取材時年齢
89歳
取材時在住
加茂郡七宗町
取材年月日
平成27年7月30日
目次
満蒙開拓青少年義勇軍
兵隊は、わずか2ヶ月ちょっとかなあ。5月6月7月8月、やで2か月半。けれどそのうちに、誰も経験せんことを経験してきたわけ。
今の中学3年生。今は中国東北部やけども、元の名は満州国ちゅうの。これは日本の政策で、どえらいあっちの方へ兵とかやって進めて。侵略やったんやね、今から考えてみると。ほんでそれにえらい興味を持った。家出てかなかんちゅうこと何にもなかったけども、行ってみとうなって。今で言うと何かなあ、中学1年や。その時に志願をしたんや。でそれからその次の年に予備訓練。今の加茂農林高校やったな。あそこで宿泊訓練を受けて、学校の勉強どころやなかったけど。昔は尋常高等科1年が、中学1年や。高等科2年が中学2年やね。ほんで大体は、現在の中学2年になれば卒業ちゅうことになったけど。金のあるものや頭のいいものは、みんな高等科3年て。あとは中等学校行くとか、職を見つけるとかそういう時代やったもんでね、私は、満州の大平野へ行って働いて、ちいと名をあげて親たちを呼んで、第二の故郷を創るという。そういう気持ちで出て行ったんやね。うん。その満蒙開拓少年義勇軍に三年間。これはそういう規則があって。三年間たてば、各個人一人に30町歩の畑が無償でもらえて、そこで1代過ごしてもらう。そういう約束やったけど、何にもならなんだちゅうことやけど。そんなで満州へ出てったんやね。土地がもらえるどころか、やったことはみんな軍人の訓練と同じように、まるきり兵隊そのものやったんやね。それが3年間。ほんで3年過ぎて、入植する土地が決まって、6月に入植して、初めてくわを手にすることができたちゅうことや。そのうちに3年間に1度、故郷に帰れるちゅうことで、家に帰ってきて1ヶ月ほど遊んで、帰ってったわけやけど。その年、高等科2年。内地の人たちよりも1年か2年早めに軍隊へ入らなかん。で喜んどったのは、甲種合格にはならなんだ。身長が足らなんで。わずか1m53で、人に笑われるような小さい男やったもんで。乙種ちゅうので。この乙種ちゅうのは、軍隊で言うと2番目の段階やね。1番が甲種合格。乙種は2番目。ほんで3番目になると丙種。そのあとはまあ軍人になれん。病気を持っとるとか肢体が不自由とかそういう人たちやったね。
関東軍へ
でまあそういうようなことで、5年間まではおらなんだが、開拓に関係したことはまる4年。ほしてちょうど終戦の年、1945年の5月に、「関東軍へ入隊せよ」ちゅうことではじめて、軍人ということになったわけじゃけども。その軍人の期間はわずか2か月と半分。2か月半やったね。ほんで直接戦争に携わったわけではないけども、戦争以上に、なんちゅうかな、悲惨な状態の中でその2か月を過ごしたということ。その入ったことろが、一時、昭和の終りから平成の初めにかけて日本中で話題になったとこやけども。何をやったかちゅうと、率直に言うちゅうと、中国の捕虜を殺したちゅうことやね。ほんで殺すことは直接携わらなんだけども、今の捕虜の収容所の爆破やとか、捕虜の死体の…始末。そういったことをやったわけやな。ほんでこれ話があちこちするかもしれんが、ソ連が日本を侵攻するちゅうなにをはじめたのは、まず1番に今の中国の東北部満州の、日本がはいっとる、まだそのころそんなに大変な人数ではなかった。私んたが行った時が第四次。義勇隊で言うと、第四次やで。あと十三次くらいまで出てきたと思うけども。
こんなやつ見てもらっても、わからんな。まんだ大事なあれがあったけども、家を立て替えたときにいらんいらんてみんな、大勢で片づけたもんで大事なもんみんな捨てがってまって。母親がしまっておいてくれた手紙までちゃーんと、そのころ建てたのが平成元年やったで、それまでは大事に家でしまっといたら、誰か手伝いに来てくれた人か知らんが、「こんな古い手紙みたいなのええやら」って、どうも燃やいてまった。こんな大袋にいっぱいしまっとったのに、それが一番大事なあれになった。写真も何にも大変向こうで撮ったけども、また兵役終わったら帰ってきて開拓の仕事ができるやろうちゅうことで。みんなしまっといたんやね。そやもんで写真はあらせんわ、証拠になる手紙、「せっかく母がっとっといてくれたやつやで」って言って『重用』と袋に入れてしまっといたのに、燃やしちゃってあらへん。そんでがっかりしちゃってよ。いろいろ文章書くことが好きで、死ぬまでには何とか書き残したいと思って、そうやつを大事にしまっといたんやけど、ぜんぜんもうあらへんのやで。ほんと記憶だけで話さないかんようになってまったね。
