T.Kさん

女性としての戦時下生活

取材時年齢

86歳

取材時在住

美濃加茂市新池町

取材年月日

平成27年7月31日

学徒動員

戦時中だったら、ちょうど私たち6年生卒業する時に、国民学校ね。国民学校6年生の時にあれやったもんでね、で6年生終わって、地元の女学校へ入ったわけ。19年の6月までその女学校で勉強しとったわけね。で戦争が酷くなったもんで、6月で学校がね、解散になっちゃったの。その女学校がね。その前は女学校行っとっても、山を開墾してね。さつまいもとか、それこそ豆やね。豆やなんかを「今日は開墾に行く日やで」って言って、山の方へ行って開墾して、さつまいもとかそういうものをを作ってね、やっとったんです。それでまだ終戦前の19年の6月までその女学校行って。で6月で女学校が、戦いが酷くなったもんでもう、解散になっちゃったんよ。で、みんなそれぞれが軍需工場へ勤めに行かんならんのね。その時にここの腕章に「学徒動員」ちゅう腕章つけて、「神風」と書いたハチマキつけて、6月に「また会いましょうね」って言ってそこでみんな別れて、4つか5つくらいの工場へ分かれて勤めに行ったわけ。地元では、大きいお寺さんがあったもんで、そこへ兵隊さんたちが来て、お寺で寝泊まりしてみえたの。劇場も全部、その軍需工場で仕事をやってみえたし、私たちおった女学校も軍需工場して、兵隊さんたちがそこで仕事をやってみえたの。その年はね。

【工場では何をされていたんですか?】なんかね機械の部品みたいなものをね、作ってたんやね。

お百度参りと千人針

各家庭にはね、戦闘機が爆弾落とすって言って、蔵も全部黒く塗っちゃって。分からないように塗っちゃったの、黒く。ほんで家にある金物。火鉢とかね、お寺の鐘つき堂の鐘ね。あれとかみんなその時分は供出しんなかったの。あるものをみんな出してくれって言って、お寺の鐘から、自分とこの家やったら、金の火鉢やとかね、そういうものあったもんで、全部出しちゃって。金物何にもないように。なんか軍の方へ出しちゃったんです。戦時中その女学校行っとる時に、お百度参りってね、戦争に行かれる人の、祈願を祈るために、百回お百度参りって言って、裸足で奥之院まで行って、石を投げて戻ってくる。それを婦人会の人が、「今夜、お百度参りやでお願いしますね」って言って、そうやってみえるとついて行って、そのお百度参りを戦時中ね、兵隊さんが無事に帰ってこれるようにっていって、お百度参りをしたわけ。あと、千人針っていってね、こういう筆のね、あそこにたんたんたんっと赤い穴開けて、赤の糸でこぶ作って、こういうのにね、千。千作るわけ。ほんで寅年の人は、寅の数だけ千人針作れるの。普通の人は一個だけしか作れんけども、寅年は寅の数だけやもんで、「あ、あそこの家には寅年の人がみえたであそこ行こうかね」って、そういうとこ行って訪ねて、この千人針を作ってね、届けたわけ。皆若い人は特攻隊って言ってね、私の主人もそうやけども、まだ二十歳にならんうちに、特攻隊へ志願してね、予科練へ。行ったわけなんです。

女学校の生活

【女学校は、美濃加茂にあったんですか?】美濃加茂やないです。益田郡の金山町。下呂市。

【女学校の時、竹やりの練習などはしましたか?】あのね、女学校の時はなぎなた。長い。なぎなたの練習ばっかしやったね。

【当時給食はありましたか?】私たちの時は無かったね。お弁当持ってったね。お弁当の中も芋やった。

おしゃれよりも

【当時はどんな服装でしたか?】服装は、それこそもんぺって言ったね。もんぺ姿やったね。おしゃれしたいっていう気持ちは無かったね。終戦まで、私たちの年齢の人はお嫁に行くときにもんぺ姿でお嫁に行きなさった人いくらでもいたよ。

「勝つまでは欲しがりません。」って言ってね。「勝つまでは欲しがりません」っていう、いつもそういうことを言われとったね。で何にも、欲しいったってものがあらへんで。欲しいものが、食べる物がないでしょ。で「勝つまでは欲しがりません」って言っとったけども。食べる物もなかったからね。

