R.Mさん

機銃掃射から逃げた

取材時年齢

82歳

取材時在住

美濃加茂市古井町

取材年月日

平成27年8月3日

※()内は、旦那さんであるT.Mさんの発言

焼夷弾の恐怖

一目散に走るで、中の鉄砲撃つ人まで見えたの。やけどあの人んたはそんな横なんかお構いなしに機関庫狙いやあたもんで、田んぼばっかで太田の駅までそう高い家あらへんもんで、屋根すれっすれに行った。あれは怖かった。もう1回は、今の太田病院の隣の公園になっとるとこ。あそこが昔警察で運動場があって、太田病院はそのままあったけど今の病室の方が兵隊さんがみえる官舎みたいになってて、大勢みえたんやて。で焼夷弾があちこちで落ちると、あれどこ落ちた時やったね、可児市広見に落ちたときの不発弾が、5本こうやって並んで据えたったの。太田病院の塀のそばに。その時にまんだ空襲警報のうちやったけど、兵隊さんが3人か4人出てきて、ずーっとその真空管を触ったりなんかしておったらひとおつが爆ぜて、パーッと。ものすごい音で爆ぜて生ゴムが飛んでね、落ちたとこ全部火がついて燃えるのよ。ほんであの時は怖かったでね。私も太田病院の近所やけど、みんなほとんど家あらへん桑畑の方が多かったもんで、桑畑へ走った覚えがある。あの時は怖かった。まあ怖いことちゅうかなにかはそのくらいの。戦争ちゅう戦争は、各務原の飛行場やりゃあた時も全然関係なかったし、名古屋の空襲は天神山、山と山の間をサーッと飛行機が連なって行って、焼夷弾やろうねぇ。爆弾がたんたんたんってきれいに並んで落ちる。そういうとこを見とっただけ。(後からダーッと明るくなるだけやな。)うん。(燃え盛るもんで。)そのくらいでここら辺は、戦争って言ってもわからんね。直接は遭っとらんで。みんなここら辺の人はそんなけ怖い思いしとらんと思う。桑畑へ逃げたのも2回くらい。家の裏庭に防空壕掘ってそこに箪笥入れたりなんかして、食糧がないもんで、大豆を炒ってカンカンに入れて、それが防空壕へ入れたりよったの。防空壕へ入って、それを食べとっただけで。そういうことをやったね。で学校のくろ周りは全部防空壕掘っちゃってね。鉄棒から何からとっちゃって。くろ周りに防空壕掘って真ん中は芋畑にして。太田の学校はそうやった。(うちらのとこは兵隊さんおったで。)うん、うちらんとこ兵隊さんはあらへん。(山之上は畑すぐ枯れるもん、木があるもんで。)そうやね。(山あるしね。)山やし、桑畑も多いし。

勉強しないで

ほんで警戒警報が鳴ると、学校で並んで軍団でさーっと家へ帰りよった。ほんで私ら最後の年やったか。今のあの駅前通りに木村農機ってあるわ。太田の駅前通りにね。あそこの裏の加茂学園って知っとる?幼稚園。今は分からんねえ。かくとうさんって酒屋さん。あそこに木村農機の工場があって、そこの工場の、亡くなってみえん人やけどトタンね、大きなトタンを鎌の形に切りゃあすの。こうやって。順番にその鎌の形に切りゃあたのを、私ら女も男もみんなばふっちってね、バーッてまわって、鎌の柄付けちゅうんかな、刃付けちゅうんかな。鎌を研ぐわけ。ダーッと研いで、足らんちゃあせるとまたやったりして。それに行きよってそれも警戒警報が入ると学校から並んでやよ。いったん家へ帰りよった。まあ、戦時中っちったのはそんくらいやね、太田は。(うちらは部品を、他所のうちへ運びよった。隠しよったんかわからん。)隠しよったんやらねえ。この辺もね、桑畑ばっかやったもんでね。(倉庫がないもんで、そういうとこへ借りたんやね。)そうやな。畑で、倉庫が3つくらい並んどったの。でここは私の在所の畑やったもんで、その畑へ来ると桑畑のあさから、そういう倉庫がこういうふうに3つくらい並んどりよったの。ほして中をのぞくといーっぱい入っとりよったけど、終戦になってからはからっぽやった。(今の本郷町くらいやったもんな、家があるのは。このへんの太田の町の真ん中はね、そうあらへん)ここら辺家あらへんなんだ。畑ばっか。桑畑やった。41号線もあったけど、(駅前通りも、駅の周りも全部田んぼやったでな。)うん、あんな道あらへんなんで、後からできた道。(この辺のこっちの通りもなかったやら。細い道もね。41号もそうやもん。)41号だけあったやないか。(あったか。)41号はあった。21号と41号はあった。広い道ができたて言いよったけど、今広くないもんね。まあとにかく、学校へは出てかなかんけど本は無いで勉強はできんしでまあ、そうやって桑の皮むきに並んで行ったりとかその加茂工場行ったりとか。そういうことはやったけど。他の学年は知らんよ。