異動
でまあそういうことで。今の軍役は、名前は、満州でも大きい街やけどハルピン市。現在でもハルピン。中国語ではないけどもハルピンいうんやね。ハルピン市からどうやろ2駅やったで、100キロくらい。10キロくらい北側へ入ったとこやったね。あそこにヘイボウちゅうとこやった。満州国関東軍の防疫給水特殊部隊。難しいことへ入ったもんやこれ。その前に歩兵を1か月間やって、そのあとにその特殊部隊入ったね。歩兵に入った場合は、まあこれは人殺しの訓練ばっかで、他のこと何にもやっとらん。ところが義勇隊でかなり鍛えとったもんやで、とんとん拍子で、なにさにつけてこんな調子のええとこないやって、仲間と一緒に勤めとったんやけども。ちょうど1か月経った時に査閲があって。その査閲もどえらい成績優秀で、そんなとこ褒められとってもあかんけどあって、終わった翌日。夜の9時か10時やったかな。呼び出されて「渡邉は明日、ハルピンの方の軍隊に配属になったで、行ってもらないかん。」おいたって言ったら?おいたなんて言ったらお前銃殺やぞって。昔はそういう、上からの命令は刃向かうことができなんだもんやでね。ほんでまあ、黙ってついてけって。ほんで次の朝早よう、そのとき歩兵部隊は牡丹江省の、エキガか。エキガのとこにある部隊で。そこではほんとかわいがってもらって、楽しとったわけやね。ほんでまあ命令なら仕方がないちゅうとこで、一人出てったわけや。で、今のヘイボウの防疫給水特殊部隊か。そこへ入隊する時にも来るのが1時間くらい遅れちゃって。もう、入隊時間に遅れると重営倉へ入らなんで。刑でも1番重い刑やけども、それを心配して恐る恐る行ったときに早や夜になっとったわ。まる1日かかって、ハルピンに。で行ったら門番が立っとって「入隊か」「はい。時間が遅れて、重い罪になるのか」って聞いたら、「いやいやええよ。今ここにみんなで食べた夕飯が残っとる。残飯やけども、食え。」そのころは腹がよう減る時期で。ほんで残飯だろうがなんだろうがちゅうことでもらって食べて。次の日からもう早や、配属の兵舎も何もかも決まっとったもんで入れられて、叱られもどうもせずに入隊時間の遅れは何ともなかったんや。やれやれと。
逆らえない
毎日何やったかちゅうと、衛生関係の講議ばっかりやった。まあ夏の暑いときに、ムシムシするような講堂の中でその講義を受けることが、苦しかったけれども、まあこれは辛抱してやるよりしょうがない。それでどんなもんやったかな。1か月の半分…30日間。そんなにもやらんかったと思う、30日くらい。ほれで日に焼けたからだが白うなってまって、もう早や死ぬか知らんと思うような体になってまって、室内ばっかやもんで。ほんでいろいろやっとって、成績が悪いっちゅうと酷い罰を受けないかんかったね。軍隊のスリッパちゅうのは、皮で作ったスリッパやで。ほんで私1回免れなんだが、みんな殴られる。そうした罪も罰もこっちから逆らうことが出来んで、やられるまんまに。中にはたたかれて倒れる者もおった。むごいことをするなと思って。ほんでそんなやつはまだあっさりした罰であって。ペーチカって、ご存じないと思うで。このくらいの周りで7人くらいで囲うとやっとこさまわれる大きな煙突なんやね。そいつが兵舎の中にたった一つある。そこへ連れられて行って、「これから蝉をやれ」って。蝉をやれっていうのは、それに抱き付いてミンミンやることで。さーて、そんな大きなもので、つるつるのコンクリートで仕上げたるんやで。そんなやつ抱えて止まることもできん。ほんでも何とかしてやらないかん、何とかしてやらないかん。みんなに台になってもらって足を両足、二人の肩に足をかけて。ほうやってやって、静かに抜けてもらって、ほうすると、1秒か2秒つらまっとることはできるわね。ほうで長いことつらまっとると、ミンミンをやらなん。ほん時に声を出しても「蝉は尻振る」って、こうやって動かさないかん。尻動かすとダンっと下へおっちゃうの。そんなやつ。これは嫌なやつやったね。そんなこと一回やらせられたことがある。