親戚が疎開に

【金山には、疎開してきた子どもたちはいましたか?】金山は疎開はなしでね、他からね。私んとこの実家なんか2世帯。東京から私んとこのうちにね、住んでたわ。みんなどこの家もそういうふうにして、自分とこの親戚の人が疎開してきてみえたんよ。うん。ちょっと私たちのすぐ隣村なんかお寺へ、名古屋から学生がね、3年生以上の人がお寺へ学徒の疎開でお寺さんへ来てみえたんやけども。私たちのお寺さんは、兵隊さんがそこで寝泊まりしてやってみえたもんで、子どものあれやなかったんやけどもね。(親戚は)若い衆は東京に残して、おじいさんおばあさんを私んとこのうちの方にね、預けに来てみえたんです。

辛かったこと

【戦時中辛かったことは何ですか?】辛かったことはね、毎日それこそご飯なんかなかったもんで、大豆のね、配給ってのがあったもんで大豆のご飯。大豆のご飯とかさつまいものご飯とか。ご飯って言ったってお雑炊やわね。そういうのを、戦時中は食べとったの。じゃがいも入れてね。ほんと米はどこにあるか分からんくらいの、そういう食べ物やったんやて。お米の配給制度になって、赤ちゃんから2歳まで、5歳から7歳までって、4段階に仕切って、一日のお米のいただける量が決まってたんやわ。で私たちは、そのとき終戦後に役場に入ったのね。役場に入って、その配給係っちゅうのをやってたんやて。そのときにやっぱしそういうお米とか赤ちゃんにはミルクの配給とかね。そういう配給制度が、終戦後あったわけ。お米も15日分くらいやったね、ひと月にお米が来る日は。あとは、それこそ大豆とかさつまいもとかじゃがいもとか入れてご飯食べるちゅうだけで、お米は15日分しか配給がなかったんよ。

【配給は、終戦前はなかったんですか?】いつごろからやったやろうねえ。私が終戦後、役場入ってから配給の係になったもんで、あれやろ。その前からもあったんやろうねえ。今月は、10日分しか米の配給がないよって言っとったことがあるでね。10日から、今月は15日分お米の配給があるよって。あとは自分たちでね、補って。まだずっと田舎の方へ持ってって、着るものと、お百姓さんのとこ行って、お米とかそういうのと交換してもらってきてね、食べとったんやて。

終戦の時

【当時は、戦争には勝つと思っていましたか?】今日は真珠湾攻撃やあれやって、みんな勝ったニュースばっかし入ってきたでしょ。けども、「あー、あそこ陥落したよ、ここ陥落したよ」ってものすごくね、喜んでいたんやけども。ちょうど終戦を迎えて、20年の8月15日に陛下のね、あれがあった時には、私たち泣いてね。「ああ、やっぱし、戦争に負けたんやねえ」って言って、話したんやけどね。

兄が戦争に

【ご家族の中で戦争に行かれた人はいましたか?】兄が行ったわ。私の兄は、戦争に行っておるわ。でも無事にね、帰ってきたんやけども。家の辺でもほんと一軒に3人くらい行ってる家がね、4軒くらいあったね。あの時分はほんとね「産めよ、増やせよ」ちゅうときでどこの家族も大勢な子どもやったの。うちも八人兄弟なの私。女4人と男4人の。八人兄弟やけども、まあほんと皆どこの家も7人8人が多かったね。子どもが。

【お兄さんの見送りはしましたか?】昔はあったよ、うん。みんなして送ったんやて。お宮さん行って、それからもう日の丸の旗持って駅までね、送ってったの。今日は何処何処の人の出征日やでっていって。みんなして。で町長さんの挨拶があって元気で行って来いって。

【その時は、「勝ってきて」という思いでしたか?】そうそう、うん。その時分にね、歌があってね。「咲いた桜が男子(おのこ)なら 慕う胡蝶は妻じゃもの 生きて咲け桜花 俺も死のう 華やかに」って。その歌がもう頭にこびりついとる、うん。