K.Oさん

忠君愛国の世の中

取材時年齢

92歳

取材時在住

美濃加茂市山之上町

取材年月日

平成27年8月7日

兵隊検査

歳はあの人(S.Hさん)より一つ上。あの人は、大正14年の4月1日に生まれただろ。この私は13年の8月18日に生まれとる。学校は1級上やで。兵隊検査は一緒。わしんたの年は適齢やって言ったやら。ほれで繰り上げって言って、1年したらもう一緒にやったの。兵隊が大勢要ったで。あの人とは繰り上げで一緒で。4月に兵隊検査を受けて、早いものは8月の31日に兵隊に入ったの。あの人?分からんわしには。いかに行かしたということがね。その年の内に行ってまっとるでよっぽどのものが。19年に。

忠君愛国

【戦時中に体験されたこと、気持ちなどは?】戦争の時分の気持ちは、なんにも他ごとないで「忠君愛国」って言って。君に忠義、国を愛する。それに尽きる。昔の日本人はな。ほんで唄でも、「海行かば、水漬く屍山行かば、草生す屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ」という唄を歌って行きよった。それを誰が作らしたということはおじいは知らんけども。そういうことを若いもんに教え込んでしまって、戦争をやったの。で覚えるね唄でも。「今日よりは顧みなくて大君の醜の御楯といでたつ我は」ちゅう。それは大昔、朝鮮から攻めてくる、九州へ。あそこ行って防ぐ兵隊に、、防人や。そういうふうに、唄あった。それは天皇陛下のためということを伝えることばっかで。日本中がそういう気持ちになってまっとったんや。ちょっとも苦にせやならんだ。わしんとこ兵隊で行っても、死ぬものだとしとった。わしは行かなんだけどもな。行けなんだで今残っちょる。今でもこんなえらがっとるちゅうことは、若いときからそういうふうで。えらかった。そんやもんで行けなんだ。

連れ

生きておれるだけの空気を吸っとる。今でもね。こんなもんで吸っとる。まあこういうことで、男は日本中でも少ないの、今現在90越せるのは。男は80代で亡うなってまって、90ゆうとよう越さん、なかなか。おじいんたの同級生でも、おととし12月までに、その前年91ていう年に7人亡うなった。8人おったんやけど。でおじい1人残っただけやった、92の年に。だいたい90は容易に越せんなあと思って。山之上ばっかやないよ。古井も川辺も太田も連れいっくらでもおるでおじいには。福田さんもや。そうやってみるとそれが、おらんようになってまった。おれんかおらんか分からんけどね。戦争と両方で。

別にね、戦争に行かんとっても情報はどえらいことある。当時新聞を見とる。テレビはないでラジオだけ。そのラジオも無い家が多かった。ここへ天皇陛下の玉音放送でテープを持ってきてやっちゃる。今度、皆で聞くようにって。おじいちゃんは、今でも本が好き読むことが。皇室図書出版協会ちゅうとこで、昭和天皇、天皇陛下の本をいろいろ買ったら、録音テープを2つ送ってくれてあったで。ほんでそれがひとつは、終戦の?っていって、まあ負けようさといったときの、天皇陛下のお言葉のね、録音は持ってきたるここへ。みんな忘れちまっとるでいっぺん聞かせようちゅうて。ほんでおじいちゃんの兄弟は戦争で亡うなっちょるで、そこに毎年、昭和60年からおととしまで行きました。おととし末に患ったもんやで行けんようになってまった。ほれでもまあ去年と今年はおじいの子どもが行った。靖国神社は毎年行くで。今度の15日も、子どもは東京へ行きます。美濃加茂で5人かそこら行くやつ。お姉ちゃんはどこや。古井の本郷町。あそこらにはだあれも、おらんなあ。おじいんたの連れでもまあおらんもん古井でも。下古井にひとりおる。

おじいもよっぽど記憶しとるつもりやけども、書いて残いとかんであかんのや。書こうかなーと思っておるだけで、生涯の思い出として。

国を守る

この負けたときには、前の天皇陛下がね、「朕はどうあろうとも、無辜の国民をこれ以上死なすことできん」と言わしたで。それは広島に新型爆弾落といたやら長崎の事やら、いっぺんに何十万と死んでまっとるや。何にもせん人が。兵隊なら別やよ。で無辜の国民ちゃあ、何にもせん人やら。そういうことを考えてみると、やけどもそれやったら天皇陛下のために死んでまうことやったけども、天皇陛下はそんなことやない。考えたら。まあ?あん時の日本の大将、東条英機かだれか戦争は?っていっとって、はじまらなんだ。天皇陛下が?したで受けたの。そういうことをテレビでやっとらした。昨日NHKのドキュメンタリーとかで。毎晩やっとるわ。8時からか、おじいちゃん10時くらいまで見とるで。そういう事を考えるとありがたい天皇陛下で。日本の国民全部が一致団結して、日本を守っていくちゅうこと。手前勝手なこと言わんように。おじいちゃんはその気持ちは、絶対今でも変わらせん。戦争中やろうと。平和やちゅうことは、戦争があって初めて平和や。うん。そういうことを聞きに来てくれるでありがたい、おじいちゃん話いてやれるで。今の子どもにそれを伝えると思う子どももおらん。ほんでもなんで嫌いやちゅうことや。嫌いやない、大事なことやぞって。おじいちゃんはそう思う。そうやったこうやったって。

桜の散り処

70年前に、隣のお兄が同い年のお兄が兵隊に行くとき。そのときに唄を作る。村長さんが好きやったと。おじいも好きやったよその時分から。唄で覚えがあるで。「征くは南か、東か北か西か桜の散り処」征くとこは西かって、地獄か極楽か進んで行くとこやで。攻めてくは、南方か東方か北方か。全部言っとる。兵隊を桜と言った。大きな桜と唄っとるわ。桜ということは兵隊、人間。若い。咲いていたと。ほんでそれが散りごろかといわした。おじいちゃん、70年前のことちゃんと覚えがあるんやで。そう?自分に?やないけども。
おじいちゃんも役場行ったよ。おじいちゃんは昭和15年の4月から18年の7月まで役場やった。ほれで大分?教えてもらいました。今のおじいちゃんのお父さん。そのおじさんは、?人やった。ほうしていろいろ教えてもらった、坊やで。小学校は?で。ほれから、あと農業へ移った。そうして戦争に負けるまで農業に。当時は産業組合っちゅったけどね、農業へ移って。終戦でまあ百姓やりますか。食べ物作らな生きてけんもんやで。親が年寄になるでな。でおじいちゃんは親のおとっ様は43、おっかさんは41に生まれた末子。一番末子っていうか末。末っ子。

よう聞きに来てくれた

そんなことやけども、よう聞きに来てくれた。ありがたいわ。聞きに来てくれやあ。おじいちゃんは家に孫がおらんで。嫁さんがないで。おじいが死んだらそれきり。うん。子どもが古井の川合の3丁目に行っとるもんやで、世話になって今生きとるだけ。まあ死んだかもしれんで。うん。ありがとう。