講義の最中に雨が酷う降って、急に作った兵舎やもんで中泥だらけになっちゃった。ほんで夕飯も食べられなんだ。お茶も飲めん。生水飲んだら生水飲んだでこれは義勇軍に行った初日から言われた教えやったけれども、腹減るしどうしても飲まなならんてちょっと飲んだら、軽いマラリアにかかったんや。私一人だけやないええか。大勢。下痢になっちゃってね、講義の時間に便所にとまってこのまんまおりゃ人の笑いもんになるし、着替えるものも何にもない。ほんで便所へ行く。便所の数だってそう大層はあらへん。そこに婦人便所ちゅうのがあるな。ほんで初めのうちは婦人便所を遠慮しよったけれども、ついに婦人便所へ入っちゃった。でそれを上官に、あれは上官って言っても上等兵やったで大したあれやないけども、見つかっちゃって。ほんでその時は何にもなくてやれやれと思っとったら、兵舎へ帰ったら「今日便所へ行った者前へ出よ」。しゃあないで出てったんや。ほんで「何にも言わずに婦人便所入った者」そん時私は婦人便所入っとった。前へぱっと出た。1番に出たんや。ほんで後のものはみんな、もじもじもじとうろたえてなかなかさっさと出なんだんやね。ほんでなんじゃかんじゃ言われとるうちに、何や30人くらいおったかな。ずーっと並んで、ほんで1番頭がその時も今度は帯革ってこのくらいの幅の、剣を吊らなんで丈夫なバンドやわね。そいつを自分のやつを抜いて、それで叩く。これでやられると、血が出るし。でも最初やったでかしらんが、最初の一つは痛くてここ黒にえとったらしいが、自分で見えへんし鏡もあらへんで見るわけにいかなんだが。痛いことは痛かったが1回叩いただけで次行った。ほんでまあこれで済んだやれやれって。ほしたら順番に向こうの方行ったら仕舞ほど酷うなって、もう叩く方がへとへとになるくらいやったね。そんな罰まで受けて、辛抱してきたわけやったで。
言われるままにやったこと
25日くらい経った8月の、ソ連が開戦したのが9日やったで、8月の7日の日やなかったかな。今度また「体に自信のあるもの、前へ出よ。」って。どっちみちあれやで、死ぬ覚悟でここまで出て来とるやっちゃでええわって。やっぱり一番に飛び出て行った。ほうしよったら、そう大勢ではなかったが、200人くらいの内で20人。ざっとやで30人はおらなんだで、出た。ほんで出たばっかに非道い目にあったとあのときは思ったけれども、これもまあ若いでできたことやけども、辛抱してやったが1週間という間は、後で話すけれども全然寝とらん。寝て歩いた。ほんで酸素ボンベにぶつかった。耳がここが切れて。ほんでも何も手当てしとるわけでもない。なんかここに塗り薬もらって塗ったくらいで、知らんうちに治っちゃったけども。その1週間寝ずにやったことは何かちゅうと、さっきのちょろっと言いかけとった中国の捕虜、300人ざっと300人やで、多いか少ないかはわからん。一兵卒やもんやで、そういうことはぜんぜん関知せんし知るわけもなかったんやね。だから言われるままにやってきたこと。最初の前の日は、捕虜がおるちゅう場面は見て、ずーっと廻って行って。ほんで次の朝早よう起きたら、今のみんな倒れとるんや。「あれ、どういうことやろう」と。言いよったらそのうちにだんだん風の便りか。軍属が集まって、毒殺したっていうんやね。ガス。ガスや。ほんですでにそれ以前にかなりそういう研究が進んどって戦争に負けなんだら私んたもゆくゆくはその仕事をやらんなん。まあそいつはそんなけで終えとくが。それをどうするか。7回8回…9回やったかな。個室やったね。みんな、一つの部屋に1人ずつその捕虜が入って。ほんで、7回までの間で1回2回は、捕虜が入っとらなんだ。みんなそれを、外に投げ出すんやね。窓から。そんなこと、まあご飯が出ても食べれんわ、むごいやら、胸が詰まってまって、ご飯も食べれなんだ。涙流しながら。まんだ、全部死んどりゃええけども、中には目をキョロッキョロッと動かしたり、腕を動かしたり、生きとる者もおる。それもそのまんま放り出しとる。それが2日かかったかな。後は、誰がやったか知らんが、ドラム缶にガソリンが運び込まれて、ガソリンで焼いてまったんやね。ほんでその後殺した死体を焼いとる間に、今度捕虜の収容しとった建物、これ鉄筋コンクリート建ての頑丈な建物で、全部窓は鉄格子で。今のサッシの格子。あれとおんなじ幅くらいで太さが1センチくらいの鉄の棒やね。