取材時年齢
83歳
取材時在住
美濃加茂市伊深町
取材年月日
平成27年7月26日
目次
小学校教育
私は伊深でずーっと終戦までおりましたもので。出て行かないから、そういう意味で市原さんのような空襲警報とかなんかのどえらい怖い思いをしてないわけですけど。むしろ私は、学校で戦時教育を受けたそのことの方が印象が深いわけやけども。体験したちゅうことは、戦時中ですからやっぱり戦争教育ちゅうか、そういうのをもう徹底されたちゅうことやね。私は市原さんよりちょっとだけ年上やでほんとならあれやけども、命に直接関わるようなそういう体験はしてないわけですね。まず小学校ずっと体験したということになると、飛行機が飛んでくると、「あの飛行機はどういう飛行機やろう」と、そういうことを想像する勉強の一環として当時は、音を出す機械がオルガンしかなかった。私たちの頃は。私は伊深ですから、伊深の小さい小学校で先生が、それらしい音をヴー…っといわして、たとえば大型爆撃機のB29。それの音とか、航空母艦から飛んでくる艦載機って呼ばれたあの飛行機、グラマンっていう飛行機があったと思いますがあの当時。その音と聞き分けるようなそういう勉強を音楽の時間にしたという。こういう音がしたらB29が飛んできて、どこで爆弾落とすや分からんで気を付けていましょうっていうね。艦載機や、まあ小型の戦闘機ですけどグラマン戦闘機って言いましたけどそういう、ちょっと音が違うんやね。だからそういう飛行機の音の聞き分けをまず勉強させられたということ。それから体作りということでは、よくテレビのドラマなんかでやりますが、藁人形を作って竹槍で刺す。そういうのを4年生のころからやりました。ちょうど4年生に、いわゆる徹底した軍師教育がおこなわれたもんで。体育の時間などに、校庭に藁人形が何体も作ってある。村人たちのそういうやつやと。その藁人形使って槍の刺し方を、ただこうやっただけでは刺せへんでって、槍の刺し方を教えてもらったっちゃ、教えられたと言った方がいいかな。そういうようなことを。それから、そのほか体育の中では、剣道とか、ようするに武道というかたちで剣道。柔道は先生いなかったで、まず剣道と、今のこの槍を刺す、銃剣術という。銃に、刀が付いてあるから銃剣というわけ。そういうようなことを、小学校のまもなく4年生から、はいったと。
美濃太田襲撃
空襲警報とか警戒警報とかいうのは、初めのうちはそんなになかったけども、やっぱりあの美濃加茂市というか、当時美濃加茂市やない、伊深村やったもんでね。伊深の山の中ですからそんなになかったが、でも夜になると、警戒警報発せられると、明かりをまず消す。家の中の明かりを消しちゃうという。消さずに家の中で、シートで電気をカバーして。でもほんとその電気を消しただけで、そうゆうような生活を強いられたわけやね。それはまあ日常生活での、決まりやね。で空襲警報で何したという。学校で避難の訓練はしたけど、実際に空襲警報でいったちゅうのは、太田駅に来たときくらいやなかったかなあ。あまり記憶にないですけれども。昔は太田は機関車の集積するとこやったもんで。蒸気機関車が何台も集まってきて、高山線と越美南線の機関車が全部今日はこの機関車を持ってくとそういうような車庫があったの。そこへ、時期ははっきり覚えておりませんけども終戦の間際にきたときに、終戦の前の年やったと思うけども、その車庫に止まってる機関車に、飛行機からボボボボーンと機銃掃射って飛行機で上から撃ったという。
戦場に行きたい
私は終戦の年の4月に中学校へ行ったわけですね。昔の学校制度では、村の小学校は尋常。6年生までは尋常科、で6年生から上を高等科っていう。私たちの学校は高等2年まであった。今の中学2年生の。この近辺では、蜂屋の小学校と川辺小学校にもう1年、高等3年ちゅうとこがあって。そこへ行く人は高等3年まで行かれたけども。私は伊深の小学校3年で6年で卒業して、今の関商工ですけどそこの前身の関工業学校ってとこへ行ったわけです。なんでそんなとこへ行ったかっていうと、戦時教育の生徒の教育がそれがもう徹底しておって、戦争に行くことを怖がったり嫌がったりするような子どもを育てちゃいかんで。伊深の高等科に行っただけでは、早く飛行機の、予科練という。それに早くなりたいと。それに行くと当然死ぬことは、死ぬなんてことは学校では一言も言わないけども、私は終戦の、20年の4月に中学校行って。ほんで中学校行ったら、軍事教育。小学校でやっとったことやなしに、学校の先生の中に軍隊から派遣された将校がいらっしゃってね、配属将校っていって。これは、学校の校長先生より怒られた。もう1つでも、言われたことにはいって言ってゆうこと聞かんかったらまあ怒られるのは当たり前で。そんくらい怖い先生でした。学校の先生、軍人ですわね。そういう人が、大抵どこの中学校、この近辺では関高は昔は女学校でしたからやらなかったと思うけども。今の武儀高校の、今武儀中といって。あの辺りには、たぶん配属将校は配属されてなかったと思うけども。