんけども。刷ったやつを貰ったんやよ。そういうのを貰って勉強のあれにしとったの、本の代わりに。ほんと薄っぺらいやつやね。本がないもんでそういうやつを順に習っとるときに作ってもらって、それを見て勉強しとったんやね。

それから終戦のちょっと前まで、農家のうちの兵隊さんに行ってみえてお父さんみえんうちで仕事が出来んとこへお手伝いに行きよったの。みなさんで学校で。お手伝いに行って、例えばさつまいもを植えたりね、草取りしたりね。そういうお手伝いをしとったね。そういうのやったしね、まあいろいろやったよ。山で木を切ってね、薪をずっとこんなんして束にして山から担いで降りてね、道路まで出すの。そっからトラックかしらんで持って帰るけど。そこまで出せんもんで出す人がおらんもんでね。男の人が少ないもんで。男性はその仕事やられる。土曜とか日曜はそういうふうに出よっちってね。みんなで一緒に出てって薪をたくさん持ってきて、積みよったね外へ。そういうことやったりね。今思うと考えられんね。

それから他所から疎開してきてみえるでしょ。その他所の知らん子がいっぱい来とったね。まあそういう子とは今全然お付き合いしとらんもんで分からへんもんでね。もう帰ってっちゃったもんで。

【疎開してきた子のことは、どう感じていましたか?】別に嫌だとは思っとらんかったよ、うちらは。仲良うやっとったよ。ほとんど親戚の人たちと一緒にそういう人が見えるもんで。例えばうちのお姉さんが他所へ嫁にして、その子どもさんが疎開してくるやら。やもんでここのお姉さんの子といっしょやもんで、いとこやもんでね。そういう子が泊まり込みでおったもんでね。仲は良かったよ。名古屋とか岐阜で来るとね、他所の子ばっかな気がしてみんなひがみよったけど。そうでもなかったそう変わらへんかったよ。他所から来るとなんかいい子ばっかな気がする、そうやないもんで変わらへんでね。同じ子どもやもんで、一緒に勉強したけどね。

T.Kさん 女学校の生活

【女学校は、美濃加茂にあったんですか?】美濃加茂やないです。益田郡の金山町。下呂市。

【女学校の時、竹やりの練習などはしましたか?】あのね、女学校の時はなぎなた。長い。なぎなたの練習ばっかしやったね。

【当時給食はありましたか?】私たちの時は無かったね。お弁当持ってったね。お弁当の中も芋やった。