それでできとる。それを取り外せんなん。そんな取り外しができるような道具もあらせんみんな、酸素ボンベで焼切らんことには取り外せん。おっそろしい仕事で、今度は自分の命が危ない。そいつをみんなで声掛け合って、壊して。その壊したやつをトラックで、ハルピンに、中国語で名前スンダリやなかったかな。松花江ちゅうどえらい大きな河があるんやね。その川岸でほかるやつならええが、舟で今度持ってって中に橋が架けたって、その橋を歩かないかんかった。ほうやって持ってって真ん中の方で沈めるんや。そいつ終わったら今度は、死体がまんだぬれたようなやつもあったけども、肉が付いたような感じやった。それをカマスに詰めて。これはもう真ん中。スンダリのど真ん中に持ってって、捨てる。そんなけが4日ほどかかったかな。その間、昼間は当然、漏れて悪いことやないで働かなんだけれども、屋根下に入って暑い中で日陰に入って、昼寝もできなんだね。いつ何やあるやわからへんで。ほうやって、1週間。まる1週間やったで、そんなやつが4日ほどかかって、あとの3日、そんなけが、戦争に行っとっても殺し合いはあったやろうけども、殺し合い以上に悲惨やと思ったね。
逃げる
その仕事終わって今度は、自分の身の回りのものかかえて、まあその時はぼけーっとしちゃって眠たいだけで、何しとるか分からんような状態やったけども。そこを爆発する、電気を送るで「早う逃げてこい」って。自分が危ないで早う逃げて来いって。ほんなことやったことないけども、まあっちって。どっちみち死んでもええやって言って、全部シンカンに電池入れて。爆ぜて、建物が潰れてまうまで見届けて。
ほして、いよいよ今度自分た逃げる。逃げるっちって、その玉音放送ちゅうのを私ら聞いたことないんやね。知らんうちに「日本戦争に負けた」ってそういうことになって。で「今までやったことは絶対人に漏らすな」。この本を買うまで、よう人に話さなんだ。うん。止められとったんやね。ほんで、銃も帯剣も家まで持って家まで帰って来とるんやで。命は助かった。この部隊に入ったばっかに。それでその隊員が散らかってまって今の行為が外部に知れ渡ると、酷いことになるもんやで。ほんでソ連に抑留することもなし。なんとか無事に帰れたが、まだこれから帰る後の話をちょこっとしたいんやけど。その辺だけは、自分では幸せやったなと思うんやな。
ほんで爆破終わって建物潰れてまって、何にも見えんようになった。よしもうこれで行けるわと思ったら、汽車に乗れって。汽車に乗ったことはええが、汽車は有蓋車と無蓋車とあって。有蓋車というのは、屋根のある風が入らん汽車やね。ほんな暑てうだるような暑さや中は。そんなやつに入らなあかんかった。食糧なんかは誰が積んでくれたか分からんが、積んだって。米なんか十分あったんや。でそれを積んで出かけた。が、途中で全部現地人に盗られちゃった。盗られるとしゃあないまあ大勢来て、こっちは鉄砲持っとったけども弾はあらへんし。剣あっても人を殺すことはできへん。汽車で、隅っこの方で隠れとった。そのうちに全部、引きずりおろされ盗られちゃった。
帰路
こうやって地図整理してみるとあれやな。俺はずいぶん遠いとこまで行っとるな。(70年にもなるんやねえ戦後から。命があるでまんだ。そう思いながら。)これをこう登って。南の方は行かん。ちょっと地図細かいでわからんかもしれんが、この国はご存じのようにどえらい広い国やで、地図にするとこんなやさしいとこにはいっとる。今まで話いたのはここまでの話やね。ほんで爆破終わって有蓋車に乗って、このハルピンまで戻ってこういうふうに行って。ここら辺まで来ると積んできた食糧、米だけやけど無うなっちゃって。これは話すとずいぶん日にちがかかっとるんや。ここ、おそらく10日くらいかかっとるんや。それで余計盗られちゃったんやね、食糧。ここは歩兵部隊があった、最初に入ったとこやけど、これをこのまんまずーっと来て、ここまで10日くらいかかって。普通ならそんなにかからへんね。ここからずーっと行って、朝鮮の先の釜山までいくんちかかったかな。10日やな、10日間かかって、釜山からはその日に家まで帰れたで。この図們てとこで汽車が止まって。もう1日たっても2日たっても動かん。どこへ行って米を積んできたのか。トラックで行っとるもんやで、まさか朝鮮までは行きゃあせんでこっちで行って。