取材時年齢
91歳
取材時在住
美濃加茂市山之上町
取材年月日
平成27年8月7日
目次
入隊
私は大正5年1月生まれで、山之上町です。小学校は昭和7年に入って6年おって、中学ちゅうか昔やで高等1年、高等2年。ほんで加茂農林。僕らは戦争中やったもんで12月に卒業して、家は百姓やもんでね。農業を1年。ほんで19年の1月から、山之上の役場へ来てくれっちゅう話で、行って。徴兵検査が19年の秋にあって、僕らは繰り上げ徴集って言ってね、普通21なって、徴兵検査受けるんや。それが僕らの級のもう一つ上の組から1年繰り上げになったの。やもんで、早く徴兵検査やってね。ほんで昭和20年ね、終戦の年の。兵隊に行くのは、4月の23日入隊。僕らは山之上の西洞っちゅうとこにおって、23日に行くときは、皆さんに挨拶して古井の駅まで送ってもらってね、ほんで汽車に乗って岐阜へ行って。その時には、岐阜市あたりは空襲もなんにも受けておらんで普通の町であったけども。それから三重県の久居ちゅうとこが、自衛隊があるね。そこに入隊をしたんです、23日に。そこに3か月おって、それから部隊を移動をしたもんで。
赤紙
僕らの上の兵隊さんはね、召集兵って知っとるか。何月いつかに入隊すべしっていう、赤紙が来るわけ。その赤紙が来ることも、僕は役場で宿直やなんかやるでしょ。そういう電話がくるの。召集令状が来たで取りに来いっちゅうて。判持ってね、取りに。どこへ行った覚えないが、古井の駐在所やなかったか知らんと思うけども、行ってもらってくる。判を押してもらってきてね、その兵隊さんのとこへ持っていくの。持ってって。「こういうふうで赤紙がきたで、ご苦労様ですけども、何日には入隊してください」とお願いをして、出てくんやね。それは兵隊に今まで行ってきた星のある人ね。そういう人んた、日にちある限り、ちゃんと間に合うように行かれるわけですけども。それから行くときには、まあ出陣ちゃうか、村の人がね、太田の駅まで古井の駅まで見送りをして下れる、一緒に行って下れる。古井駅行って、そしてまあこういうふうで行くんだという挨拶をしてね、古井から汽車に乗って、それぞれの司令される部隊に、行くわけやおね。
古井から掛川へ
ほんで私の部隊は古井まで行って、その時分は青年やったもんでね、青年の人んたと一緒にお勤めしとったもんでね、古井から青年の人が2、3人一緒に汽車に乗って、岐阜まで送っていただいて。ほんで岐阜からはまあ?もんで、三重県の久居まで行って、23日に入隊したということで。全然知らん人んたと兵隊さん一緒になったね。そこで部隊編成をして、私は歩兵の連隊砲っていう、小銃やなしに大砲やね。口径が7.5cm。弾飛んでいくとこやね。そこが7センチ5ミリのこういうね。それを引っ張ったりね、いろいろする。馬も…何匹やったか。覚えないけどもおるわ。僕たちは、ごこく?ってやつ知っとる?三重県の久居で部隊編成をして、少年兵教育っちゅうものを三月やって、それから移動やっちゅってね、その兵器やとかいろいろ持って汽車に乗って、どこへ行くのか知らんと思って、夜移動やったもんでね。全然どこやなんや知らんもんでわからへんやら。で、ほしたら夜中に着いた。どこや知らんと思って行ったら豊橋から、二俣線ちゅう汽車に乗って、着いたとこやね、あそこは掛川ちゅう駅があるけどそこまでの中間、静岡県で降りて。部隊本部は無かったもんで、中学校の教室を開けてもらってそこ入ったね。僕らはそれぞれ小隊ごとに分かれて、小隊っちゅうとだいたい20人か30人くらいやないかな覚えないけども。公民館あるでしょ、部落の。そういうとこへ収容されたんや。
訓練、そして終戦
次の日からは、部隊法やらいろいろそういうことを、終戦までやったわけやけども。まあどこの誰やら分からん人んたと一緒に訓練やって。その当時はまんだ戦争もね、南方の方でやっておったもんで、僕らの時分には、まあどっこも外国へは行けなんだ。いうことで内地におった。ほんで僕らがおるとこのすぐ西側に、三方原っちゅう飛行場があるの。それが、8月か9月やったかな。頃に、アメリカの艦載機が来て、その飛行場を爆撃やるわけよね。機銃掃射で、べべべべべべーっと。弾を撃って、ほんで、そこには飛行機やとかいろいろが陰に隠れてあるもんで、そこをやるわけやね。ほんでさーっと編隊を組んでは、行く。そういうやつを繰り返す。で僕は、ちょうどそん時部隊本部から、?をもらって、ちょうど、その飛行場のすぐこちら側まで出張しとったんや。ほんでそういうとこを見たと。ほんでその当時はね、ちょうど太田も機銃掃射あってね。太田の駅の機関庫ってあってね、駅員の人が亡くなったよ、打たれてね。ほんで亡くなった。何人亡くなったちゅうことは分からんけども、僕らの友達の弟んたも駅に就職しとって、ほんで亡くなったっちゅうことを後から聞いたんですけども。
