子どもの暮らし」タグアーカイブ

A.Nさん 学校

ついでに見といてもらいたいのが、これが太田の小学校。今は鉄筋できちっとなってますけどね。これは私たちが1年生の時の写真です。要するに入学式やわね。ほんでこの頭の禿げた方はヒダっちゅう校長先生でね。この女の先生。この先生が怖かったんです。そんなこと言っちゃいかんけど、もうほんとにね、ものすごい怖かったんです。言うこと聞かなんだらビンタやられとったでね、いっくら小さい子でも。今やったら一発にそんなことやったら先生クビになってまうもんでやらんけどね。ビンタくらいはもうしょっちゅうでした。怖かったですね。まあ今これちょっと見てみるに、半分は亡くなったね。やっぱり。今はだいたい80歳近いでね。半分くらいは亡くなりました。この女の子も今ちょっと思い出せんけどね。おかっぱでね。昔は、まあ今そんなことはないけどシラミを湧かいたりね、ほいでGDTを頭の上からかぶせるんです。だーっと。シラミが湧いとるもんでね、そのくらい不潔、不衛生なの。シラミっていってもちょっとわからんでしょ。はっはっは。そういうこともあったし。真っ裸にされてね、粉をまくんです。シラミがおるちゅうと、熱には弱いらしいもんでね、着とるものを湯の中へ浸けてね、それで退治をしとったんです。そういう苦しいこともありましたね。(だにとか蚤。蚤は、ちょっと大きいか。)蚤はちょっと大きいね。シラミなんて言ったらほんとにね、このくらいの。

A.Nさん 戦時中の暮らしと「伝える」役割

まあ亡くなったことはなんとも致し方ないことです。もう小学校1年生でしたもんで、当時は、終戦が20年の8月でしたもんで、当時はもうほとんど学校とかそういうものもね、まともに授業みたいなのできなかったんです。1時間目始まるとすぐ空襲警報が発令されますと、すぐ家へ帰ってくることがもう精一杯です。私もまあ、うすうすは覚えとるんですけども、艦載機って言うのかね、その飛行機がもうほんとに頭の上を飛び交ってね、あれは夏、もちろん終戦直前で夏でしたもんで、桑畑の中を防空頭巾っていって、防空頭巾っていったって、布団を半分にして上だけこう縫ってね、顔を隠して、もう暑いのなんのやないんですけどそれをかぶって、家まで逃げてきた覚えはもう何回となくあったんですね。そうこうしとるうちに、今の太田駅のね、機関庫があったんです。列車の入れ替えの。あのそこは艦砲射撃でやられてね。まだどのくらい前やな30年くらいか40年くらい前かだいぶ長いこと建ってましたけどね。艦砲射撃でこのくらいの穴が開いとった。ところどころにね。やられちゅうことは、今でも記憶に新しいことです。まあ40年か50年になるかな。50年くらいになるかな。そういう怖い目もして。これはもういよいよ太田町もやられるかなという感じがして、まあ終戦になったもんでまずやれやれという、まあ、やれやれとかそういう感じは無かったですね、あんまりやれやれとかそうゆう。まあ我々小さかったもんでね、そんなようなことが、1番思い出。

もちろん食べ物は、家は農家やございませんでしたもんで、当時はおかゆに芋を入れたね、さつまいもですね。あれでだいぶ過ごしたということですね。ほれから芋づるを食べたり、そういう苦しい目は当時は大なり小なりみんなやって来たと思います。それと、もちろん学校へなんかも筆記道具やそういうもんもなかったしね。近所で借りたり、あるいは消しゴムなんてとても、紙とかそういうもんでも新聞紙より悪かったようなでね。教科書っていったらもう、上の兄さんが見えたやつは、それを次の代に渡すとかそういうようなかたちの、ようするに代用品みたいな形ばっかでね。まあそれが小学校の4年生くらいまでは続いたかな。

いろいろ苦しい目は、むしろ私たちよりおふくろのほうが、苦しい目はしてきとるはずです。今も女の方みえた方も、戦争で旦那さん亡くしたという方ですけども。まあ、あの人耳が遠くなったもんで、こういう事は得手じゃなかったような感じでしたのでよう来ていただけなんだようですけども。まあいろいろお話をしてあげることも、ということで。ほとんどね、ああいう方はほとんどやっぱり病弱でね、あんまりこう今の話やないですけど、後世に伝えるとかそういうことはもう、ちょっとできないというのが大変残念なことやけどね。今の広島の原爆でも、そういうことで後世に伝えることがだんだん少なくなってくる。我々も一緒なんです。そういうことである意味では、こうしておたくがお聞きしたいというようなとこをお聞きしましてね。「ああ、こりゃええことや、こりゃ早いとこまあ話しようやないか」ということで。今日は3人の人に来ていただいたんですけども。