まあどんくらいかかっとるか知らんツウカのどこかで、食糧を確保したんや。ほうして帰ってきて積んで、いよいよこの朝鮮半島へ入るわけやね。ほんで真ん中あたり入ってどこや。ここの間でも、今度は朝鮮人が竹の竿に材木をくすげて動かす鉤で、今のようなビニールの袋あらへんもんやで、藁で作ったカマスちゅうやつやね。あれはぽーんってやるとよう引っかかって、ひっぱりゃそのままずーっと引っ張れる。そいつで入口のとこに積んどるもんやで、もんな引きずり下ろいてまう。ほんでこっちから何もすることない米こぼれるとべーっと顔にぶつけてやるだけや。そんくらいにしたりして。トイレもありゃせんし。
そうやって朝鮮入ってからも、とにかく1か月。このハルピンのヘイボウから釜山まで来るまでに1か月もようかかって帰ってきた。ほんでその内にはいろいろな笑い話があるわ。駅止まったたんびにトイレにみんな行くけれども、まあ小便の場合は何処でやっても男やでどうっちゅうことは無かったけれども、大便のが板があって、雨が降って水が溜まっとる、そこでするよちゃあ、跳ね返りがびゃあっと上あがってきて、尻が…はっはっは。そんなやつがね、しゃあないでしたけれども。外じゃ野原行ってしてきた方がええけど汽車がいつ出るか時間がちょっとも分からへんのやね。ほんでそんな苦痛を感じたり。有蓋車ってここ戸を開けたり閉めたり。ほんで小さい窓があるんや。ちょうどここに棒が2、3本あって。ここで尻出して大便するんや。小便もそうやったけれども中で寝たり起きたりせんならんで。ほんで米はここで盗られる。そりゃ中のほうに入れりゃいいゆうものの、夜になると大陸はどえらい寒なってね。風邪ひいたり、病気のもとになる。ほんで中の方は自分たが寝たり起きたりする。昼間だけ暑てかなわんだけやけども。ほんでここへ食糧や自分の持物積んだるんや。まあそういう状態の中で1か月と8日かかって山口県の、萩ちゅう小さい港や。それももう船は今の1万tや2万tなんていう大きな船じゃなしに、ちいと嵐がありゃひっくり返ってまうような。上陸用の船乗ったまんま大きい船へダーッと乗り込んで行ってまう船。なんか小さい1艘に10人くらいずつしか乗れん、それで帰ってきたんやね。まあ沈んで死んでまったらそれまでやっていうつもりで、帰ってきたけれども。
ほれでここに着いてまた、訓示が「今までしてきたことは、家内も友達にも誰にも話すやない。自分でしまっとけ、死ぬまでしまっとけ。」そういうことを言われてね、ほんで誰かに話したい、誰かに話したいことは話したいってそんな気持ちで、とにかく過ごしとった。ほんで太田の佐々木書店ちゅうとこ行ったらこれがあって、偶然目に留まったもんやで。「あったあった。」って。まあ、普通の人は、こういう尊い本があるのに全然読まへん。ここに書いたるのまったく一字も違わへん。やってきたことが。(読んでもらいやわかるやら。)ちょっと読むのえらいか知らんが、読んでね。 『日の丸は紅い泪に』
…ここで3年訓練をして今度、3年終わって入所するのがここ。まあ北も北。まるっきり端っこやね。ええとこやったここ。ここが1番楽しいちゅうか、いよいよ力入れてやれるちゅうとこやでそりゃ生きがいがあったわけやね。ほんでここが1年とちょこっと兵隊に行くまで。あとこれはこの訓練所におるときに、最初にここへ行ってここで軍用道路作った。あのまるきり奴隷みたいなもんやわ。軍隊に使われて。ほしてここでは軍用道路つくって。
関東軍ちゅうのは軍隊のうちでも、内地の軍隊よりも強い軍隊ちゅうことで、有名やったんやね。ところが戦争に負けるときは弱いもんや。もっとも弾薬もないし、兵器も剣やない、竹のさややった。剣を入れるさやが竹で作ったるんや。ちーと飛んだりすると竹が割れて剣が出て、自分にくすがるようになってまう。そんようなんしかあらへんかったんやで。軍隊としては強いあれやったかもしれんが、もう私んたが行った頃には弱いもんやったからね。その代り絞ることは十分絞られて。とにかく青春時代を全部、こういうことで過ごしちゃったんやで。それであの、人生のうちではどえらい被害を被ったと思うんやね。
教員の道へ