とにかくそういう将校がおって、銃の使い方銃の差出方を、藁人形に竹槍でやるようなこととは違って、銃と同じ重さ同じ形のものを使って。やって。そういう教育を、8月まで。ほんと終戦の3日前までやられたんかな。毎日少しの時間やけども。でその時分は、関の工場があちこちにあったもんで、空襲は無かったけども空襲の恐れがあるって。空襲警報ちゅうと、私たちは学校に避難壕が作ってあった。作ってあったて、私たち入学した自分の、自分たが隠れるとこやでっていって、運動場に溝掘らした。掘って、そういうところい避難するそんなことを。たいへんな。それは今から考えたらアホみたいやけども当たり前で。国のためお国のためにやることやで嫌とは言わんし。嫌とも言わないし、思いもしなかった。早くそういう、戦場に行きたいっていう気持ちは、私の心の中にはあったわけやね。で先ほど言ったように、中学へ行ったのもそういうことで行った。村の学校へ行けば楽していける。
岐阜空襲と名古屋空襲
戦時中一番怖いなと思ったのは、岐阜の空襲の時。岐阜の空襲の時は、いつも伊深の空の上を、何機飛行機が行ったか分からん。飛んでた。それは爆撃機やなしに、小さいね、グラマン戦闘機やったと思うけど。大きい爆弾やなしに焼夷弾。燃やす。バーンって破裂して壊してしまうんやなしに、爆弾落として火をつけて燃やすという、そういうあれやったと思いますので。その様子見たら、そうかなと思って。あれが、破壊するんやなしに消失させるための空襲やったかなあとね。それが何機も飛んどるもんで、一機や二機やないわけやな。何機来たかそんな覚えもないけども。当然間違って爆弾落とすかも分からんし。そういう怖さは、そのときもあった。一機や二機ならいいけども、それがもう、かなり長いどのくらいの時間やったか。そう思いながらね。でしばらくすると、西の方の空が夕焼けで染まったんや。赤くなって。そのくらい、岐阜の火事はすごかった。同じことが名古屋の空襲のときにも。名古屋の方の空が、伊深から見てもずっと山の方が、あかあかとしとった。そのくらい一斉に燃えたわけやね。名古屋は2回そういうのがあったと思うけどな。
【名古屋の時は、(伊深の上を)飛んでいかなかったんですか?】名古屋の時は、飛ばない。名古屋の方は大きい爆撃機で。今の自衛隊の飛行練習はうちの上よう通る。やっぱり、飛行機の飛びやすい場所かなと思ってみたりするけども。とにかく岐阜の空襲のときは、うちの真上とは言わんけど、どの辺飛んだか真っ暗ですから。飛行機は小さい明かりをつけてるけども。そんな外へ出て見とるのに叱られちまうような状況ですから、家の中で。今の中学1年生のときでした。【防空壕ではなく、家の中に逃げた?】うん。自分の家にはそんな避難小屋も何にもないですから、家ん中に。まあ伊深のような田舎ではそうです。中には山際に家のある人では、家の裏に横穴を掘って避難小屋にしたという話を聞いたことはありますけど、まあ伊深にはあんまりそういう家はなかったですね。家がずっと並んどるわけやないもんで。
今思うと怖いけど
【学校に防空壕掘ったのは、中学校の時でしたっけ】中学校行ったときに、まず一年生は防空壕掘りをやらせられた。自分たで。私たちの学校はできたばっかりの私たち3年目の生徒でしたもんで。自分たの防空壕は自分たで掘るんやて。まあそんな大したことやねえ。ただ前から見て、見えな結構やったで。そんくらいのあれでした。直接目の前で爆弾が落ちて見えたとか、そういう体験をやっぱり田舎ですもんでね。同じ今の美濃加茂市でも太田の方はそうやなかったかと思います。そういう体験できた方はいらっしゃらんかもしれんけど。太田だけやったと思います。結局中心やで。ここんとこの人たちはね、ずーっと工業地帯ですから、この近辺では太田だけやったと思います。
言えることは、早う兵隊さんになって戦地へ行って、米軍と戦いたいということはちっとも怖いことやねえ。そういう教育をされとったんやね。で、兵隊に行きゃ死ぬこと当たり前のようなことで。死んだ人のことを軍神、戦の神様なんて言い方しとったでね。亡くなった人の葬式は、村中で。小学校で葬式あって。その後に個人個人の仏式の葬式。そういう教育ちゅうのは非常に怖いなあと。ちょうど今、憲法改正とかいろいろありますけども、やっぱり死ぬということが当たり前だという。戦争に行けんような奴は国賊やて。というような言い方された。例えば一定年齢になると兵隊検査ゆうやつがあったんやね。そしてそれに受かるのは甲種合格と乙種合格。甲種合格は立派な人や。戦争に行っちゃった。軍隊入れるのは乙種合格までという。乙種合格になったら皆にバカにされちゃうぐらいですから言わへんわね。そういうようなものの考え方が徹底されてた。そういうようなことを今思うと怖かった。でもちっとも怖いことやなかった。当たり前で。そういう徹底した軍事教育がなされたということやろうか。【その教育を何も疑問には思わなかった?】うん。そういう教育が全然なされてないから、行くのが当たり前で。そういう教育しかなかったんやね。