終戦と進学

ほんで途中で、戦争が終わったもんで、6・3・3制になったわけ。今の中学1年が高等1年で。2年で中学3年になったわけ。けどみーんなあの時分にね、今無うなってまったけどSONYの前にグンゼっていって、製紙工場があったの。あそこへ女の子んたほとんどいっちゃって、中学行ったもんは女6人やっただけ。男が何人行った、30人くらい行ったか。とにかく三十何人の一クラスで3年生卒業させてもらったけど。で坂祝にも工場があって、坂祝は製紙工場やなくて紡績やね。あそこへもだいぶ行きゃあたわ。(今のパジェロの前やよ。あそこにあったんやな。)うん、そうやねえ。

今はプールはあるし、学校はあるし、本なんでもあるし、お金さえありゃなんでも買えるけど、あの時分はお金があっても、ものが無くて買えなんだの。うちらはサラリーマンやもんで給料はちゃんちゃんともらえよりやったでお金はあっても、(あのころは物々交換やったもんね。うちら百姓やもんで、米持っとりゃなんでも買えたんやて。)ほうやったね。買いに来とりやったね。(向こうからみえるもんでね。向こうの人がこういうのどうですかって。とくにみえたのが茶碗とかやったでな。ああいう食器とかそういうの持って、米と換えに来とったね。)太田はそういう人はなかったけど、うちらもお金を持って、百姓へお米を買いに行った。坂祝の方へ。それはおばあさんの役目でね。おばあさんが行きよりやった。まあそのくらいやないかな。怖い目ちゅうのはほんとその焼夷弾が爆発した時と、(えらかったことは?学校で。学校行っとったやら。とか戦争に関係してえらかったこと。)学校、えらいことも何にもあらへんわね。その学校のおかげで学校の畑へも行けたし田んぼへ行ったし、畑の草引きからモミから何からやらしてもらった。田んぼも植えたり田の草とったり、ということもやらさしてもらったけど。百姓やないもんで。そういう事はやらしてもらったけど。でもなあ。怖いちゅうのはそれやし、何にもとにかく何にもあらへんもんで、やることもあらへんやろ。

本が無かった

【本は、どうしてなくなってしまったんですか?】戦争で全部とられてまって、新しい本が来ないの。ほんで謄写版で刷った本を貰いよったけども、それもなくなって本がなしになった。1年ぐらいやったかな、本が無かったの。で勉強もすることあらへんし。(あんたはとくに少ないで。どえらい来とるもんで太田なんか、そっちにとられてまうもんで。)うん。あらへんなんだし、姉さん兄さんのある人はその子の本を借りてこいちゅう話やったけどそれもあらへんもんで借りてきた人と見たりなんかしたときもあったけど。でまあ、そのうちに、空襲ができるようになったもんで、警戒警報になると一目散に家へ帰るだけやろ。分団で。家へ来たって何にもする仕事あらへんもんで遊んどるだけやわね。(うちらは子守りしたやら。子守りして風呂沸かいたりなんかしとったんやでな。)うんそう。家はおばあさんがあったもんで何にも私はやっとらへん。お勝手、洗濯、みんなおばあさんやったもんで。

当時と今、どちらが豊かなのか

家んとこは百姓やないもんで、昔の人んたは子どもはみんな袴に着物やったでしょ。大人ももちろんやけど。ほんでそういうものがあって、そういうのでズボン作ったり、おばあさんのコートやなんかで学生服作ってもらって、修学旅行に行ったりなんかした。うん。まあ、ほとんどズボン作ってもらった。袴で。…でも今思うと、あの時代の方が何にもものがないもんで良かったかもしれん。今は何でもあるもんで、お金さえありゃなんでも買えるもんね。あの時分小遣いもらっても買えなんだもん。貰っても買いに行くとこなくて。