ほんで軍人は軍属まで、家族が亡くなるまで面倒見てもらえたけど、義勇隊は全然見てもらえん。たった5年間5千やったか、5万円の金だけもらって、あとは何にも援助はあらへんなんだで。まんだほかの死んだ者は軍属扱いになるか。おりゃ、死にゃあ良かったと思った。(ほんでもね、命からがら逃げてきて今生きとるでね)ほんでも命からがら逃げては来なんだけど。楽に逃げてきたで。ほんでここの地元の母校やけども、校長がどえらい熱心な人でね、学校の先生のお手伝いに来てくれんかっていって。その時が22歳の頃やな。22歳の時に来て、24年まで引きずった。「あかん。学校も出とらんし学問もさげとらんで、先生なんかになれる資格なんかないで駄目や」って断り続けてきたが、2年、もう忘れるころになったら来て。「頼む、頼む」て。ちょうど教員も不足しとる頃やでね。とうとうこっちが根負けしたというか、そのころちょうど静岡に富士川農学校ちゅうとこがあって、そこ入ることをあれして。試験を受けんでも履歴であの入校さしてやるちゅうて。入校の案内が早や来とったわけやね。ほんでそれ見たら、「そんなとこ行かんでいい。俺が農産学校の方もあるし、農業の細かいことなにもかもあるで見してやるで、勉強しや良い。」「先生やったら勉強できんやら」って言ったら、「いやいや、俺が認めるでええ」って。ちゃんとやってもいいって。とうとう負けて1年間だけやりますって。ほんで1年間過ぎたころ面白いっつったら面白い。学校面白くてかなわん。まあ黙ってやるかって。ほうしてやるんやったら免許証がない。免許証とるためにはどうしやええって。講習や通信教育や、そういうものがあるでそういう学校へ臨時で2,3か月はいけるで学校へ行くとか、そういうことをしやええって。そんでできることからやりゃええっていって、あの講習は夏休み全部休まずに、毎日土日は除いて講習に、ほぼの学校であったもんやでね、そんで150単位くらい講習で単位を取って。あとは、玉川大学の通信教育。これがえらかったわ。自動車の運転も素人やし、おそがいながらも名古屋の明和高校やったか。明和高校やな。あそこへ試験受けに。その試験が全部とんとんで通りゃええけども、1回や2回はちゃんと不合格や。これまた取り直しにいかんならん。まあそうこうするうちに、昭和24年に学校に入って、25年には臨時免許もらえて。27年に仮免許状を取ることができた。ほして昭和35年。35歳にして初めて、小学校教諭2級の免許状、それが取れたんや。ほんでまんだ足らんでって言って単位が。ほんでまた通信教育。そんで42歳。ちょうど親父の死んだ歳やな。42歳で初めて、1級の免許状を取ることができた。ほんでまあやれやれ、まだそりゃ中学とか高校あるで取れって。ほうしたらまあおじさん取れなんだけどね。そういうことがあったおかげに、なんとかもう、今はこんなにのんびりと暮らしができるくらいやで。
奥さんのお話
私んたも家におるときは戦時中やったよ。ちょうど卒業する時にはあれやったもんで。さつまいもを学校、勉強そのものやないもんでね、もう薪背負いから、さつまいも作って主食で食べてね、そういう生活をしてきとったんや。ほんでお嫁入りしてもらうときには、お米が配給で。私の在所はお百姓が沢山やったもんで、そのお米を物々交換して塩を貰ったりお砂糖貰ったりして、物々交換して食べとった。そうやけど配給でしょ。お米もこのくらいしかもらえへんし、ほんで麦こんくらい入れてお米こんくらい入れてご飯炊いとった。ほんでこういう夏の暑い日は腐っちゃってね。そんなような生活してきたもんで、まあ戦争終わってからでも苦しい目にあって来とるでねみんな。なかなか自由なあれがなかったよ。配給やったね。ほんとにお米がないのが残念ね。そういうことになると。まあ辛い思いしたなって思う。
岐阜駅
軍隊から帰ってきてあの頃汽車なんかまともに乗れやせん。窓から飛び込んだり下りたりするようなそんなような混んでまって。ほんでそのようなで、わしらのような体の小さいものは窓からぴょんと入れたで、ほうやって乗り降りしたりね。ほんで1番驚いたのは岐阜の駅。降りたことはええが、あんまり駅を利用したこともなかったけれども、春日に行くときには2,3回は行ったことあるもんやで、ホームへ降りて来たら町はむちゃくちゃに焼け野原ちゅうやつやね。あれになってまっとるし、ホームなんかさっぱりどこへいってまったやらわからへん。駅員に聞いてなにした。がっかりしたあん時は。まあほんとに。