R.Mさん 本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

R.Mさん 勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

T.Mさん B29

【B29が来たときは、山之上の上も飛んで行ったんですか?】うん、高いとこをね。もう昼来よったよ、B29が。空襲警報ちゅうともう来よったけど。この辺は落とさんけど名古屋、あっち行くと落とすんやね、結局爆弾を。高いとこを線を引いてね、シャーッと線を引いて通ってくね。両方でプロペラが4個あってね。ダーッてそうやって編隊になって行くもんでね、おそがい、おそろしいやね。あんなの下におったらだめやと思うもんでね。高いとこ行きよったんやね。8月のほんと終戦の間際は、艦載機が来たね。戦闘機がバーッと来て、このへんやったんやね。そん時に私らはもうあかんと思ったんやでね。こんな田舎の方まで飛行機が来ては駄目やなと思っておったけど。ほうしたら天皇陛下のあれがあってね。日本は負けたちゅうことで。早速もう学校の兵隊さんも解散しちゃったでね。

あれは機械の部品ね。ああいうのを運んだよ。俺ら学校でお手伝いでね。兵隊さんの車が来てようけ部品を持ってくるの。わからんけど部品をね。鉄の重たいやつとかいろんなやつをね。そういうのを農家のうちの広いとこがある家に預けよったの、一次的に。そういうのを運ぶのを子どもがやっとったの。持てる範囲で。

T.Mさん 家の手伝い

一番は、兄弟多かったやら。やもんでお兄さんもお姉さんもおるし、お兄さん兵隊に行っとるしね。お姉さん家に?とるし。そういう関係でうちらはちょうど中間でね。帰ってくると子守りしなかんでしょ、妹弟おるもんで。そういうのに毎日疲れとったね。そういうの決まっとるんやて。大きい子がみんな仕事して、小さい子が自分の妹と弟を子守りしたりお風呂焚いたりね。昔は風呂焚かなかんもんでね。今やと電気でバーッとやっちゃうけど、ガスも電気もないもんで風呂焚かないかんでしょ。ほんで風呂水汲まないかんでしょ。昔は水道ないもんでバケツで汲んでってバーッと大きな桶に水入れて。そして下で火を焚かないかんの、夕方になると。ほんで子守りしなかんやろ。そういうのを家のお手伝いをやっとった。ずっとね。毎日。ほんでみんなでなかなか遊びに行くような暇はないもんでね。まあ夏休みやと昼に水浴びに行くくらいやね。近所の子と一緒に。五人か四人でね。毎日水浴びに行きよったね。池行ったり小さい川行ったり。その程度であと何にも遊ぶことないしね。農家やもんでヤギを飼っとってね、乳を搾っとったの、家で。夕方になるとちゃんと搾っておったもんでね。わりとええもんやったんよ。そういうのはね。

特にえらかったことはねえ。…何しとったち覚えないもんでね。子守りして風呂沸かしてね。そういうことしとっただけやね。それから蚕を飼っとるもんでね。桑が家で足らんと、太田まで買いにみえるでしょ。そういうのを手伝って車を押しに行きよった。車で買いに行ったもんでね。昔の車やもんで台車って言ってガラガラのやつでしょ。重たいでお父さんが引いていくもんで私ら後ろで着いてって、山之上登ってかないかんもんでね、押して歩いとったね。そういうお手伝いをしよったね。今のようにあんまり学校では遊ばなんだね。遊ぶとこがないし運動場とられちゃうもんでね。戦争が負けてからは結構うちらも、野球やっとったよ。新しい先生が野球好きでね、うちら山之上であのころ加茂郡やなくて美濃加茂市か、加茂郡やわね。加茂郡で優勝したことあるでね。高等二年で。優勝して県大会行ったことあるよ。そういうのもあるね。それがまた、グローブとかああいうのないもんでねたくさん。人のやつを借りて借りてやらないかんもんでね、選手の分はあるけど予備の分はないもんでね。

