T.Nさん・奥さん

兄の出征と戦時中の学校生活

取材時年齢

82歳・77歳

取材時在住

美濃加茂市加茂野町

取材年月日

平成27年7月22日

※奥さんのお話はカッコ内()に記載

兄の入隊

おじさんの兄さんは、18年やと思ったよ。18年に入隊して、ここのもうちょっと向こうの町内なんやけども、そこからお宮さんへ行って参って、町内の人が旗を持って、「勝ってくるぞと勇ましく、誓って家を出たからにゃ、手柄立てずに帰られよか進軍ラッパを聞くたびに、瞼に浮かぶ、母の顔」そう言いながら、兵隊さんにこうやって、旗を持って、送り出したんやね。これは日本全国どこでもそうやったと思うよ。こんな歌聞いたことないやろ。【お兄さんおいくつの時の出兵なんですか。】20歳で亡くなっとるで、レイテ島で20歳になっとったよ。…ちょっと待ってよ。24歳やったか。24歳か。2年やもんで、22に早もう行ったかな。でその時に奥さんが送った言葉に、「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」こういう刺繍したやつを兄さんに送ったんやね。戦争行くときに。敷島のって日本は、昔から敷島のって言ってそういう名称もあったやな。とか山桜花って言うのは、やっぱり日本の桜やということで。そういうことで、頑張ってくれという意味のあれやろうなあ。この言葉は、本居宣長の言葉なんやな。「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」っていうのを。それを送って、送り出したんやね。

学校生活

で、段々段々と戦争が激しくなってきて。おじさんはそん時5年生6年生やったもんで。戦争が激しくなってくるとラジオから、「大本営発表」ちゅうふうにまず出てくるんやな。陸軍の方から。「敵機、B29が、潮岬南方洋上に、数十機」とかいうふうに放送されるもんで。ほして、やがて2時間か3時間してくると、空襲警報言って、愛知県とか岐阜県とかに、サイレンが鳴る。ほうすると、僕らはちょうど学校の帰りやちゅうと、低学年を、ちょうど通学路に山があったもんで、その山に避難するとかさせとったんやね。ほしたらね、カラスヘビって言ってね、山にヘビがおって、真っ黒のヘビ。それがぺぺぺぺーっと木をつたっていったもんで怖かったもんで、今度下級生を道路の反対側の麦畑の方へ下級生移して、麦畑に皆伏せさして、空襲警報が解除になるとじゃあって言って、家に帰させよったんやね。で学校で空襲警報なると、5,6年の人みんな低学年の生徒を、竹藪。竹藪ちゅうのは、根がいっぱい張って結構丈夫いもんでそういうとこへ、皆さんを避難させる。そういう誘導役なんかを上級生はやってたんやね。普段空襲警報でないときは、上級生の僕らはほとんど勉強してなかったんやな。先生に連れられて川へ行って、対岸の方へ石を投げるの。みんなしてずーっと並んで。それはなぜかゆうと、敵が攻めて来たらその石を投げるということをやってたんやね。でも今思うとそんなん向こうが鉄砲撃ってくんのに石投げなんてやったってそんなもん追いつかへんのやけども、それでもやっぱりその時分は、もう一騎団結しとったもんで、それが、敵に向かってやればいいっていうもうそういう信念しかなかったもんで。でそれをとにかく一生懸命、石投げとかを練習したりして。学校へ帰ると、竹槍っていって、竹で槍にしたのを、藁人形に向かってやーっと進んでだーってやって。5,6年のうちはもう空襲警報鳴る以外はそうやって練習しとったの。

名古屋空襲

で、段々段々と厳しくなってきて、もう愛知県にも空襲警報が入るようになって、朝からもう早や空襲警報なると、学校行かんでもいいんやね、自宅待機で。今でいうと。やけどもおじさんたは、友達つれて長良鉄道、今でいうと越美南線やけども、富加駅でホームのはしっくれに座って、名古屋空襲されとるのを見とったのね。ほうするとね、ものすごい何機か来て爆弾落ちるのわかるんや。日本の高射砲で撃ったやつが、途中でぽこーん、ぽこーん。とやっとるだけで、当たらへんの。B29なんてどえらい高いとこくるもんで、届かへん。【それがここから見えたんですか】見えたよ。天気のいい日は見えて、B29の形まで見えた。ほんでどんどんどんどん落とすんやけども、全然、撃っとっても当たらへん。