(自分で整理せないかんてもう早や歳になったもんで構いたくないでしょ。ここを若いもんがやるとね。ほんやもんで知らん顔して逃げてまうもんで、よけ何処へしまったかわっからへんようになる。でももう必要ないわ、私が死ぬまではっていうくらいのことやわね。よう聞いてくださったねほんでもね。ほんで上手に話がしたいけれども、まとまった話ができんもんで申し訳ないと思ってね。)
奥さんの兄
(15歳の時に思い切ってみんな有志のものは行くちゅうことになって、ちょうど私の兄もね、一緒やったの。旦那と。一緒に行って、戦争終わって逃げて来よるうちに、腸チフスちゅう病気になってまって、ほんでやっぱり入院して。『死亡』のとこにあるんやけど。水が飲みたいけど飲んだらいかんって。まあ逃げてくるもんで飲みたいだけやわね。病気やから。でどうやっても飲まずにおれなんだで飲んだらそれが最後。そのまま倒れて亡くなっちゃったわね。そういう話を聞いて、ああほんとやったなあと思ってね。)
今思うこと
こういう大東亜戦争で犠牲になったものの気持ちをもうちょっと察してくれな敵わんな。大事な青春時代を、国の為の国策やなんか。そんなふうにして酷い目に遭わされてよ。1か月の日当が、義勇隊のうちは3円や。1か月3円やよ。1年経って36円や。そんな報酬でさ。軍事訓練が多かったとは言いながら、畑はいくらでもはえとれちゅうんやで、あっちの土地はよう肥とって無肥料でなんでも採れるやっちゃで。だいぶ野菜も穀物も、採りよったんやね。生産しよった。そういうやつの金がだいぶ入っとってもいいような気がしたんやけども、微々たるもんやった。
自分体験したことがええことならええけれども。惨めな中国人をあんな目に遭わせちゃってよ。どうせ殺すんやったらそのまま釈放したればよかった、生かして。というようなそういう憤慨するっちゅうか、まあ心が収まりつかんで。そういう経験しとると。(だから日本人もそうやって痛めてきたんやね。あの返しが来ると思うんよ。ほうやけどそん時の思いはどうにもならなんだっていうでね。やらんならんかったもんで。大変やったらしいよ。)死体を焼くときでも、みんな「ええにおいがする、ええにおいがする」って言いよったけども、俺はちょっともええにおいせん。そういうのに携わっとらんものはなんやろなんやろって知らずにおる。(こんなことしてええんかしらと思ったってね。そういう話はようくしたけれど聞いたけど。15歳から行って青春時代は何にもないもんで。)そういうことで、安全保障制度はええかげんにして、日本を今迄通り平和にしてほしいちゅうことは、思うね。一番、そういうことは強く思う。
この開拓の政策でもそうやけども、なんやかんや言っとる上の。昔は特に軍閥主義やったであれやけども、一部の者に引っぱられてまったっていうこと。でこんな大きな戦争になっちゃったやね。勝ちゃええけど負けてまった。(負けた悔しさは何ともいえんわね。もう勝つばっかと思ってね。みんな一生懸命に満州広げようと思って、一生懸命やったんやて。そういう気持ちはわかるよ。ほんとに。そうやけども情けないことにね。日本は負けてまってということやで。まあ仕方がないことやで。それこそ知らん人はこんなん嘘かしらと思うようなことやね。ほんとにね、悲しかったと思うよ。)ほんで義勇隊生活ちゅうやつは、あの苦しい中も楽しいことがたいへんあったもんやで。気の弱い、トンコン(屯墾)病ちゅうやつにね、トンコン病ちゅうやつはご存じないかもしれんが、家に帰りとうてしょうがない病気なんやわ。そうそうホームシック。そういう病気になって帰った者も大勢おるんやね。
船と汽車の話
【向こうへ行くときは、どの港から出たんですか?】何回も行き来しとるで、何回もって2回だけやが。最初義勇軍に行くときは敦賀の港。福井県敦賀市。敦賀を出て北朝鮮の、今はまあそんな呼び方やないが、清津から羅津。ほれからみんな満州鉄道に乗ったわけやね。羅津で。ほーんで船が移動揺れてね。熱田丸ちゅうどえらい大きな船やったけど。敦賀を出港するときに、そのころはまんだ港で出るまであの、海にいろいろおるやつが出て来ちゃあ泳いどるやつを見とったら、クラゲがうようようよ~って出て来ちゃあ気持ちよさそうに泳いどる。子どもやわそりゃね、まんだ。ほうやもんやで釣れんかちゅうことになって。ご飯粒、夕飯食べるのまっとって、そいつを持ってきて釣ろうかって。