T.Mさん 辛かったこと

【一番戦争が激しかったとき、辛かったことはなんですか?】一番辛かったことはね、例えば薪を出すときなんかね、私らあの山之上でも南の方やもんで薪なんかほとんど作っとらんとこやら。奥の方んた上手に作っとるもんでね、なれとるの。そういう子んた上手に自分で背板ちゅうやつね。そこにだだだっと並べて、ぴっと棒で押さえてね。四つとか五つとかその子によって違うけど、大きい子が五つくらい持ってく、小さい子は三つくらい持ってくわね。ほんで向こうの子んたは慣れとるもんでね、家でやっとったもんで。上手なんやけど私らはへたくそでしょ。途中で崩れちゃうしね。結構えらいしね。担いで下りてくの。ああいうのは辛いなあと思ったし。

あとはね、岐阜の方の女の子んたたくさん来て共同炊事ってやっとってね。農家のうちへ農繁期に来て、炊事をとってくださるの。食事を。みそ汁とかね。おかずとかご飯とかなんかたくさん炊いてね、そいで一緒にやってくださってね、そういうこともやっとったんやね。部落で小さいとこで。今の給食みたいなもんやね。変わったもん食べれるでいいなあと思っとったね。私ら家で食べるものはいつも同じようなのばっかでしょ。岐阜の町の人が作ってくれると、また違った変わったもん作ってくれるでね。珍しいなと思って食べたことはあるね。

あとはえらいっちっても農家やもんでね。特別、そういうことはないわなあ。戦争って言っても、辛かったちゅうことは食べ物なんか配給やしあかんってまさに言われるもんで、「そうやそうや」と思ってはおったけども、自分とこ百姓やもんでなんでもあるでしょ。ああいうのを食べとったでね。さつまいもの蔓ね。あれを食べよって言われてね。取って食べとったんよ。蔓を取ってきて軸を。あそこちょっと皮剥いてそれを煮てたの。ああいうのたくさんあるわね、採れてたくさんあるもんでそういうやつを食べたりね。さっき言ったように弁当でも、一日は芋ご飯で芋を持ってけとかそうやったり。昔は今の給食やけど、学校へ父兄が順にまわってね、みそ汁を出してくださった。ご飯は自分で持ってくけど、学校でみそ汁を出してくれとったんやね。大勢一緒に作って出してもらいよったけど、結構ね割とおいしい味噌汁。あったかかったしね、冬なんか。そういうこともやってもらったことあるし。いろいろよ。

T.Mさん 学校生活

ほんで学校へは、白いご飯を持っていけなんだのね。禁止されとって、麦ご飯。例えば1週間に1回か2回ね、ああいう芋ご飯を持って来いって言われたんやね。さつまいもを入れたご飯を持って来いって学校で言われてね。そういうこともあったしね。で家なんか例えば白いご飯がないときは、麦のご飯を取っといて上に被せて持ってきよったの。こうして弁当の中に。先生が見にみえるんやて。「今日は麦ご飯やでみんな麦ご飯持っとるやろ」って。持ってかんと叱られるもんで、2、3日前の麦ご飯をとってね、並べてくと分からへんでしょ。そうして行きよったね。そういうことも覚えとるけどね。けどご飯麦ご飯ばっかの時もご飯家とっとったでねたくさん。ない人もいっぱいおるけども。

それから疎開って言ってね、名古屋とか岐阜とかの方から来とったの。ほんで私たち一クラスで50人、45人くらいか。ほんで疎開した子が来ると60人くらいになったね。15、6人来よったもんね。それで一クラスやったんやね。今やったら半分にしなかんけど、60人もおったら。あのころはそのくらい大勢おったの。それと学校がね、兵隊さんが校舎を半分以上とっちゃって、山之上はね。私山之上やもんでね。山之上ちゅうとこはね、機関砲という鉄砲撃つやつなんかがね、ぱんぱんぱんってやってね、今でも覚えとるけどね、よし今1,2,3,4,5…って言ってね、撃つまねごとしてみえるんやけど全然撃たせえへんけど、撃つまねしてね。大勢兵隊さんおってね。やっとったんですけど。そういう機関砲の部隊がおったんやね。そこで学校とられちゃうもんで、最後の終戦の年など勉強できんようになっちゃうもんでね。近くのお宮さんとかお寺さん借りてね、交替であちこち勉強に行きよったんやよ。今日はこちらで勉強するとか今日はお宮でするとか言って。クラスによって、全部同じ教室でできんもんで。そしてその日に順で変わってやったことあるね。そういうふうに。それから、本がないの。最後は本がないもんでね。謄写版で刷ったやつをね、先生が刷っとったんやと思うけどね、知らんけども。刷ったやつを貰ったんやよ。そういうのを貰って勉強のあれにしとったの、本の代わりに。ほんと薄っぺらいやつやね。本がないもんでそういうやつを順に習っとるときに作ってもらって、それを見て勉強しとったんやね。