美濃太田駅

ほんで、段々段々と時が経って、美濃加茂の太田駅。あそこもね、機関庫っていうのがあるわけね。列車の修理する車庫みたいなとこがあるの。でそこをめがけて艦載機っていってね、船から飛び立ってきたの。その艦載機がね、僕らそこで駅で見とったら、その目の前をうわーっといってね、ほんで太田をバババババーって2回も繰り返して。日本の戦闘機と一緒やもんで、ガソリンたんと積んどらんもんで、2回くらい撃って、そのまんまびゃーっと帰ってったけどね、そんときは、1機だけ来ただけ。バリバリバリっちゅう音まで聞こえたよ。駅で僕らが5年生の時に聞いとった。それくらい来て、まあそれでも、なんちゅうの。自分たでは、日本は負けるなんてそんな気持ちはなかったな。うん。ただ、すごいなっていう感じやったわ。

岐阜空襲

それから岐阜の時はおじさん全然知らんかった。もう岐阜の空襲はほとんど近くやもんで、(防空壕で、ぼおっとして見とったら、ものすごいきれいなの。小さいころやで、小学校あがったばっかやもんで。ほんでもう花火見とるよりきれいやってね。戦争っていう何やあらへん。)あのね、焼夷弾をばかばかばかばか落とすもんで、すごいあれやった。

隣組

その時分は町内ではね、今「絆」っていうけど昔はね、一軒一軒にどこの家もこの防火用水を作らないかんかった。ドラム缶とか、水桶とか。で、もし焼夷弾が落ちたら、これを皆さんが、バケツも用意してあるもんで手渡しで、その町内の落ちたとこへ、消さないかんちゅうことで、各家庭でこういう防火用水ちゅうやつを必ず作らないかなんだ。そのときに、「向こう三軒両隣」ちゅうのを、昔はよく言ってたの。それと同時に、「とんとんとんからりと隣組廻してちょうだい回覧板教えられたり教えたり」って言って、いろんな、戦争の避難とかやるのを、町内ごとにこうやって連絡しあって、待機しとったんやね。で、いざ、このへんでも空襲警報で敵機が来るようやったら、皆さんと一緒に逃げて、団結して、戦おうっちゅうような気持ちでやっとった。こうやって、お互いに助け合おうちゅう気持ちで頑張っとったんやね。

レイテ島の戦いと兄

で、段々段々段々と、戦争もたけなわになってきて、初めのうちと大本営発表も全然変わってきたの。サイパンがやられ、ニューギニアも占領されて。その時分に兄貴んたは、釜山から、満州におったもんで、満州寒いもんでほんでこういう格好しとったんやね。で、もう戦争の終る頃に釜山から、今度フィリピンに、レイテ島の方へ向かって行ったんやね。で早そのころは、サイパンもおちてまって、もうほとんど死ににいったようなもんやね。レイテ島なんか。もう行くなんて。ここがレイテ島ね。これフィリピンでレイテ島。でサイパンはこの辺なんやね。ここへ行って、そのレイテ島へ。うちの兄貴んたはそんな激しい戦争の中やったんやけども、一応上陸したよっていって手紙がきたんや。レイテ島に上陸しましたよっていって手紙が来たんやけども、結局着いただけのことであって、もう、ここのあれもものすごい激戦地やったもんで、結局上陸しただけやけども結局やられてまったんやね。全部。もうこの時分は、みんなサイパンもやられ、もうほとんど、ほとんどこの辺に少しくらい日本人がおっただけやねえの。そんな状態でもう、先はほとんど見えてまって、これはね、もう19年の終りやな。20年に近いころやね。もう戦争が終わるすぐ。で、戦争済んでから遺骨が入ったのを、送ってきたんやね。うちの親父が、それを遺骨を、開いたんやね。ほしたら何が入っとったかいうとね、石が入っとっただけ。石が。その石やったって、どこの石かわからへん。でもまさかレイテ島の石やあらへん。その時分骨も拾えんやろ。ほんで親父は怒ってそりゃその遺骨をバーンと畳の上ぶつけてね、その憤りは僕らでも怖かった。横におっても。それくらいあの、悲しんどったわ。それからもう、間もなくして戦争が終結してまったんやけども。