それから終戦は、部隊で聞いたんやね。ラジオ持ってきて、重要な発表があるで全部?より、ちゅうことで聞いとったら、天皇陛下の玉音がやらしたんやね。ほんで聞いとって、ああ日本は負けたんかということで。まあこれからは、戦争も何もやることないなと思ってね。終わって、部隊やなにかもそこで解散をするようにっちゅうことで、解散はどのくらい後やったか知らんけども、話があった。
えらかったのは食事やね。当時なかなか食事が無いもんで、ご飯も大豆の入ったご飯ね。それを食べるちゅうとね、大豆がしっかり煮えておらんもんで、がりがりがりがり。ほうすると胃にひびいて下痢をした。下痢をしても休むわけにいかんもんで、一生懸命無理してやっとったわけよね。
腹が減って腹が減ってしようないし。馬が何頭おったかな。12、3頭おったかな。それにはえさもやらなんし、手入れもせなかんしちゅうことでね、当番は別に決めて順番を。大豆がすやとかいろいろわらに混ぜてやるわけでしょ。自分たは腹が減るもんでね。その馬にやる大豆をを持ってきて食べるの。食べるちゅうとまあ下痢しちゃうし、腹が壊れちまう。そうやけども、腹が減ってしゃあないもんでそういうことやったの。それから、すぐ公民館のようなところに小隊ごとに集まってそれぞれ分散したもんで、誰がどこにおるちゅうことは、僕らは一番初年兵やったもんでね、誰がどこにおったやら全然分からへん。まあ30人か、初年兵はそんくらいおったかなあ。ほんで腹減るもんで、すぐ民家は百姓やってみえる人らやもんでね、そこへ腹が減ってそこの家へ行って、「腹が減る」とかそういうこと言うもんでね、じゃがいもとか、いろいろ煮てね、「食べよ食べよ」と言ってくれたことがある。そのくらい腹が減りよった。
戦後
終戦になって、軍隊は解散しとったもんでな。それぞれまあ行けちゅうことで。てんでわれわれちりぢりばらばらで、来たわけやけれども、僕の場合は初年兵やったけれども、ちょうど進駐軍がね、兵器を日本国から引き受けなかん。引き渡すわけやね。僕らの部隊でも何人とおったもんで、そっから兵器を浜松の師範学校へ輸送してね。そこで引き渡すということで、僕らの隊はね。兵器をどこどこへ、何月いつかに集結しときなさいって部隊から命令が出てね。僕らは兵器を浜松の師範学校までね、トラックでやって並べて、アメリカさんに受け渡すという仕事でね。初年兵でおって、終戦をした後僕らは残留で残って。他は返されちょったけど、僕らはどのくらい残ったか知らんけど20人か30人残ったのかどうや。夜は泊まって不寝番でね。兵器がどっかへ盗まれたりなんやしたらあれやもんで、不寝やったりいろいろして。片道やっておったわけやね。で、その兵器渡すときはまあ僕ら関係ないもんで、すぐ家へ来ちゃったけれども。終戦になって戻ってきてまた山之上の役場へ就職したんです。
就職
…それから市役所にずっと引き続いて、定年が60歳までやもんで、59年の3月31日で退職をして、それからは家でいろいろやっとったけれども。その間いろいろと協力というような、市でいろいろ役職はやらせてもらってきたで、復員して役場へ入って、役場で?して、29年からは町村合併して、市民課やとか、水道課長やとか、農務課長、環境衛生課長、市民課長、退職の時は市民課長で退職したんです。退職してから保護士とか。保護士でだいぶ東中も行ったよ。不良な少年がおってね。校長先生やとか、いろいろ話し合いしたりして。
山の上の日記
一番記憶があるのは、あの当時百姓やもんでお蚕を飼っとったね。養蚕をね。やで桑を摘んだりいろいろして、朝早う行ったり夜遅う行ったりそういうことやって、お蚕に桑をやってみえた。そこへ召集が来ましたよっていって、持っていかないかん。本当に……そら名誉っていや名誉やけども、気の毒なような気がしてね、僕が数えの19かそこらやもんでなんちって言ったらいいや知らんと思ってね、それと山之上やもんで山のようなところも通って越えていかんならんやら。ほんやもんで、恐ろしいやらいろいろで苦労して行った覚えはある。判をもらって帰ってきて村長さんに、「朝、こういうふうで召集を持って行った」って言う。そういうようなこと。