それから終戦のちょっと前まで、農家のうちの兵隊さんに行ってみえてお父さんみえんうちで仕事が出来んとこへお手伝いに行きよったの。みなさんで学校で。お手伝いに行って、例えばさつまいもを植えたりね、草取りしたりね。そういうお手伝いをしとったね。そういうのやったしね、まあいろいろやったよ。山で木を切ってね、薪をずっとこんなんして束にして山から担いで降りてね、道路まで出すの。そっからトラックかしらんで持って帰るけど。そこまで出せんもんで出す人がおらんもんでね。男の人が少ないもんで。男性はその仕事やられる。土曜とか日曜はそういうふうに出よっちってね。みんなで一緒に出てって薪をたくさん持ってきて、積みよったね外へ。そういうことやったりね。今思うと考えられんね。

それから他所から疎開してきてみえるでしょ。その他所の知らん子がいっぱい来とったね。まあそういう子とは今全然お付き合いしとらんもんで分からへんもんでね。もう帰ってっちゃったもんで。

【疎開してきた子のことは、どう感じていましたか?】別に嫌だとは思っとらんかったよ、うちらは。仲良うやっとったよ。ほとんど親戚の人たちと一緒にそういう人が見えるもんで。例えばうちのお姉さんが他所へ嫁にして、その子どもさんが疎開してくるやら。やもんでここのお姉さんの子といっしょやもんで、いとこやもんでね。そういう子が泊まり込みでおったもんでね。仲は良かったよ。名古屋とか岐阜で来るとね、他所の子ばっかな気がしてみんなひがみよったけど。そうでもなかったそう変わらへんかったよ。他所から来るとなんかいい子ばっかな気がする、そうやないもんで変わらへんでね。同じ子どもやもんで、一緒に勉強したけどね。

T.Mさん 戦時中の生活

私はね、戦争中は小学校の3年4年5年…そのころやね。6年までかな。そのころまで、ずーっと戦争やっとったね。終戦の時に今の中学1年生やったね、8月に。ほんやもんで小学校の時の体験っていうとね、どういうことがあるやら、生活か学校か。例えば生活、家やと、私は百姓の生まれやもんでね。農家やもんでね、お父さんお母さんが農家やったもんでね。食べるもんは米作っとるでしょ。別に全然、供出はするけど百姓沢山やっとるもんで食べ物はそんな苦にならなかったのね。制限受けなんだの。食べ物は良かったけど、例えば学校行くとなると、服とかズボンとかそういうのは無いわけやら。それと履くもんがないもんでね、もう3年生4年生ごろから草履を作って履いたんよ。自分で草履を作ってね。おじいさんおばあさんに教えてもらってね。藁を綯って縄みたいに綯って。両方でつないで。前でこうやって足に掛けといてね。学校へずーっとはいてったんやよ。履くもんないもんでね。買うもんないし履くもんないもんで。そういうことをやっておったのね。ほんとそれ終戦ちょっと前1、2年くらいかな。そういうことずっとやっとったでしょ。みんなそうやわね。全員が学校行く人みんなないもんでね。服なんかないでしょ。昔はお蚕があって桑の木があったね。桑の木の棒を切ったやつを皮をむいて、それを供出で出しよったの。それで服を作ってもらうの。幸い家はお蚕を飼っとったもんでね、おばあさんが織物をちゃんと織ってね、それで服作ってもらった家で。そういう覚えがあるね。ほやけど、そんな桑の木なんか出して作った服は、全部クラスへ来てね、抽選やの。抽選でしか買えんもんでね。1年に1着2着やと抽選やもんでね。なかなか当たらへんの。みんなが。当たらへんもんでなかなか貰えなんだ。そういう覚えがあるね。

それと例えば、仕事がね、みんなああいう子ども達がおってね、食べるもんが少ないもんで、大豆を道路の両端に穴掘って蒔いて、そんでそれを収穫して上で出しよったんやよ。教室っちゅうかね。みんなで作って出しよったの。普通の道路あるでしょ。あのころは舗装してないもんでね、じゃりじゃりの道ばっかやもんで、その1番端の草生えるとこね。あそこんとこに穴掘ってね、豆をかすかにつまいて、それに燃やいた灰ともみ殻両方混ぜたやつを、上へぱっぱっと肥代わりに、生えてきてそれで大きくなれるようにやってね、ほんでみんなで収穫して学校へ出しとったんやよ。そういうことやっとったんやね、子どもでも。

N.Iさん 戦場に行きたい

私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。