予科練へのあこがれ

僕らはただ低学年の誘導したりなんかして。うちの親戚の若井っていうのがね、ちょうど予科練に入ったんや。7つボタンで。ちょっと暇なときあったのかしらんけども学校へ来たんやね。で学校で来てみんなで、生徒全部のとこで集めて挨拶してくれた時に、7つボタンでかっこよかったもんで、おじさんも、憧れてまって、「よし、俺も7つボタンに行くぞ」言って、要するに予科練ちゅうんやね。でそれに俺はなら絶対行くよっていって。でもう2年、戦争が続いておれば、おじさんたも、当然行っとる。もう18,9で飛行機乗って死んどる人はたくさんおるんやでね。で、今いくつ?14やな。18歳って言ったら4年やら。そんなころにはもう兵隊に行った人があるんやね。おじさんもそれで憧れて、おじさんたの時は今みたいに6・3・3制やないもんで、6年で高校行きよったんやでね。そんな時分やったもんで、6年生卒業したらもう早やそういう予科練の訓練を受けることもできるんや。そんな時分やもんで。やけども終戦になってまったもんで行かなんだけども。すごく憧れて、「よし、俺も予科練行くぞ」っていって、もう2年も戦争が続いとんならおじさんの命はあったのか無かったのか分からんわ。それくらい切羽詰まった状態やったんやね。日本はね。

戦後とアメリカ兵

それからまあ、段々段々と時が過ぎて。今の富加駅の前は加茂野駅になっとったの。そこの前に、こういう集積所っちゅうとこになっとってね、そこなにがこれ入れたったっていうと、日本の剣道の防具とか、銃剣術のとか、そういうのが入れてあったんやね。で、結構アメリカ人が、そういう戦争の道具がいれてあったもんで、アメリカ人が来るの早かった。ここへ来るの。で、ずっと大きな車で来てね、調べて歩いとったね。(わしらはね、チョコレートもらったり、ガムもらったり)早かったよ来たのは。終戦直後のほんと早い時。もうそういうとこよーく知っとるんやね。軍隊で使う銃剣術やると防具がいるやら。そういう防具とか、まあなんちゅうかな、毛布とか、そういうものが入れてあったんやないの。たくさん。そやもんで、調査に来たんやね。早かったよ来たのは。(学校の校庭にね、アメリカの飛行機がいっぺん降りたことがあるよ。)学校にもちょっと入れたったね。(私らはさほど深刻やないやら。小さいもんで。やもんで、チョコレートくれるしね、いい人やなと。でもあのころは英語が喋れんかったもんで、野球でも、それこそピッチャーやキャッチャーなんて言葉使えんし)

雪駄の思い出

「皇国の荒廃この一戦にあり。」日本の国のことやな。日本の国が発展するのも、廃墟になるのも、この一戦にありということを、山本さんは言ったんやね。で、どちらにしても一層努力せないかんよっちゅうことを。おじさんたも結構、石投げをしたり竹槍持って。お母さんは1年か2年か。(小学校、やない、国民学校の1年やね。)上がったくらいやな。国民学校やで。上がったくらいや。(上がったばっかしで、終戦。)おじさん知らんもんで。

(みんな、大きい人に連れてってもらって逃げたはいいけどね。折角新しい草履を買ってもらったんやわ。どこで買ったんか分からんけどね。それを、逃げるときにこんな溝の中に落としてまって。ほんでもう拾いに行く、帰るってこともせんのや。怖くて。ほんでそのまんま来て、「ああ、もったいないことしたな、もったいないことしたな」って。あのころは配給でしかもらえんかったね。履物なんかね。でそれをどこでどういうふうに手に入れてもらったか知らんけど、藁草履やない普通の雪駄みたいな。ああいうのを。結局そこで新しいのを落としてまって。)