糸にご飯粒を縛り付けて落といたると、ちゃんと咥えて上ってくるけど、1mから2mになってくるとどぼーんって。へっへっへ。そんな楽しみをしてよ。家を捨てて寂しいとも悲しいとも思わん。楽しいことやと思って、遊びながらしよったら、?ほうして、どんなけともいかんうちに、甲板に出とる者みんな船室入れちゅうことで。甲板が海になったようにでーんと荒れるようになった。ほうしたら船が揺れて揺れて揺れたかいて船の中のこういう前やけども、ところどころこう台がとってあって、このくらいの高さの。ほうして通路が割合広くとってあったんやね。ほんでひとしまひとしまに何人やったかあれしたかわからんけど、ほんであれ夜出て次の朝10時ごろに清津に着いたかな。もう酔っちゃって、船がどんなふうにして動いてきたやら何があったことやらさっぱりわからん。何か人の話によると「渡邉はおかあ、おかあ言っとったぞ」って。ほんとに死んだかしらんと思うほど苦しかったんやね。ほんで清津で降りて陸に上がったら、陸地が動いとるんやないか。ふらふらーふらふらーって歩いて。ほんで清津の町をふらふらっと歩いて。ほんで半日くらい歩いて清津を発ったかな。夕方早や羅津へ着いたんや。羅津へ着いたら今度は立派な開拓会館ができて、立派なホテルができて。そこで泊まることになった。ほんでもまだえらいことはえらいしまあどうでもようなって、みんなから離れとった。で便所行くと水洗便所で、こんなことは初めてやでどえらい便所に入ったってよ。ほんで笑ったことやったが、夜が明けるまでちったあ寝たやな。
朝、太陽が昇りかかっとったで何時、時計は持っとらんし、何時っていうことも分からなんだけども。汽車に初めて乗ったわけやけども、満州鉄道に。いやあ、良い汽車でね。別に広いこともなかったが、ここらへんの新幹線と一緒やわね。6人ずつ横一列に乗れる席で、どえらい重車に乗ったみたいやった。汽車の話するとまたいろいろ出てくるけれども、前を見て来よるとレールがさーっと沈んでくの。ほんで通り抜けるとぼこんと跳ね上がるんや。土地が軟らかいもんやでね。おそがいやったよ、脱線するか知らんと思って。そんな感じで、「ああ、珍しいことや珍しいことや」って何やったが、駅から駅までの間がひょっとすると1時間くらい乗って走らないかんとこがあるかもしれん。とにかく一面坡の訓練所に着くまでに、7か所くらい止まっただけやでね。もっとも特急やっちゅうこともあったけれども。ほんで今はそんなことないが、機関車の上には大きな銀がついとって。乗務員が綱引っぱりよる。カーブへ来たり踏切があるとこへ来ると。じゃーんじゃーんじゃーんと。ゆっくりしとるなあと。はっはっは。のんびりと綱引いてじゃーんじゃーん鳴らいて行くんやね。そんなやつが面白かったな。初めてやったもんやで。こっから近いとこで1区間、太田駅くらいまでは完全にあった。やっと乗っとる。ただ、汽車の中が朝鮮半島から満州国へ入ったころにはニンニク臭うてよ。まあ嫌で嫌でかなわなんだが、今はニンニクのにおいそう嫌いではないけどもあのころは嫌やったね。ほうしてまんだ胸に残るのは、あれは豆満江か?なにか川、朝鮮の民族衣装を着て、その高いとこ汽車通って行くわけやわ。今の中国の東北部入るときは。ほんで川が真下に見えるもんやでね。民族衣装がそれはとってもきれいで、こんなようないろいろな濃い色やでね。それを見とると、なーんたらきれいやろ。あれが朝鮮人かよなんてよて。ふっふ。ほんであの何しよるかちゅうと洗濯しよるんや。なんか棒の野球のバットをちょっと短こうしたこんくらいのやつ。あれで石の上でぽんぽんぽんぽん叩いて。それで洗濯終えたものは、何に入れよるそこらへんなにや見えなんだけども入れ物に入れて頭に乗せて、タッタタッタと帰ってきよる。入れ代わり立ち代わりで北朝鮮の住民かなんか知らんが、あれが珍しかった。ほして、汽車のデッキが、この汽車は高いら。1mかデッキがあるわけや乗るんやけども、野原から飛んできてほやほやほやっと乗れるように、低うこんなくらいしかあらへん。ほんで脱線かなんかしてもそうどえらい大きな事故になんかならへんのやな。まず脱線したなんちゅう話はしたことない。ほして、寒さが厳しいもんやで二重窓で、窓開けてもなかなか外の景色が見られない。難儀して開けて原住民に叱られたり。風が入ってくるとあかんでって。風入ってくるてええやんと思って。へへへ。そんなけが珍しかった。