T.Mさん

父の出征

取材時年齢

77歳

取材時在住

美濃加茂市深田町

取材年月日

平成27年8月6日

※()内は、同じ遺族会のA.Nさん、K.Hさんの発言

近衛兵だった父

僕も丹羽さんと同じくらいやけど、7つのときやわ。終戦になったのは。ほんで父が出征するとき全然覚えないのやわ。皇居におったの。近衛兵に行っとって。(近衛兵ちゅうと、これは普通の人では行けんでしょ。)(家柄がええのと、それからここの頭がええのと、それから体格もええのと。その3つがそろわんと行けなんだの。)ほんで騎兵やったもんで、北支な。(あの、中国やな。)それで戦闘で行って、撃たれて死んだんや。

戦時中の生活

戦時中はどこのうちも白壁やったんや、壁が。敵から見えんように黒う塗ってまったんや。何で塗ったんや。(あれはね、鍋の炭。)炭か、そうか。(それわしも覚えとる。真っ黒に塗ってまって、汚い家になってまったわな。鍋の炭ではうまいこと塗れりゃええけど、今みたいに。もう、まだら。もうむちゃくちゃやった。電気やなんかでもね、今みたいに蛍光灯なんかもちろんありゃへんけども豆電球ね。あそこへね、全部カバーを被せるんです。外へ光が洩れんちゅうことでね。そういう生活やったね。まあ夜なんて言ったら真っ黒けやわね。風呂とかそういうとこでもよほどの家やなけりゃ電気なんて、蝋燭ではなかったかね。)戦時中は防空壕が作ってあった。防空壕が。上にまた土やって、そこの上に芋づるを植えちゃったんや。ふっふっふ。(あったあった。)まあいろいろあった、その当時あんま覚えないけどもね。(そうやね。小学校の中にも防空壕が作ったったね。太田の小学校やなんか。運動場に。)そうやな。そうやった。(ほいで、今芋づるの話されたけど、運動場も芋ばっかやった。植えたったわね。運動場いっぱい芋を。もちろん生徒が食ったんやろうけどね。そういうことも覚えてます。)うちは19年に行って、20年の3月やったでな。(そうかそうか。20年の。19年の何月かしらん?)それが全然覚えないのよ。たまに見やあただけで覚えないもん親の顔。でも3人子どもおったでな。

戦地からの手紙

戦地からよ、なんやちゅうくらい手紙が来よったわ。(中国から?)そう。でおふくろがまあ燃やいてまったけども。(ああそう。惜しかったわな。それはほんと残しといてもらっときたかったわな。それは昔ではほんとになんともならんもんやと思っとるもんで。そんな亡くなったような、ほんとにそういうのは今貴重になるわね。)