日本は強いと思っていた

【周りの人もみんな、戦争に勝つと思っていたんでしょうか?】もうおそらくそうやと思ったよ。うん。大本営発表でもその時分は、まだサイパンが落ちん前は、あんまり「負けとる負けとる負けとる」ちゅう発表が出来んもんで。わが日本軍はどこどこを占領したやなくて、戦っておるとか。そんなような言い方だけで、あそこを占領した、ここを占領したちゅうことは、言ってなかったね。激戦、戦っておる。優勢に戦っておるとか、いうような言葉で話をしとったんやけども、サイパンとか、ニューギニア、ガダルカナルとかが、やられて負けたというようになってからは、ある程度、正直な発表をしよったね。あとは、室戸岬?四国?から、潮岬。和歌山県の南端やね。あそこやとかに、敵機来襲、数十機とか、もう終戦間際になるときは、もう何百機言いよった。何百機が、日本に向かっとるゆって。そんなような状態で、空襲警報になると下級生を、とにかく竹藪に入れたり、学校の帰りやったら、麦畑とかさつまいもの畑とか、そういうとこにこう、隠れさしたりして帰ってきよったんやね。兄貴んたも、満州におったんやけども。満州って、昔韓国があって、ソビエトがあって、中国がある。この辺は昔の地図見ると、この満州の辺も赤いとこあったよ。日本列島があって、韓国があって、ソビエトがあってこの辺に、日本の領土みたいなとこがまずあったんやね。満州っちゅう。でそこへ派遣されて行っとったんやね。で今の地図ではあかんけども、昔の地図はたしかにそういうふうになっとった。もう戦争が厳しくなってきて、そこらへんに日本兵が行ってる兵隊さんは皆、?しだしたんやね。今ゆうフィリピンとかあのへんに、ずーっと。で、中国のほうは、結構に日本は進軍しとったんやね。慰安婦の問題なんか起きるのは、そういうところにある。で満州にしても韓国にしても日本びいきやったもんで、中国もどっちかちゅうとあれやもんで。日本兵は結構、おおちゃくしたっちゅうか、今の言い方で言うとおおちゃく。悪いことをしたのかな。うん。若干ね。まあそんな程度のことしか、おじさんは分からんな。もう日本人そのものとか、僕らにしても、「負ける」ちゅうあれは、全然なかったね。日本は強いっちゅう気持ちがあったもんで。もうサイパンもおちて、あれもおちて、もう日本の領土に、そういう飛行機がくるようになったら、誰でもこれはもう日本はダメやなちゅうことは思うんやけども、その当時は、そんなこと全然思わなんだ。うん。あくまでも、まんだ勝てるっちゅう気持ちしかなかった。

桑の皮むきとどんぐり拾い

一番大事なこと忘れとった。おじさんたの5,6年時分は、こういう軍服を作るために、桑の木の皮むきをした。学校へ行って、勉強するんやねえ。各部落のお百姓さんのとこ行って、竹をこういうふうに挟んでね、縄でカンカンに縛って。竹を2本ね、ここを縄で2本だけ縛って、ここへ桑の木を入れてこちらにぐっと締めてね、締めれるように縄をこっちも巻いて。こうやってしごくと、皮だけになるの。桑の木の皮だけ残っちゃってね。それを何するかいうと、その繊維を送って、そういう軍服を実際作ったんやと思うんやけども。生地にするために皮向きに行きよった。(私らの、小学校1年生くらいの時は、お茶のほぼ。この花になる、芽になる種やね。あれをいっぱい拾い集めて供出したんやね。で何にするかゆったら、飛行機の油がないで、そういうのをたくさん集めよということでね、子どもんたがね、そこら中のお茶畑行って拾い集めて。)どんぐりもそうよ。どんぐりも拾ってね、それを出しよったの。どんぐりも飛行機の油になる。(とにかく油がないでっていって。飛行機の油がないでっていって。そういうことは、やったね。)だからおじさんたはね、もう5,6年なんていったらね、勉強全然しとらへん。ほとんどこういうことやら、あの竹槍持ったり、石を投げたり、そんなことばっかして。

「食三衣五住十」

ほんでおじさんは機械が好きやったもんで、今関商工いうけども、昔は関工業高等学校やったんやね。そこへ入って機械の勉強をして、卒業してから名古屋へ行ったら、もうおじさん勤めたところは、brotherミシンがやっとるとこやったもんで南区やったんやね。南区の内田橋ちゅうとこやったんやね。ほうしたらね、もう港区からその辺はあたりもう全然家あらへんのよ。もうほとんど焼け野原で。僕が行ったの25,6年ごろに名古屋行ったらもう焼野原。もうほとんど。だからそのときに、おじさんが二十歳になった祝いのときに、教育長やな。名古屋行った時の。こっちで受けなかったもんで名古屋で受けたときに言われた教育長の言葉は、なんやったっけ。うーんとね、「食三衣五住十」。ちゅう言葉を言わした。これはどういうことかいうと、日本は負けたんやけども、こんな焼野原やけども、君たちが頑張れば、食は三年経てば食べれるようになるよと。着るものは、五年経てば必ず着る物が、着れるようになるよと。ほんで十年経てば、必ず、家が建ちますよと。一生懸命やればやな。うん。日本が負けて沈んどったって、なんにもならんから、こういうことを頭に入れて頑張れば、必ず日本は復興しますよゆって。ほしたらほんとその通りくらいに、十年経ったらぶつぶつぶつぶつと家が建ったりなんかして、復興の兆しがこの時分から表れてきたんやね。僕は幸いにして、そのbrotherミシンの下請けの会社に入ったもんで、あの当時はやっぱりミシンちゅうものはどこの家庭でもやっぱり、なけないかんものやもんで、どんどんどんどん大きくなって、うん。いいとこに就職したなとは思っとった。これが教育長の言葉やった。これよう、いまだに覚えとった。まあ、そういったおじさんの、そういうだけの経緯しか、ちょっとよう分からんな。