それからね、空襲があるんだよね。その当時サイレンは無かったもんでね、火の見やぐらがあって、高いところやでね。ほんで.空襲警報がやれちゅうて、これも山之上では、古井の駐在所やったかどこやったかから、連絡が来る。ほんで山之上と古井と下米田は一緒に呼び出いといて、何時何分に空襲警報が発生なったで処置しよというようなあれが来るわけよね。はっきり覚えはないけれども、それから火の見やぐらの鐘を打たんならん。空襲警報のはどうやとか、鐘が鳴らすやつが違っとるね。そういうことも宿直のあれでやらんならん。日記もね、何時にやったとか誰がとか、召集令状が来たやなんかも、山之上の日記があるんやね。そういうことを書いて、次の朝村長さんに、こういうことやこういうことをやったって言って報告をしよった。
配給係
それから戦争がだんだん激しくなってね、僕ら役場におって、いろいろ主食やとか副食も含めてやけども、配給制度が。これは本見とるっちゅうと、国家総動員法っちゅう法律が国で13年の4月に出とる。そういう法律に基づいて、いろいろまず第一は米の配給制度。それから2番目には副食関係。副食ちゅうと味噌やとか醤油やとか、酒やとかあらゆる食料品やね。そういうものを、今は自治会長ゆうけど昔は組長っていうね。その組長に連絡をしてね、店があるもんで店へ出したりいろいろして。まず1番始めは主食っちゅうと米やわね。ほんで米の配給制度、これは昭和16年の4月より改正したということですが、僕は遅く入ったもんで、前の配給係の人があったもんですからその人がやっとって、その人が現役で兵隊に行かれた。ほんで後を僕が、村長さんが「お前配給係やれ」って。ほんで配給係をやった。僕は19年の9月から配給係になってね。こういうのはどこも全国的やわね。配給主任で入った。
特に山之上あたりは農村部で米を作っておる人が大部分やったもんでね、もちろん供出制度もあったけども、名古屋とかああゆう町から、もう名古屋には空襲やなんかいろいろあっておれんで、親戚が山之上にあるで行くで、頼むって。そうやってみえる。そういうやと、配給係や何かでも、転出転入ちゅうね、役場へ行ってどこどこに行くで転出証明をくれとゆうことでもらって、その行く先へ持っていくわけ。役場へね。今度役場では、それを見てこの家は大人が何人で子どもは何人でちゅうやつがあって。その基準でね。もう昔のことやで忘れちまってあれやけども、この配給は法律で決まったのはね、大人一人はね1日2合3勺の配給があった。ほんでそういう転出証明持ってみえるもんでもらって台帳作って、その家は、こういう人がみえて米がどんなけいるっちゅう、配給の日にちやとかいろいろ決めたり。それと同時に味噌やとか醤油やとか砂糖や酒やとかいろいろそういうものを配給に来やあたらいろいろやった。
煙草やとかそういうもんまで配給をしとったの。僕らの先生やなんかが、煙草買ってきてくれとか頼まっせるときがあるわね。そうすると煙草屋へ買いに行っとたわ。まあそれは配給制度になる前行きよったけれども。これは僕の家に買ってあって、いろいろ見よったらこういう本があったもんで。その当時のことがこう東海百年っちってこれ毎日新聞が当時に出しとったやつね。これ買っとったもんで家にあったわけよ。まあ当時の事やもんで。統制経済が始まってきたということやとかね。配給を国で決めてね。供出やなんかで割り当てがあるでしょ。あんたんとこは何段何r作っとるで米は家で食う分はどんなけで、あとは供出をしなさいということで供出をしよった。そういうことが書いたる、これ。
ほんで白飯やったけれども、7分づきにして食べなさいと。量も少なくなるもんでね、白い米にすると。いろいろそういう細かいことが書いたるわ。僕らは家で百姓やったもんで自分家でつくようにやっとったもんで、そういうことはあんまり記憶にないけれども。そういうことが書いたるけどもね、で他に国家総動員法いう法律ができた。ほんでこういうことが書いてある。配給の主任者係やってね、加茂郡なら加茂郡の県事務所があったもんでね、今でもあるけども。そういうとこの係を召集していろいろ指示をして。その通り役場に配給をもらってきた。ほんで配給の日にね、朝ちょっと遅れて行くっちゅうとね、どえらいほど玄関に待っとってね配給を。チェックしんならんでしょ。この家はそういう米の通帳を持ってみえる。やもんでそいつにあんたんとこは何人で、何じょう何合やちゅうやつを書いてやらならんだよ。そいつを書いてやることはその他いろいろやけれども、そんなようなことをやっとったし。それからだんだん時が経つにしたがって衣類、シャツからいろいろそういうもんまで配給になった。
……で、ここ(デイサービス)にご厄介になっとるんです。で渡邉さんにもいろいろ話ができるかできんかわからんと思って心配しとったけれども。まあちいとでも、参考になればと思ってね。そういうことで。