兄の出征時の記憶と家族

【お兄さんは、志願されたんでしょうか?】志願じゃない。徴兵制度言って、もうこの時分なると、お前は兵隊になれっちゅうふうに、赤札っていってこういう召集令状が来るんやね。それが来ると、もう逃げれない。絶対に行かなければ。召集令状って言って、こういう令状が来よったんやね。これは、普通は赤紙ちゅう言いよったんやわ。赤紙。赤紙赤紙ちゅう。でこれが来たら絶対に逃げれんわけ。うん。もう絶対に入隊せんと。あなたはどこどこどこどこへ、これはうちの兄貴は二十六連隊だな。に入りなさいっちゅう。それが来ると三日以内くらいにはもう行かならんもんで。その間にもう早やあれやけどもわかっとるもんで、皆さんに日の丸の旗をやって、千人針をこうやってやってもらって、それを腹に巻いて、兄貴は、今ゆう「敷島の大和心を人とはば朝日ににほふ山桜花」ってやつと一緒に腹に巻いて、戦地行った。で、その時にみんなが、「勝ってくるぞと…」って言って、旗を振りながら、今のこの、駅まで、送ってった。ほんでちゃんと、憲兵が来るもんで、二十六連隊っていって分からへんやろ。ぽーんとくるだけやもんで。ほんで三日以内に入りなさいやもんで。でどこ行っていいかわからへんもんで、ほんでちゃーんと憲兵が来て、連れて、入隊させた。もう全然この時分はそんなような徴兵制度やもんで、志願なんていうもんは全然ない。で、志願っていうのは、さっき言った若井ちゅうんが、予科練に行ったの。今ゆう、中学卒業するとあの時分は、六年生の時には中学ってあったんかな。すぐ高校やでな。高校の方へ行くのか、そういう予科練へ行って。これを、志願やわ。志願して飛行機乗りの勉強するんやな。そういう二通りあったんやね。そういう志願、もちろん志願と、徴兵制度とあって。もう兄貴んたは、もう早や二十歳ごろやもんで成人しとったもんで。ほんやもんで徴兵制度しかない。で赤紙が来ると、もう嫌でも行かなかん。兵隊に行ったもんで、結局それがもとで、病気なっちゃって。心配で心配で心配でかなわんもんで。で病気なってまって、早よ死んで。ちょうどキヨ子ちゅう名前の娘もおったんや。で僕ものすごく大事にしとったんや。で大事にしとったけども、結局きよこも、あれいくつや、三つか。四歳くらいか。四歳くらいで死んじゃった。亡くなった。一家全部死んだ。

【奥さんは、病気で亡くなったんですか?】奥さんは病気。なんちゅうの。心配でね。子どもをおいて、亡くなってまった。ほんで子どもも病気。病気っても、その時分食べる物がないやら。そやもんで栄養失調みたいなもので亡くなった。うん。最後、ビーってこういうひきつけを起こすようになって、ほんで僕のおふくろが、下呂へ連れてって診てもらったんやけども、あんまり長く生きられんやろうちゅうことで。ほんで僕はどえらい大事にしとった。だから、この遺骨でも、石が入っとったのも、当然やて。そんな骨みたいなのを拾ってくる、そんな状況ではなかったんやて。(お父さんはいつも、死ぬまでにいっぺんでいいからレイテ島へ行って、兄貴に会ってきたいって言って、いっつも言うよ。どこで、どうなっとるかは分からんけどね。結局、遺骨がまだ残っとるんやろうね。)で、広島の、原爆おちたとか、長崎に落ちたとかいうのは、今やったらすぐわかるんやけども、おじさんたの時分は、ラジオだけやら。ラジオでも、ひゅんひゅんゆうもんでボリューム合わせるのに一生懸命みたいなラジオで、こうやって聞いて、やっとったんやな。で、今おじさんたはこういう年やもんで、耳もどえりゃああかんけども、あんたたちくらい若かったもんで、耳もあれやったもんで。おじいんたはこうやってやりよったけども、おじさんたはこうやってやっとっても聞こえたでな。誰一人、「ああ、もう日本ダメやな」ちゅうことは全然聞かなかったね。うん。原爆が落ちてからも。だって、落ちてもう広島も長崎もやられとるんやけども、僕らにゃ入ってくる情報は、それから一か月も二か月も後やもんでな。どうしても。今やったら、東京で起きたことすぐわかるけども、あの時分は東京で起きたことなんかもうぜんぜん、我々の耳に入ってくるまでにはこの田舎に入ってくるまではもう三か月も四か月もかかっとる。そんな状態やったもんで、広島に原爆が落ちたの、長崎に原爆が落ちたのって、全然わからんかった。ほれで、おじさんた六年生の時に、おじさん覚えないんやけどもなんで瓦を荷車に積んで、関の方へ持ってったか全然分からんの。瓦。それを積んでずーっと行って、富岡小学校ちゅうとこがあるんやね。ここの道ずーっと行くと、こっちが関市やね。とここらへんに、富岡ちゅう小学校があったんや。富岡小学校。富加からなんか知らん荷車引いて、ずーっと行ったんや。なんで瓦やったん覚えないけども。ここの学校へ皆さんはいりなさいっちゅうことやったんや。ここへ。で、ここでなんや、何かなーっ言っとったら、今の天皇陛下の放送が、ここで聞いた。僕らは。その時六年生なんやけども、ここで聞いたんや。地元で聞かずに富岡ちゅう小学校へ行って、なんちゅうのあれ。天皇陛下のお言葉。玉音か。玉音放送か。放送を、ここで聞いた。うん。

【運んだのは、落ちた瓦とか?】いやー、それ全然覚えない。瓦持ってったちゅうことは、瓦は、積んだやつを持ってったのかな。覚えないんや。でここの学校で、この玉音ちゅうのを聞いたんやな。なんで瓦言われても、それが全然、瓦ゆうことだけ分かる。瓦ちゅうことだけ分かるんやけども。

野球するときも

それくらいやもんでおじさんたは、もう5、6年ちゅうのは、空襲警報ないときは、子ども同士で遊びたいわな。で遊ぶやら。で英語が使えんの。今やちゅうと、「アウトー、セーフ」って言ってやるやら。おじさんたそんな英語みたいなの使っちゃあかんちゅうの。でならなんて言ったかゆうと、しっかり覚えないけど、あの時分やったら「だめー」って言ったりやな。「だめー」うん。おそらくストライクボールでも、「悪いー」「良いー」って言ったんやねえ?しっかり覚えないけども。英語は使っちゃいかなんだ。ほんで駅に桜の木がいーっぱいに植えったったもんで、でここらへんからコロコロベースって言って、ゴムボールポーンってやって、それをぼーんとやって、ほんで、この木に行く、この木に行く、この木に行く、っていって、遊んどったわ。ん?ベース言っちゃあかんわな。とにかく、英語は一切ご法度やったんやね。ほやもんで、「打ったー、投げたー、取ったー」そういうふうやった。そういって遊んどった。これは、16年、17年ごろや。まだ戦争が激しくないもんで。まだこの時分は、まだ日本がどこどこへ進軍して、あの勝利したとか、そういう放送ばっかやった。

さつまいもと子どもたち

で、それで段々段々と、厳しくなってきて、18年頃からかな。サイパンが落ちた、ニューギニアで占領された、っていって、玉砕ちゅうのか。全部死んだ、死んだ、死んだちゅう話聞くようになってから、もう厳しくなって。こういう遊びもできなんだね。で、何をやったかちゅうと、さっきみたいに桑の木の皮をむいたり、どんぐりを拾いに行ったり、お母さんたは豆ひろいに行ったの?(いや、お茶のほぼ。)お茶ぼぼか。お茶ぼぼ取りに行ったり、そういうことを、やって。(そういうのを戦争中にやって、戦争が終わったら今度芋。芋ほりやら畑の耕しやら。)おじさんたは駅があって、ちょっと街やけども、富加でもほとんど百姓の人たちんたは山とかあるもんで。学校終わってどんぐり拾いに行ったって、どんぐりどこにあるや分からへんやら。ちょびっとしか持ってこれへんやら。ほうすると、帽子いっぱい持ってくるやら。そういうときに、「お前なんや」っていうのが、いじめやったんや。いじめって言っちゃおかしいけど。そう言って、「なんでよけ拾ってこんのや」ってやるもんで、うん。やられよった。

美濃太田の機関庫

【太田の駅とかも、名古屋も岐阜も、全部終戦間際くらいのことなんですか?】うん。太田もそう。(太田は、5月頃やなかったかね?)月日ははっきり覚えないけども、とにかく駅のホームに座ってほうやって見とったんやで、富加駅で。長良系統になって細かくなっただけやで。場所は、今の富加駅。(走っとった時は、加茂野駅。)空襲警報、朝サイレンが鳴るとまあ学校行かんでもいいやら。家も駅が近くやったもんでたたっと、走っていきゃ1、2分くらいで行けるとこやわ。こうやって見とったんや。ベーっと焼夷弾を落とすんや。わかるんや。昼間やよ、昼間。名古屋の空襲も昼間や。ほうするとバーンバーンっといって、大砲は撃っとるけども、でぽこーんぽこーんと破裂しとるだけで、全然。ほんでも、一機だけは、「あ、やったあ!」っていって、俺んた万歳したことがあるで、たしか一機だけは当たったんやないかなあ。それは覚えある。ばんざーいしたで。おおやったーっていって。で、美濃太田の時は、あの時はまともに見えたもんなあ。ちょうどそっからヴーーっていったもんで。一機だけ。一機だけ来ただけ。やっぱりね、よう調べとるんや。どこにどういうあれがあるっちゅうことを。冗談いいよったよ。「岐阜はお城があるで、そういうところは、焼夷弾落とさないよ」ちゅうん。名古屋でも、お城は落とさないよとか。【でも名古屋城は燃えてしまったんですよね】燃えた。そりゃ連続でやって燃えたんやけども。落とさないよとか。有名なところはもうよーく調べて。【この艦載機は、汽車を狙ったんでしょうか?】あの機関庫っていって、太田に修理したりするとこ、機関庫ちゅうとこがあるんや。列車を修理するとこがあるもんで、そこを狙ってきたわけ。でそこを狙うちゅうことによって、ようするに列車を狙うのと一緒で。機関車を狙えば、物資を運ぶことできんやら。でそういうことをさせんためにやるわけ。ほんで橋とか、こういうところとか、軍需工場ちゅうのは、狙われたわけ。【あんな小さな所も狙われたんですね】(あのね、昔の美濃太田はロータリーになっとって、真ん中に一本線があって、そこへさーっと入って、そこでくるっと回って、あと出てくようになっとったの。結構大きな建物で。今あらへんで分からへんけど。結構機関庫っていって大きかった。)そこがやられたときは、人がやられたちゅうことは全然聞いてない。たぶん、一人や二人負傷したとは思うんやけど。全然聞いてない。昼間。見えたんや。目の前で。ちょうど、太田の機関庫をやるには、もうこの辺から低空飛行してかなあかんもんで。よう見えたわ。(今は古井駅いっとるんやろうねえ。修理するところ。あのころは、美濃加茂って言わんかったやら。太田って。太田町やったかね。加茂郡太田町。うちらの辺は、加茂郡富田村。)で加治田村、富田村、ってやって、富加と、加治田ってやって、富加町になったんやけども。(それは30年ごろやないの。もっと後かね。)6・3・3制が始まったのは、昭和30年やったで、31年ごろやわ。そうなったのは。(でそのころの人口と、今の富加町の人口と、変わらへんらしい。いつもちーっとも増えんねって。)

おじさんが記憶しとるのは、行ったり来たりしたけど、まあそんな程度やな。(どっちかちゅうと、戦後のことの方が、苦しみが沢山やでね。その時よりも。私ら年が若いもんで。)ほんでね、それもやし、こうして兵隊さんにみんなとられていくでしょ。若い人は。徴兵制度で。ほんでおじさんたは、お百姓さんへ行って、田植えをしたり、稲刈りをしたり、麦踏をしたり、芋ほりをしたり。そういうこと。上級生はみんな、5,6年は、そういうお百姓さんのお手伝いを、してきたんやね。

戦後の食事

【戦後特に大変だったことはなんですか?】(戦後の大変だったことは、結局食糧がないもんで、他所の畑から失敬してきて)芋づるの、葉っぱを取ってって、食べたり、みそ汁ん中入れて食べたり。うどん粉を練ってみそ汁ん中入れて、団子汁とかってそういうのを食べたり。(代用食やね。お米もないもんで、なんでも粉のものは全部集めてきて、練って、団子にしとった。芋でも、澱粉工場ってあったんやな。そこでなんか澱粉、ジャガイモの澱粉やない、芋の澱粉をもらってきて、それこそ粉にしたり、それを食料にしてやっとったし、ほれから、私が一番いつも言うのは、山に生えとるこのクサギちゅうのが、あるんやね。こんな大きな葉っぱの。あれを、いつもその団子の汁とかなんかの、あのお米のすこーし入ったとこへ、どっさり入れて。食べるんやね。あれが嫌で嫌で。芋づる食べとるよりも嫌やったの。でもあれ、昨日かしらんテレビでやっとったけど、結構いいらしいんやね。栄養があって。いいんやけども、そのころはもう嫌で嫌で仕方なかった。うん。味が。)

まあ戦地のことは分からんな。どんなふうやったか。学童疎開もないし、戦中、戦後の生活…。まあ辛かったのは、やっぱり勉強ができなかったということと、お百姓さんの手伝いとか、桑の木の皮むきとか、どんぐり拾いとか、竹槍持って人形をつついたりして。そんな練習ばっか。だからおじさん今82歳やけども、こんな丈夫いんや。【そういうことは、お母さんたちは、やってない?】(やってない、うん。まだそれこそ、どんぐり拾いが精一杯やったころ。)

きれいだと思った

まあ、そういうのは辛かったな。今思うと。でもこの時分は辛いとは思っとらせん。今の感じで言うと、ほんとに辛かったなあと思う。この時分は、もうこれが当たり前やと思っとったもん。うん。勝つためには、兵隊さんの服は作れるということで、一所懸命やっとった。だから、中学くらいちゅうと、早い子やと学童動員ちって、女の人は紡績工場行かないかんかった。うん。働きに行った。家の姉さんら二人とも岐阜?行ったけど、学童動員ちゅうので、紡績工場へ、行かないかん。【そういう工場は、岐阜の空襲の時などはやられなかったんですか?】(やられたんやないかね。紡績工場。)そりゃやられとる。駅の近くやもん。姉さんた行っとったとこは。

【岐阜の空襲は、花火みたいやったってことは、夜?】(夜。それこそ、電球に黒い幕をやって、サイレン鳴るもんで、電球を暗くするためにまずは被せといて。ほんで行くよーって言われて、一緒に付いて行って、行ったんやね。行ったことはいいけど、こっち見たら西の方見たら、いかにもきれいやったで、ものすごい、頭から離れへんわ。あんなの初めて見たもんで。今の岐阜の花火より。ふふ。あのころはね、家がそんな建っとらへんで邪魔ものが無かったで見えたんやね。今はそんなふうやったってそんな分からへんやろ。そう。)あの、1万メートルぐわーって来るんやもんでわかるんやな。そこの山へ登ると、名古屋駅が全部見えるよ。挟間。もう名古屋駅のビルが。天気がええとね。(天気がええと、ツインタワー、あれ見えるよ。)

(今のお嬢さん方は幸せやね。ほんとに。あのころ食べるもんがないもんやで、とにかく、少しでもお金稼がなきゃってことで、私なんかね、なんていうの。学校から帰るとミシン。既製品を、1日に何枚っちって、縫って、またそれを持ってって、でもう1週間に1ぺんか2へんかくらいずつね、うちの母が持ってっては、それをまた、お手伝い。勉強も何も、やったのかやらんのか分からへんかった。高校へ行くていうときも、もう、そんなふうでお金あらへんで、行かんて言っとったんやけども、とにかく試験だけ受けて、行くには行ったんやけども、入学式の次の日からはずーっと休んでまった。なんでっていって、先生わざわざ言って下さって、ほんで月謝が払えんいって。でまあ、ほしたら、先生がね、3か月代わりに出したるって言って。そんな先生簡単に言えないわね。それで、奨学金の手続き。そんなもんあるって知らんかって、奨学金の手続きして行ったんやけども。)【高校行く人の方が少ないんですね?】(うん。少ないとき。中学の先生は、就職なんてなかなか面倒やもんで、自分に都合のいい方にぼってまったんやて。私は就職する就職するって言っとったんやけども。)富加6千人おって、大学行くのなんて一人か二人やもんな。それくらいやった。(そう、少なかったよ。)大学なんか行けやへん。(お父さんたの同級生で大学行ってみえる人って何人みえる?)3人おる。(3人か。それくらいや。結構ね、同級生って多かったんよ。私の同級生でもね、富田村の、また別の駅前ていうとこがあって、そこでかれこれ10人くらいおったで。結構兄弟が多かったし、子どもも多かったし。うん。あの、なんていうの。「産めよ増やせよ」って。)